六体目「一度引き返したらいいのに」

 ミノ字は街道沿いの宿場だ。

 高台の開けた地形に、谷川を跨いで三つの橋を囲むように広がっている。

 関門を抜けると、道の先に火の明かりが見え始め、森が途切れた所から、農場や牧場がぽつりぽつりと通り過ぎていった。その先には監視塔があって、周りにも二階、三階のある建物が集まっている。三つの橋と、谷沿いを通る街道は、少なくない人が歩き、馬も、荷車も混ざっていた。道に沿って商店が並び、それぞれの料理の温かい匂いに鼻を釣られそうだった。

 賑やかな字というのは知っていた。

 ガ字からここを通って主都に行いったから。

 この日には際立って賑やかだった。それこそ、関門の番兵から聞いていた事だ。

 馬が多いのは、遠方からの客人が来ているからだ。

 街の外れ、広場に革の鎧や銅の胸当て、肩当てを付けた兵隊が列を組んでいた。武器は骨を削って作った棍棒、穂先に研いだ石を付けた槍、そんなような物を持っているか、まとめて柵に立て掛けてあった。殿の兵隊が持つ旗には、山と海と表す文様が描かれていた。それは港湾国であるニワの標章だ。「ニワの兵隊だな。銅の装備という事は、下級の兵隊だろうな」

「それはそれでも強そうだけど」

「そう見せるくらいの事はするだろう。兵隊でもなければ日頃人は武器も持ち歩かない」

 関門で聞いたのは、遠くから使者が訪れている事、だから宿は取れないかもしれない事、それと番兵は「位のある人が来てんのよ。領主様と秘密の会合があるとかで」というような事も言っていた。「だから明けても主都に入れないかもしれんね。ところでどこから来たのよ」

 ルルガルが答えた。「主都からだ。剣の瀬渓谷に向かっている」

「そう、だったら一度主都に戻って朝にまた来ればいいんじゃないの」

 そのまま問答が長引いたけど、その後で通れる事にはなった。

 思うままの言葉を並べておいて、番兵は何があったかは知れないのだろう。

 僕らは、引き返せば使者の目的を聞く事は出来たかもしれない。だけど前に進んだ。

 ルルガルの指図で、ミノで一つ目に大きい宿に向かうと、その正面口の両脇にも兵隊が立っていた。二人、槍を持って、空を見ている。夜に入りそうな空は、地平の際まで薄赤く染まっていて、地面の物はどれも見分けられないくらいだ。夜を通して、そのままレンテを歩かせ続ける気だったとは思えないけど、そのレンテは、飲み食いもしないで、同じ歩調で進み続けていた。ルルガルが降り、宿屋の戸を叩いた。一度、左右の兵隊が身構えたけど、ルルガルの弱そうな姿か、考えの無さそうな動きに、また関心を失った。戸が開き、女中が出て来る。

 僕は兎馬から降りて、荷物を下ろせるように縄を緩めながらそれを見ていた。

 女中は、黒い髪を丸めて束ね、白い手巾を頭に巻いた、小柄な少女だった。

 黒い一体服は、裾が膝の辺りで大きく広がり、その上に白い前掛けを付けていた。

 白い靴下に、薄い上靴と、袖を絡げて帯のような物で縛っていた。そして少女は、ルルガルにも達しない若齢に見えた。それが、ルルガルの要求に怯え、中に戻ろうとして、体が動かないようだった。レンテを引いてルルガルの近くまで行くと、ルルガルは僕を見て、どうしてか僕に呆れたような目を向けてきた。「そこの旅人の二人、宿の女中と何を揉めているんだ」

 そう言って割り込んできたのは、戸の脇に立っていた兵隊だ。

「泊まりたいんだが、出来ないと言っている。部屋は空いていないのか」

「すまないが、我々がこの宿を使わせて貰っている」

「ニワの兵隊だな。街道から外れた所の広場で野営をしていたようだけど」

「こっちは兵隊とは別の、位のあるお方だ。襲撃を警戒しての事だから、許せよ」

「宿の主人は」

「主人から申し開きが欲しいなら、呼んで来よう。待っていろ」

 返答を待たず、左の兵隊が建物の中へ入ってしまった。

 宿には二階があって、正面と、右で内に折れ曲がって、そっちは主屋が続いていた。

 左には、宿で働く人が寝泊りをする為の、主屋よりも小さな建物があって、入口の近くに農具や籠や食器が置かれたままになっていた。僕はレンテを引き、レンテに怯えた女中の近くに行って「馬を繋いでおく所はありませんか」と聞いた。女中は両手で頬を押さえ、息を止めたままレンテの目を見つめ、また急に思い付いた様相で、僕とレンテを主屋の裏へと招いた。

 柵の内側に、一頭、二頭の馬が繋がれていて、草を食んでいた。

「あ、あとで牧草を運んで置きますので、寝床はそれでいいと思いますので」

「ええ。食事は、水を飲ませてやってください。レンテ、こっちだ」

「レンテ。聞かない名前」

「ヴリエン・レンテっていう名前です」

「兎馬ですか。長旅ですね」

「そんな事はないと思うけど、長くなるのかな。そちらの名前は」

 驚いた目は大きく開かれ、枯草色の柔らかい色が揺らいでいるようだ。

 女中は言った。「あ、あっしは、バーバット。女中です。女中でいいです」

 深く深く頭を下げ、また顔を上げるとバーバットは表の方に走って行ってしまった。僕はルルガルの荷物を持ち、表に戻ってみると、ルルガルと白髪の老爺が笑いながら語らい合っていた。「シマパン、荷物を運べ。上の最奥の部屋だ」ルルガルに背中を叩かれながら、僕は宿の中に招かれた。ルルガルが宿帳を書き、呼び鈴を必要もないのに鳴らし、戸の外を見た。

「ニワの客人と隣にも上下にもならない部屋だったらいいそうだ」

「別に、僕はどこの部屋でもいいですけど」

「奥も奥なら、我々が逃げ遅れるだろう。順路を入念に確かめておけよ」

「……分かりました」

「荷物を置いたら食事か……、腹は足りてるんだよな」

「泥魚なんか食べるからでは」そう言うと、ルルガルは、そんな事は覚えていないというような顔をして、先に行ってしまった。木戸を開け、中に入るとルルガルは先を急ぐように寝台に飛び込んで、転がりながら毛皮の敷き物と、縫い合わせの掛け布に包まってしまった。

 荷物を戸口の脇に置いて、獣脂の匂いがする燭台を持って部屋の中を一巡りした。

 顔が出るくらいの鎧窓が一つ。

 腰の高さくらいの書棚が一つ。ユヴァの聖典とミノ森の名所地図が入っていた。

 部屋の真ん中に丸い小卓があって、一人で食事するくらいの大きさだった。

 椅子も一つだけだ。

 それと、寝台の逆端の壁近くに藁を編んだ筵が敷かれていた。「僕の寝床は」

「それだろ。冷えるなら外套でも被ってろ」

 元は一人部屋だったのを、二人に貸してくれたようだ。

 隣は空き部屋だった。その隣も空き部屋だった。静かにしている間に、戸の前に床を踏む音が近づいて来て「ルルガル様、シマパン様。お食事をお持ちしました」とバーバットの声が聞こえてきた。ルルガルが返答をすると、戸が静かに開けられ、お盆を持ったバーバットが部屋に入ってきた。水差しと、サグスト、干し猪肉、干し葡萄が木の皿に放り込まれている。

「卓に置いておきます、明けたらまた取りに来ますので。あと、レンテの」

 と言って、バーバットは手、口の動きを止め、明らかに困った。「レンテが何か?」

「寝床と、食べる物も持って行きましたけど、水も、飲もうとしないんです」

「それなら気にするな。控え目なんだ、あの馬は」

「そうですか。それで、いいんですか」

「用が済んだら早く下がれ」とルルガルに命じられ、バーバットは頭を下げ、また静かに戸を開けて部屋から出ていった。卓上に並んだ食べ物の匂いを感じ、腹が締め付けられて、音になった。水を飲み、僕は食べ物を半分に取り分け、自分の寝床の上に向かって食べ始めた。

 ルルガルは寝具を放り出し、窓の近くに立って、外の様子を覗き込んだ。

「少し探りを入れて来るか」

 横から見ると、顔の当たる赤い色の揺らめきは、松明の火のようだ。

 窓を閉め、ルルガルは言った。「鉄の王の話はニワの兵隊には知らせるなよ」

「それでネオン領に来たんじゃないんですか」

「そうじゃなかったら、隠すべきだ。和平のつもりが戦争となったら大変だろう」

 ルルガルは小卓に寄って肉を掴み、そのまま部屋から出ていってしまった。僕は皿を床に置いて、寝床に体を倒した。燭台の火が部屋の黒い輪郭を浮かび上がらせ、天井の板の隙間に濃い闇を描いていた。小鼬の走り回るような音を聞いた気がした。もっと大きい、兵隊が動くような音ではなかった。またはニワ軍の斥候が小鼬に化ける技を持っているのかもしれない。

 小枝のような四肢を使って風のように動き回れるなら。

 鉄の王の話は、ルルガルから漏れた事になるから僕は悪くはない。目を閉じる。

 目が開いた。体を起こし、少しずつ動き出す思考が、眠りに狙いを付ける。今、暗闇の中では、窓の隙間から忍び込む微かな火の揺らめきだけが見えていた。眠っていた。でも夜は明けてない。「ルルガル、居るんですか」考えなく抑えた声を部屋に発すると、それより強い無音が耳に返ってきた。壁に沿って進み、手で燭台を探ると、冷え固まった脂が指先に触れた。

 壁に触って進み、戸の方に向かって、廊下に滑り出した。

 曲がり角に薄い影が伸びていて、その先に明かりが付いていた。

 板張りの床が鳴らないように気を張りながら、細い梯子段を下り、布靴を履いて夜の中に出ていった。「誰だ」「誰だ」と鋭く問う声が両脇から重なり、鉄で作られた槍の穂先が交差した。「ああ、主都から来たという……、シマパンだ。こんな夜更けに何をするつもりだ?」

 門前の脇に右左それぞれ兵隊が立っていた。

 二人の脇には松明が立てられ、壁と、踏み固められた地面と、兜が光っている。

「起きてしまったので、乗ってきた馬の具合でも見ようかと」

「そうか。一緒に来た女は」

「部屋で眠ってると思いますけど、今僕の名前を」

「あの女から聞いた。農村の出で無学だから寛容に接してやるように」

 槍が上げられ、進んでいいものかと思って歩き出そうとした僕を、また引き止める声があった。「これを持っていけ」と兵隊の一人が松明に火を移し、僕に差し出して来た。星々の明かりは弱く、雲が掛かっているから、見るには足りないようだった。僕は松明を受け取り、建物の裏手に回る間、明かりを灯すような秘石術があるならルルガルに借りようと考えていた。

 柵の中には牧草が積まれ、一頭、二頭の馬が休んでいた。

 レンテは直立し、空を見上げ、息を吸い、吐いて、ただ立っていた。

 角灯に張った薄紙を通して、霧のような光がふわりふわり広がって、その中に小さな人間の顔のような物を映していた。それは大きな暗い口を開いて、急に飛び上がり、立ち上がったのだと思うと、服から少しだけ出ている小さな手や、素足の色も少し見つける事が出来た。

 黒い髪。解かれて肩に垂れ落ちている。黒い目。黒い服。

 黒い夜の色の中で、火に照らされて、弱そうな体の輪郭が露わになっている。

「どっ、どうしたんですか、まだ夜は明けないですよ」

「起きてしまったので、レンテの具合を見に来たんだけど」

「レンテは」バーバットは、兎馬に角灯を近づけた。「気盛りが付いてそうで」

「ミノに来るまで少しも休んでないんだけど。主都から」

「それは、強壮な馬なんですね」という言葉と反して、バーバットは困ったような顔をころりと傾け、僕か、僕の後ろの木々がある方に薄い笑みを向けた。バーバットは疲れたような顔をしていた。「水は飲みました。そこの桶に、二回、三回くらいは汲み直したと思います」

「それは助かりました。水を飲んだなら、そんなに気遣う事もないか」

 そして僕は、部屋に戻ろうか、少し考えた末に戻る事をバーバットに告げた。

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