七体目「ああ、ユヴァ様、ああっ!」
窓から差し込む光で起きると、寝台にルルガルの姿は見当たらなかった。
水を一杯飲んで、考える。
カバンはあるので、また戻って来るだろう。外に出て、渓谷の方へ歩き出した。
街道に並んだ家並みの裏手に、岩の荒々しい傾斜が見え、その下では、森に住まう首人達が瓶に水を汲んだり、衣を洗ったりしていた。靄の中で、首人達は枯れ木のように細長く、姿が消えそうになって、目を凝らすと、冷気と湿気で目が痛んで、その間に首人達を見失ってしまった。長い首と手足、鉤鼻に、細く尖った額と顎、耳が長く、赤っぽい肌は日に焼けた大地のようで、レプティラに似ている。衣に編み込んだ文様はレプティラのそれであるらしい。
靄が払われる前に、字の高地に歩いていった。
どんな字にも、ユヴァの礼拝所が作られ、朝から祈りを捧げている人が居る。
縦長の入口を潜ると、冷たい風が当たり、体の芯が震えそうになった。
四筋に伸びた礼拝所は天井が高く、中央は更に、聖輪の上にユヴァの像が置かれ、天窓から取り込んだ光が四方から聖輪を照らしていた。教師が像の脇に立ち、礼拝所を訪れた人に向かって説教を垂れていた。ニワの兵隊、字の人、首人の小人も居て、壁沿いの長椅子に、ルルガルの姿もあった。近づいて行くと、ルルガルは片手で自らの口元を覆い、黙れ、と示した。
「遅かったな」とルルガルが小さな声で言った。
「起きてすぐ来たんですけど」と答えながら僕はルルガルの隣に座った。
「ニワの連中」教師が僕らを見て、ルルガルは一度、黙った。「パラグラフと戦端を開いて欲しくないようだな。パラグラフを抑えながら、ネオン側にも柵を立てるつもりだ。どちらに付くかはまだ分からないが、ようようパラグラフだろう。鉄の王の出現は知っているようだ」
「じゃあ剣の瀬渓谷で会ったりしたら」
「我々がネオンの領地で何をしても、咎める事は出来ない」
教師が聖典を閉じ、入口の光に向かって一礼した。入って来たのは黒衣のバーバットで、黒髪を纏め、前掛けを付けていた。朝の仕事を済ませて来たようで、バーバットは僕らに気付くと、近づいて「戻ったらお食事と、湯に浸かるのでしたら先にお申し付けを」と言った。
「構わん。すぐに戻る」
「はい。それではまた」
ルルガルが立ち上がり、教師に話しかけるバーバットを目で追いかけた。「宿に戻って、出発の準備だな。シマパンは」と聞かれたのかと思ったら、ルルガルは礼拝所を出て行ってしまった。これから墓地に行くようだ。何をするのかは知らないけど、もうすぐに戻らなくても良さそうだった。僕はユヴァの像を見上げ、聖輪を見て、巡礼の旅を思って時を過ごした。
ユヴァと神々の逸話は各地に様々な形で伝わっている。
全てを一度に納めた聖典は無いけど、カーシュのような神や、他の神と巡り合い、教えを乞うたユヴァの記と、その旅に用いられた馬車の車輪は全てに共通している。聖輪は、旅の中途からは背に負うて歩く物になって、ユヴァの歩みに代わって旅の軌跡を刻む物になった。
修行の一つには、車輪を背負って巡礼をするという物がある。
外に出ると、暖かい日の光が字を包み込んでいた。
高地から低地を見下ろすと、動き出した人々の流れが、風を受けた帆のようだ。畑に向かう人、店に向かう人、宿に向かう人、それと広場に向かって隊列を組むニワの兵隊が見えた。礼拝所から出て来た教師が隣で低地を見下ろし、僕の肩に手を置いて、顔を近づけてきた。
「シマパンという人が」
「あ、僕です」
教師が頷き、白髪を後ろに掻き上げた。「ご兄弟の消息を尋ねているそうで」
「渓谷であったパラグラフとの戦いで」
「聞いています。お連れの銀髪の娘が、見つけたら報告をするようにと」
「見つけたんですか」
「いえ。今としては、川を流れて来る物もないそうで」教師が手を差し出した谷の方へ目を向けると、裾を絡げた女達が谷を下りて行くところだ。「日々、女達が漁をしているので、兵隊が流れて来ればすぐに見つけるのですが、下に居る時には兜の一つも見ていないそうで」
鉄の王が、金属の武具を全て持って行ったから、だろうか。
その名を冠する物を血肉に変えて身に纏う王、だけど。それなら鬨というのは、何を身に纏うのだろうか。他にも、砦とか、煙とかの王が居ると聞いた。それは、戦場にだけ現れる物とは思えない。「見つけないなら見つけないで、どこかで生きてるかもしれないですから」
「そうだといいです。では、お気をつけて」
暗い礼拝所に戻る教師を見送り、僕は、歩き出してから目的地を探し始めた。
広場で点呼を取っているニワの兵隊達は、銅の肩当て、胸当て、銅の剣に、銅や木の盾、槍や棍棒を身に着けていた。それが将兵にもなると、鎖鎧とか、鉄の籠手を付けていて、武具も違っている。その中に一人だけ、ローブを着た老人が混じって、透明な瓶を熱していた。
小さな焚き台の上に白い湯煙が浮かび、老人の顔の周りを曇らせている。
「間もなく」鉄鎧の将兵が手を上げ、言った。「護衛一隊、二隊はサンズを連れ、ネイ市に向けて出発する。各隊長は隊員が揃い次第、……どうした」そこに駆け込んで来たのは、裾の長い服を着た年嵩の女で、長い髪を纏めて被り物の下に収めているのが少し遠くから見えた。
女は膝を支え、息を大きく吸い、吐き、その時に半分に小さくなったように見えた。
やっと息が静まって、女が言った。「曲猪が、出たんで。助けを」
「大きいのか?」
「ネオンの兵隊さんが戦ってっけど」
「よし。一隊、これから曲猪の退治に向かう。ハーラーン、煙を」
ローブの老人が火を消し、瓶を布に包んで、歩き出した一隊の後を追った。
行ってみよう、となんとなく思った。
曲猪が出たのは、少し入った森にある家だった。
木を組んだ壁に大きな穴が開いて、家の中で家具がひっくり返っていた。
裏の庭にある畑は踏み荒らされ、馬車を幾度も引いたような跡が付いていた。その周りに監視所から来た兵隊達が、立てた戸板に身を隠し、その横から槍を突き出して、家に向かって少し、また少し進軍していた。家の中では、曲猪らしい荒々しい息遣いが聴こえる。獣の臭いがして、家を崩しそうな揺れが伝わってくる。だけど、まだその姿は、集まった人々の間からは見えない。「ニワ護衛団長、マメゴラ・パッダスだ。諸兄らは誰の指示で動いているか」
将兵のマメゴラが兵隊達に声を掛けると、後方に控えていた一人が顔を上げた。
「すまない。家の周りの守りを固めてくれると助かる。人が多すぎる」
「玄関の方へ。三人ずつ固まって動け」部下に言い、部下が散ると、マメゴラは畑に入っていった。「曲猪は。この家の中に居るんだな」マメゴラが抜いた鉄の剣は幅が厚く、滑らかな光を跳ね返した。剣を肩に乗せ、腰に吊った瓶を一つ、手に取って畑の真ん中に立った。
家の梁が落ち、屋根の一部が崩れて家の中に光が差し込んだ。
大きな影が穴の向こうに伸びた。それは更に大きく、穴の方に近づき、そこから、車輪のような物を覗かせた。曲猪の牙は、口の左右から頭を覆うように丸く反り返り、頭の上で屋根を組むように牙と牙が閉じている。それで曲猪は自らの頭を貫かないように、頭の骨が発達していて、牙は再び押し広げられて顔の横に、年を経る毎に幾重も巻かれて兜のようになる。
体高は三から四ビーン近くあって、体幅は更に大きくなった。
黒い皮膚に、棘のような固い毛が生えているので、触れるだけで傷になる。
そして。「繁殖に失敗した個体が暴れている、か」とマメゴラが言った。
家に近い方から「見えた」「来るぞ」と声が上がって、戸板が少し後退した。
マメゴラは、瓶を放って、宙間で剣を叩き付けた。
広がった煙は、たちまちマメゴラの体を覆い隠すほどになった。
壁の穴から渦になった牙が見えた。
そして煙の中には、マメゴラの他に、マメゴラの巨体のような影が見えた。
マメゴラの影は、声を張り上げ、剣を振り回した。その声を曲猪の咆哮が掻き消した。
前足が、地面を掻いた。何度も、何度も、そして鼻息の全てを吐き出した曲猪が、マメゴラに向かって、しかし煙の中にある影に向かって飛び掛かった。煙に入った瞬間、マメゴラはマメゴラの影の腹の辺り、通り抜ける曲猪の喉元に剣を振るった。赤く黒い血が飛び散った。
「浅いか」と言って、マメゴラがまた一つの瓶を手に取った。
曲猪は畑の中を駆け回り、戸板を跳ね飛ばすと、剣や盾を打ち鳴らす音を聞いて、後ろを振り返った。そちらに駆け出そうとすると、また次の音が鳴って、曲猪がそちらを向いた。そろそろ後退する戸板に囲まれ、曲猪は、マメゴラに目を付け、マメゴラが瓶を割って、それぞれの間を煙が遮ると、煙の中でまたマメゴラの巨体の影が、声を上げ、剣を振り回した。
「騒がしいな。狩りでもしているのか」
「あ、ルルガル。どうしたんですか」
ルルガルは果実を手から口に運びながら、僕に嫌な目を向けた。
「早めに出るって言ってなかったか、シマパン」
「あ、それは。忘れてました」
「まあいい。まったく手に障る。曲猪の骨だな」ルルガルは、持っていたカバンを地面に置いた。服や、食器や、細かい石や宝石を引っ◯き回して、前に見た三つの石と、小さな白い石を取り出した。それぞれ指の間に挟んで持ち、そして小さな白い石は、別の手で握り込んだ。
曲猪は、煙に向かって飛び掛かった。
ルルガルが白い石を握り、砕けると、曲猪の前足が躓いたように見えた。
マメゴラの剣が曲猪の目を貫き、脳髄を裂いて、赤く黒い血が飛び散った。
そして体を投げ出した曲猪は、また家の壁にぶつかると、倒れたまま動かなくなった。
戸板が前進し、槍の先端で曲猪を突いた。動かないと分かると、柔らかい腹の皮を何度も突いて、切り裂いた。家の表を守っていたニワの兵隊達は、マメゴラの側に集まっている。マメゴラは家の主に詫びていた。「再び家に突っ込まれてしまった。それと、畑の中に瓶の破片が残っている。箒か鏝があれば貸してもらえないだろうか」家の主が申し出を再び断って、マメゴラはやっと兵隊達に帰投を命じた。兵隊達は広場に向かって速やかに移動し、そこからマメゴラだけは引き返して来て、僕と、横で広げた荷物を片付けているルルガルの前に立った。
「見ていましたか」とマメゴラが聞いた。
「ああ、すごいな」とルルガルが答えた。「ニワには優れた水術師が居る」
「どの国も秘石術の研究は最優先ですからな。ところで、何かされましたか」
ルルガルは手を止めず、服や食器や石をカバンに詰め込んでいた。「何を」
「曲猪の骨が、急に柔らかくなった。手傷を負っていたのか、しかしミノの兵隊にそのような力は無いようです。もしや優れた石術師が」マメゴラの目は、血抜き、解体を始めているミノの猟師達を見ていた。家の方では、散らかった家具が片付けられ、補修の木材が運び込まれていた。「活気のある字だ。我々が手を加えずとも、曲猪くらいは退けられたでしょうか」
「実際そうだ。マメゴラは、あの煙を見せたかったのかと思った」
「いやいや、まともな戦闘であれを使う時は無いですよ。では」
答えを求めず、あっさりとマメゴラは背を向け、広場に戻っていった。
「シマパン、カバンを持て」ルルガルが言い、立ち上がる。「少し肉を分けてもらおう」
そして作業中の猟師を一人捕まえ、ルルガルのいつもの強い言い方で交渉を始めた。
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