五体目「川が終わる所に死体はない」
重い音を立てて閉じられた門の前で、ルルガルが足を止めてレンテを見上げた。
「重いか」と聞いた。レンテは激しく息を吐き、首を振った。「シマパン、短剣を」
腰の辺りに触れながら聞いた。「これですか、何をするんですか」
「いいから貸せ」受け取った短剣の刃先を口に咥え、ルルガルは柄を叩いた。剣が誤って石を打った時よりも鈍い音が鳴って、口の中に突っ込んだルルガルの指の先に、血で汚れた白い粒があった。歯だ。折れた。短剣を逆手に持ち、ルルガルは、レンテの首元を刺し貫いた。
兎馬は真横に身を捩り、唸り声を上げながら激しく首を振った。
「押さえろ、押さえろ」と言いながら、ルルガルが兎馬の傷口に指を突っ込んだ。
僕は何も出来なかった。
一際高く吠えたレンテは、四脚を震わせて、地面に倒れ込みそうになった。なんとか持ち直して、空中を見つめたまま、また立とうとして、口から涎を垂らし、苦しそうに息を早くしていた。ルルガルはレンテの反応も気に掛けず、傷口を撫でながら、よし、よし、いいぞ、いいぞ、と繰り返すだけだった。その一時、レンテが目を閉じ、全身が岩のように止まった。
急に静まったレンテの青く濁った目を覗き込み、ルルガルは満足そうに笑って、短剣を僕に返してきた。「もう重くないな。さあ、日が落ちる前にミノ字だ」一人でレンテに乗り込もうとするルルガルが、ローブのせいか、馬の背を滑るばかりで、一向に上がれない。後ろに回って、尻を押し上げてやると、やっと乗れた。上から手を引っ張られ、僕は前側に乗った。
後ろから回ってきたルルガルの手に、手綱を握らされる。「今のは、秘石術ですか」
「そんなようなものだ。まずこのネイ川街道に沿って、ミノ筋で左に折れるんだ」
「ミノ字だったら分かりますけど。そんなようなものって」
「知りたい事はレンテに聞けばいいよ」耳元にあるのに声は虫よりも小さい。
冷たい髪が頬に当たって、その辺りから霊廟で嗅ぐお香の匂いがした。
「レンテ、潰れたんじゃないんですか」
「潰れないように、乗る時乗る時手を掛けてるんだが、あんまり上手く行かない」
「何もしない方がいいんじゃ」左肩を二度、叩かれたから、僕はレンテを歩かせた。
レンテは息をしているかも分からないほど静かに歩き出した。
ネイ川は、剣の瀬渓谷から流れてくる剣山水道から、灌漑によって主都の方へ引き入れられた水路だ。草原の中を、街道に沿って流れる川幅は、単位統一されてからは十から十二ビーンほどで定まっている。道々、街道から分かれる横道の先には、高台に農主の邸があって、労働者達が暮らしている粗末な長屋が、同じくらい粗末な牛舎や鶏舎のすぐ隣に建っていた。
「ここ辺りも水耕塔が増えたな」
と言ったルルガルは、僕の腰を抱え、背中に顔と体を押し付けていた。
椅子に凭れるように、重さのほとんど僕が支える事になってしまっている。
肉感に乏しく、骨と皮の間に少しく息を吹き込んだような体は、レンテにとっても軽すぎるようで、右と左に括り付けた荷物によって歩調を乱す事の方が多かった。肌も冷たく、血抜きをした死体を運んでいるような気分になってくる。ただ身を捩ると、腕の力が強まった。
「おい、振り落とす気か」と言いながら。
ルルガルが見ていた方向には、農主の邸の周りに畑が広がっていた。
その中に、木と石を組み合わせた、大きな箱のような物が立っていた。
「水耕塔って何ですか、字では見ないですけど」
「単なる、縦にした畑だ。水を引き上げたり、秘石術を安定させるのに考えを費やした」
「あれも」
「あれを作ってる時は農術師と呼ばれる方が本当のようだったな」
「それはそれ、秘石術ってよく分かってないんですけど」
「そんなものは……」一度、ルルガルの息が止まったと思ったら、遠い雷鳴が響くような感じがして、空を見上げると雨は降っていなかった。風も無く、雲が厚かった。もっと近い所から鳴ったようだ。それこそ張り詰めた革を叩くような、鼓のような音は、僕の体を直に触れたようだった。「腹が」とルルガルが上の空に言った。「足りない。シマパン、ここで止まれ」
「え、食料とか持って来てるんですか」
「そこに川がある」
「でもいや生活用水の川に、魚とか居るんですか」
馬の足を止め、近くの木に縄で留めている間も、ルルガルは籠の方のカバンを開けて、中身を漁っていた。「釣り竿なら用意するので。枝を」と木や周りの地面を探していると、何かを取り出したルルガルが先に川縁へ駆けていった。土手の下に、石を積んだ傾斜があり、浅い所では膝も浸からない水が静々と淀んでいる。底は暗く、溜まった泥や砂利がかすかに見え、それか曇天の色が水面に映って、水の下は夜のように暗かった。上流も暗く、下流は小さな橋が架かって、その向こうにはネイ市街を囲う外壁が、斜面に向かって高く這い上っていた。
「逐一出発しないなあ」嘆こうとも、声はもう届かない。
土手に腰を下ろしたルルガルは、指の輪を通して川面を見ていた。
「魚居ましたか?」
「釣り竿はいらないよ。持ってないだろう」
「針を曲げて、それと糸ならありますけど。餌は……石の下に虫でも居れば」
「これを貸そう。字の庶子よ」急に冷たい呼び方をしながら、三つの小石を差し出した。
真四角の六面体で、指の先より少し大きいくらいだ。
水面よりも滑らかな表面は、指先を近づけると僅かほど映り込んだ。
そして一つの面に、それぞれ、刻印が施されていた。一つは、斜めの角を結んだ二本の線が交わる「X」という形。次は、その半分の線が真ん中で一つになる「Y」という形。次は、隣り合う角を繋いだ線を斜めに繋いだ「Z」という形だった。古代文字で、何か意味があるのかもしれないけど、読めない。「中一指、長指、中二指、短指の間にそれぞれ石を挟んで」
器用な事を指示されて、初め思考が追い付かなかった。
「それぞれ石は対象との遠さ、周囲の縦、周囲の横を合わせる。聞いてるか?」
「え、はい」
「空いている方の手で川の魚に狙いを付け、持ち上げるだけでいい。簡単だな」
それがその通りに出来るなら。
泳いでいる魚の真名は、水の道を辿る地脈に含まれていて、それは国から国、海から海を巡回する一つの大きな活力だった。海神リヴィアタが暦に合わせて各地を巡るから、その土地に順番に長い雨季が訪れるように、常に流れ、常に動いているものだ。それに対して、流れに逆らいながら、泳ぎ続ける魚の力は弱い。空からは鳥の鋭い爪が襲い、水中では泥を巻き上げて大魚が襲い、垂らされた餌を口にすれば人に釣り上げられる。でもそれは、自然の中で相争う関係だ。こんな、棚の物を下ろすように、簡単に手にする事が出来るかは疑わしかった。
見つけた魚影は、髭の生えた泥魚だった。
手を、その姿に合わせて、完全に止まって見えるのを待った。
掴む、掴んだ時の感じを想像する。
滑りは少なく、表面は固くて、水のように冷たい。今もそれは活き活きと手の中に感じられて、その身の平らに痩せた形を、軽く持ち上げる事が出来るようだった。手に合わせ、向こうの水面が割れた。水が旋風を巻き上げ、飛沫が頭より高く舞って、鼻の先に冷たく触れた。
魚は土手に激しく叩き付けられ、それから、思い出したように小さく跳ねた。
ルルガルが魚を掴んだ。「風術の加護でも受けたか? 難儀だな」
「知らないですけど。それで次は、焚火術ですか」
「火くらい起こせよ。それと椀を出せ。香辛料も荷箱に入ってるから」
三つの石を返して、兎馬の近くへ行くと、毛の多い尾を振って、兎馬が糞を地面に落としていた。そう見ると、生きている物のようだ。出る前に水を飲ませよう。中からお椀と二つ三つの小瓶を取って戻ると、ルルガルが枯れ葉や小枝を道の真ん中に集めていた。火打石を使って火を起こし、肝を取った泥魚を枝に刺して、刺激の匂いがする粉を大量に掛けていった。
「夜になる前に着くのですか」
「前に後にっていうのは何だ。動く時は動いて、止まる時は止まるだけだよ」
火の近くに枝を立てておいて、ルルガルは鉄瓶に水を汲んで、それを沸かし始めた。
煎り豆と、虻蜜、作りの粗い茶器を持って、ルルガルは座り込んでしまった。レンテの縄を解いて水を飲ませ、首の傷に触れないように毛を磨いていると、馬に乗った触れ役の男が近づいてきて、焚火の横を通ろうとして、でも馬の足を止めた。「こんな所で、炊事かい?」
ルルガルが愛想よく答えた。「すぐに片付けるよ。ミノの方から?」
「ああ、遠征隊の志願者が多かったんで。七人、戦闘中死亡、一人が不明だ」
「じゃあ、片手の指より多いな」と、手を開いて見せた。
「多いは多いが。次の志願者は更に多い。渓谷は近く大戦場になるだろうな」
「渓谷というと、鉄の王が出たそうだな」
「鉄の……、ああ、兵隊が言っていたな」と、馬の上で触れ役の男が腕を交わし、目を閉じて考えに潜り込んだ。「それは実も殻もない噂だと思うね。竜の骨だって、吾の目で一つも見た事がないんだ。それが、まだ生きてどこかに居るなんて、少年の頃なら心踊るだろうが」
「だったら見せようか」
と言いながら、ルルガルは枝を取り、油の滴る魚を横に傾けた。
「生きてる時に見られるものなら、見たいものだ。どこにあるんだ。海の向こうか」
「戦場に」
「それは知ってるさ。鬨の王が討伐された戦争の話は、行商隊から聞いた事がある」
「かわいそうに、鬨の王は竜の中では弱い方だからな」
「そうなのか。それなら、大帝国も弱ってくれればいいものだ」
背びれも、骨もルルガルは齧り取って、鱗さえ◯み砕くようだった。
粘りのある豆茶を飲んで、また魚を齧って、また豆茶を飲んだ。その間に、ルルガルは一つも言葉を発しないで、触れ役の男は返事を待ち、諦めて馬を歩かせ始めた。その背中に向かって、ルルガルが顔を上げた。「鉄の、王を見たいなら多くの鎧兜が戦場に必要だろうな」
触れ役の男は何も言わず、主都に向かって次々に小さくなっていった。
「口の固い触れ役だ」
「ルルガルがよく分からない事を言うからでは」
「分かるように言うのが仕事だろう。話の上では、手の多い風術師なら遠くに音を届ける秘石術も編み出せるそうだな。そうなると、先触れなんて居なくても、多くの人々に知らせを出す事なんて簡単に済むな。そうなると、あの男はどんな仕事をするんだろうな。芝居人か」
「ルルガルは出来ないんですか」
「音を媒介する鉱石か、探せばあるかもしれないな」
枝を放り出し、火に水を掛けると、煤や灰をルルガルは軽く蹴り払った。
「味が悪い。量も少ないし、早くミノ字に向かうべきだった。夜は宿を取るぞ」
鉄瓶、小瓶、茶器、それと小石を片付け、僕はルルガルを兎馬の上に押し上げた。
日が沈みかけ、空が青く染まって、夜が近づいていた。まだ道程は半分もあった。
剣の瀬渓谷はその更に先、その道程は半分の半分の半分も進んでいない。
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