八体目「緩やかに上る」

 ミノを出て関門を抜けると、高地にミノよりも大きな字は無かった。

 渓谷から見上げる斜面に、二軒、三軒の家が建っていたり、川が近いところでは、天幕を張った寝床が敷かれたままになっているくらいだ。レンテに水を飲まそうと、下りられそうな所に入ると、そこは川が緩く曲がって、水の流れも遅かった。川の幅よりも広く、砂利が溜まっていて、そこだけ地面は土の色でも草の色でもなく、磨かれた石の白い色をしていた。

 他に言うとしたら、獣の骨片のような、白い色だった。

「ここなら水も多いし」と言いながら、ルルガルは川岸に駆け下りた。

 レンテを引いて追い掛けながら、僕は上流と下流に、崩れそうな場所は無いかと目で探してみた。下流は、少し行くと谷になって、その辺りから急流になっているようだった。木々に遮られて、先はよく見えない。だけど水の音が聞こえる。ルルガルは水際に座り込んだ。

 そこには木を組んだ棚に魚が干され、丸太の椅子には毛皮が掛かっていた。

 焚き火の跡は、まだ火が消されて間もないようだ。

 レンテに水を飲ませておき、僕はルルガルの横に座った。「またやるんですか」

「一つ一つ、形は見えて来ているんだけどな、水はどうも難しいから」

 ルルガルが気が引いたような言い方をするのは珍しい。

 曲猪討伐の時から後も、山鼠を捕ったり、木の実を取ったり、倒木を退かしたり、ルルガルの秘石術を見る事はあった。その多くは三つの石だけで用が足りてしまうから、他の秘石術があるのか、と尋ねようとは思い付かなかった。一度、優れた水術師の話をしただけだ。

「霧を操る細かさは、それも兵隊に扱わせるとなると難しいんだよ」

 ルルガルはそう言いながら、その時は自身も水を操ろうと試みていた。

 五シパージ間くらいの水が飛び散って、川の真ん中に小さな氷が出来た。

 水術は苦手らしい。

 骨片のような石を拾っては投げながら、ルルガルが何かを探している。また川の水を飛び散らせて、干上がらせたり、岸壁を崩落させたりするんじゃないかと、僕は恐れを顔に出してしまいそうで、後ろの森の中に目を向けたりした。何か、ルルガルが手を止めて言った。

「気が付いたか」

「何がですか」

「おお、いや。森の中から誰か我々を見ているようだ」

 ルルガルが曲げた指の先に、慌てて顔を向けて、見てしまった。草の中に身を潜める、毛皮を纏ったような人の影が、一、二、三……いや、数えられなかったけど、三というのは、そこに見えている物の数だ。「そこの寝床、野盗ですか」と聞くとルルガルも静かに頷いた。

「三人、一人は弓を持って、高台の方に回っているようだ。木が多い所」

「どうするんですか」

「どうするかは護衛役が決めていいんじゃないのか」

 僕は腰の短剣に触れながら、ルルガルと同じ所に目を向けた。横から肩を叩かれる。

「これだ、これ」と、三つの石を渡される。「指と指の間に、そうだ。それと、この手で小石を拾って、それを握った手で、野盗の体を隠すように横から、こう」ルルガルの一指が狙った所に居る野盗を見据え、それを横から握った手で隠すと、野盗の近くで何かが跳ね飛んだ。

 赤い帯を引く、丸い塊が見え、それより、枝や木が折られる音がいくつも鳴った。

 地面が揺さぶられる音。

 野盗の近くに大岩が落ち、野盗の頭が落ち、岩に血の印を残して地面に転がった。

「うおおおおおおおお!」

 もう一人の野盗が飛び出した。手には石斧と、石槍を持って、衣服といえば毛皮を腰に巻いているだけだ。髪も髭も伸びたまま、小さな骨の飾りを耳や顎に付けて、それと炎みたいな怒りの顔をしていた。手を出し、横に動かしても、しかし何も起こらない。「シマパン」

「え、なんですか」

 振り返ると、そこに、矢が刺さった。ルルガルの首にだ。

 後ろから斜めに刺さって、前から突き出した鏃に血が滴っていた。

「石を」首を押さえ、濁った声でルルガルが言った。「拾え」

 素早く石を拾って、迫って来る次の野盗を隠した。遠くから大岩が飛んで来て、岩は野盗の両脚を潰し、砂利の上を転がって血を撒き散らした。「羽虫どもが」と、力の弱った声で野盗が吠える。「寄越せ、金を寄越せ。その服も、その馬もわいらの」その体を岩が潰した。

「ルルガル、首の具合は」

 歩いていて、すぐに倒れそうなルルガルを追うと、急にルルガルが膝を付いた。

 手を付いて、地面に這うような恰好になって、首だけは横に向けて矢を避けた。その顔の近くで、地面に矢が突き刺さった。川の向こう岸だ。見上げた岸壁の上で、茂みに入っていく獣のような動きが見えた。石を拾った。岩を動かした。当たった。石が川の上に落ちてきた。

 当たったか。

 次の石を拾い、岸壁の上を狙い、待った。

「ルルガル」と呼んでしまう、倒れたままだって知っている。どうすれば。

 慎重になって、ゆっくりと後ろに下がった。砂利は滑りやすく、足の置き場が定まらないから、急ぐ事は出来なかった。目の下に倒れたルルガルの姿が入った。もっと、矢が届くか届かないかの遠さだ。右、左を見て、大岩が目に入った。その近くに倒れている、野盗だ。次は横に走り出して、大岩の陰に潜り込んだ。野盗の上体の半分がまだ大岩に踏まれたままだ。

 腰に毛皮を巻き、石斧や石槍を持ち、それと弓、矢筒が、近くに落ちている。

 一ビーンくらいの短い弦は、川の向こうまで矢を届かせるのも易しくないだろう。

 向こう岸を覗いた。

 ルルガルの背中に新たな三本の矢が刺さっていた。

 岸壁の上、獣のような動きを探すと、大岩の近くの地面に矢が突き刺さった。

 見えた。木の後ろ、野盗が次の矢を引いている。

 場所も覚られている。

 弓と矢を見つけた事も、知られているだろう。

 野盗が矢を射るのに合わせて射るしか、僕の方が矢を当てる機会は得られない。

 まだ引かない。大岩の逆側に回って、少し後ろに下がってから、岸壁を見上げた。

 居ない。居ない。居ない。

 木は少なく、岩の露わになった岸壁は、蛇のように這って動かないと、姿を見られる。見えないという事は、それは、もうそこに居ないという事なのでは。逃げたか、川に下りたか、後ろに回って来るのか、と考えて、周りに目を走らせた。最初に潰れた野盗の体がある。川を向こうにした大岩の陰から見えるどこにも、動く物はない。木の葉が風に揺れているだけだ。レンテはまだ水を飲んでいるのか。野盗に馬を奪われて、逃げられでもしたら、大変な事だ。

 大岩の陰から、顔を出してみる。

 影が、目の前に迫っている。

 野盗の影だ。弓と矢は手放され、手に石斧と、石槍も持っていた。

「やりやがったな」野盗の濃い髭の奥から怒声が響いた。「マージも、ダニも」

 弓も矢も、ない。川だ。川を流れていくのが見えた。

「この小童はここで終わりだ」

 振り下ろされる石斧の、内側に踏み込んだ。

 肘を取り、腕を返して、そのまま野盗の体を体で押すと、野盗が尻を付いた。

 石斧を奪って放り投げる。石槍は踏んでいるから、野盗には持ち上げる事が出来ない。

 それでも、野盗は石槍を手放し、小石を投げ付けて来る。小石が無ければ、僕の衣服を掴もうと手を伸ばして来る。この野盗は、川を渡って来たんだ。僕が見ていない所で。水の中に隠れて、そして大岩までゆっくりと忍び寄って来た。そんな事を思った。そして野盗は、野盗か僕の命が止まるまで、抗おうとするだろう。その次は急にラパン小兄の事を考えていた。

 ラパン小兄を見つける為に来た事を。

 戦場なら、誰かを斬り、斬られる事もある。

 生きていて欲しいというのは、家族としての願望でしかない。

 今も生きているなら、他の命を踏み越えて、生きているという事だから。

 僕が小兄を見つける為に、その壁になる人々をどうしないといけないか、一度も考えなかったのか、考えていたはずだ。野盗が居る事くらいは知っていたはずだ。短剣を抜くまで、いくつも石を投げられ、顔に二つも石が当たった。もっと考える時間が欲しかった。野盗の首を深く切り裂いて、血が掛からないように地面に向けた。砂利の間に赤い血が染み込んで、黒くなっていった。もう動かない。石槍を拾い、僕は、そうだ。ルルガルの所に行かないと。

 ルルガルは手を突っ張って、弱々しく立ち上がろうとしていた。

「ルルガル、首の。その矢は、どうしたらいいですか」

「野盗の所に」まだ喋れるらしい。「運べ」

 ルルガルが這った二ビーンほどの砂利は真っ赤に染まって、それはルルガルのローブも同じだった。もう足りないんじゃないかという血の多さで、見ている方が倒れそうだ。脇の下に手を入れ、矢が地面に、どこにも当たらないように、少しでも自らの体を除けながら、ルルガルの体を砂利に引きずって進んだ。半分も潰れた野盗は良くないようだった。森の方に、頭が跳ね飛んだ野盗まで行って、やっと着いた時に、野盗を運んだ方が楽だったと思い至った。

 体を横に向けたルルガルが、野盗の体に触れた。

 冷たくなって、青黒くなり始めている体は、ルルガルの手で腐らされた。

 腐肉が地面を這い、ルルガルの近くに集まっていた。また別の手で、ルルガルは首の矢を引き抜いた。「せなか、のも」と言うと、首の穴から血が溢れた。僕はルルガルの背中の矢を引き抜き、それを並べて置いた。野盗の体が崩れ、ルルガルに向かい、ルルガルが立ち上がる。いくつか咳を鳴らし、深く息を吸って、ルルガルが言った。「治ったから、気遣うなよ」

「でも、あの……ローブに穴が開いたままで」

 他に言う事はない。なんで治ったのかなんて、聞きたくもない。

「ああ、そうか」背中に手を回し、眉を歪めている。「繕い屋も、もう無いか」

「穴を直すだけなら、針があれば誰でも出来るでしょうけど」

「そうか。シマパンは?」

「僕は、針仕事はしないので。あの。レンテを連れて来ます」

 向けられた目。侮りの色のある、ルルガルらしい目が、まるで矢に貫かれてなんかいないようで、僕は自らの見た出来事を信じられなかった。野盗の体を使って傷を埋めるのも、秘石術なのだろうか。如何術師なら、人を使う事が出来るのだろう。石とか、煙とかじゃない。

 それこそ人の真名を使っていいなら、何だって出来てしまうじゃないか。

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