四体目「馬屋の軒の下で一度死ね」

 卓上には水差しと、花を挿した花瓶が置かれていた。

 物の少ない部屋には、牧草と、獣の臭いが薄く漂って、気が静まる心地だった。

 応接間には、戸が三つあった。表から入って来た戸。奥の部屋に通じている戸。そして厩舎と繋がっている戸から、身の丈のある女が現れて、何も言わずに僕の向かいの椅子に尻を落とすと、手袋と帽子を投げ出し、肘を突いて顎を載せ、値打ちを測るような目で僕を睨みつけてきた。「無頼のルルガルが新しい下働きを見つけたんだねえ」と、僕を嘲って言った。

 栗色の髪は長く、鞣した革のような艶を放って、まっすぐ肩に垂れていた。

 シャツの上に、丈の短い上衣、ズボンは細く、体に張り付くようだった。

 蒼白な顔は男のように凛々しく、いくらか面長で、鼻が高くて美しかった。

 それに肘を杖に頬を載せていて「無頼?」と聞き返した僕を更に強く睨んできた。

「これ」と固い物が卓上に放り出され、それは戸口で渡した銅板だ。

「あ、兎馬を借りたいって話で」

「借りるって、ルルガルは外に出る時、出る時、借りた馬を全て潰してしまうのよ」

 僕が何か言うのを待ったようで、そしてまた女が言った。

「三頭、どれも粘り強い若い兎馬だった。荷運びに使うようなのをルルガル一人で」

「そういう用事だって、聞いてないんですか?」

「聞いていたら、大事な馬を貸したりはしないね。それこそ……名前は言った?」

「あ、僕は、シマパン・ガ=ヴィーアで」

「シマパンは聞いていないの?」

「調査に行くって言ってました。だから二人乗れればいいんだと思うんですけど」

「二人。シマパンもついて行くのね」上げられた窓の方を見やると、邸の表の二番通りがよく見えた。行き交う人の向こうに、荷物を背負った兎馬がとぼりとぼり歩いていくのが、段々と小さくなっていった。「信用を得たのか、二つ目は……、何せ、気を許し過ぎない事ね。ルルガルの調査って、二十から兵隊を引き連れて、誰も戻って来ないような事もあったから」

 先日は雨で道が泥になった、くらいの言い方に、二十の兵隊が押し流される。

「調査って何を調査するんでしょうか」

「知らない。ネオンの石術師であれば、地形の事を調べているものと思うよ」

「地形っていうと、パラグラフ軍と戦闘が起こった、渓谷の」

「ああ、あったね。今日、遠征隊が帰還していた。あれって、勝ったのかな」

「負けたって聞きました。両軍が。鉄の王が現れた事で」

「鉄の……。知らないけど、何を調査するのでも、馬を潰すだろうね、あの女は」

 水差しから硝子碗に水を注ぎ、女がそれを飲んだ。見ていて、口が渇くような感じがしてきたけど、食器が見当たらないので、飲む事も出来なかった。目の前の女は、鉄の王の出現にも関心を持たないようで、馬の事ばかり気にしていた。それでも僕は、言われただけ馬は借りないといけないのだけど、銘板を渡すより他にする事がない。馬、一頭、という文字でも彫られてるのかもしれない、薄い銅の板は、忘れ去られたように卓上に放り出されたままだった。

 急に戸が開いて、後ろから大きな声が押し寄せる。

「おい、カンライ。兎馬を一頭借りるからな」振り返ると、大きなカバンを両手に提げたルルガルが立っていた。一つは木を編んだ物入れで、更に一つは、板を張り合わせた箱だ。何が入っているのか、見ただけでは分からない。「そこのシマパンも同行するから、大きいのを貸せ」

「はあー、もう。来て、シマパンも」立ち上がった女、カンライに続いて、ルルガルが裏に通じる戸の方に向かって、途中で僕に荷物を押し付けて来た。受け取って、一緒に外に出ると、獣と草の臭いが強くなった。厩舎には、五頭の馬が繋がれていて、桶の水を流して掃除をしていた世話人が、カンライによって退けられると、一頭の前にルルガルと僕は立たされた。

 カンライが牧草を足先で除け、柵に掛かっていた縄を掴んだ。

「春節の生まれで七周期物、何か名前はあったかな」と世話人が去った方を少し見る。

「名付けていいか」とルルガルが言い、大柄な兎馬に手を差し出し、その顔を撫でた。少しは目を細めた兎馬も、右から、左から、乱暴に手を擦り付けられると、いずれ嫌そうに顔を振って逃れようとした。ルルガルは悲しげに自らの手を見た。「ヴリエン・レンテでいいな?」

「勝手な事を」と返すカンライは親しげにも見える。「それで、期間は?」

「長ければ長いだけ、良いんじゃないか」

「こちらにも仕事というものがある」とカンライが言った。「荷物を運び、人を乗せ、伝令を送り、馬車を曳いたり、鍬に鋤、農具を曳いたり、建物を壊す時にも力を借りる。レンテが不在の間、他の馬だけで仕事を捌かねばならないのは、さすがにイールズとしても厳しいね」

「代わりを用意しようか。シマパン。ガ字には、馬は余っていないのか」

「そんな遠い所から連れて来させるの?」

「牧場は、山羊しか居ません。商売の為に乗馬を学ばせるので、一頭か二頭だけ」

「な?」とルルガルがカンライに何を得心したのか分からない顔を向けると、カンライは額に手を当て、俯いてしまった。その横で、また兎馬の顔が弄ばれ、鼻先で手を打たれて、ルルガルが威嚇のような笑みを見せた。兎馬も、狭い仕切り板の中で不安そうに動き回っている。

 カンライは諦め、閂を取って厩舎からその兎馬を引っ張り出した。

「そうだ」とルルガルが言って、ローブの内側に手を入れた。木札を僕に放り投げて、落とした木札を僕が拾うと、ルルガルの嘲るように尖った口が、少し経ってから開いた。「正門の所に言って、門番に開ける段取りを付けて貰って来てくれないか。ルルガルの遣いだと言え」

 木札は四角く、短い棒で、表に文字が焼き込まれている。

 二番通りから、大通り、広場から正門へ向かって、人の姿は少なくなっていた。

 療術院に行くまでもない軽傷者が、包帯を巻き、添木を当て、杖を使ってそろりそろりと歩いて来るのを見かけた。輪切りにした丸太を見つけ、その男は腰を下ろすと、空を見るようでもある、地面を見るようでもある、行き場のない目を彷徨わせて、いつか目は閉じていた。

 正門の脇にある小屋の戸を叩くと、待ってから、足音が近づき、戸が開かれた。

「何か」と手短に言う門番の言葉は、目を覚ましたばかりのようだ。

 木札を差し出し、僕は言った。「ルルガル・ネイが、すぐに出発するので」

「あ、今度もですか」と木札を受け取り、門番の男は小屋の奥に戻っていった。

 了承を頂いていない気がしたので、僕は戻るにも戻れなかった。門番の男が引き返して、小屋の周りに目を向けてから、僕に向かって言った。「ルルガル・ネイは、今度も調査の為と言ってましたか。そうですか。人数は」二人、と答える。「期間は」分からない、と答える。

「同行しますか」

「僕が、行くみたいです」

「それで、ルルガル・ネイは」

「馬を借りる為に、馬屋の主人と話してました」

「開ける用意は済んでいるので、来られたら声を掛けてください」

 そう言って門番が戸を閉めて去ると、誰も居なくなってしまった。

 主都の低地側、傾斜から傾斜を丸く囲んでいる壁は、この正門と、水を引く為の水門を覗いたら、少しも途切れていない。他に乗り越えるのに、人が居ない時がない監視塔を使うか、地面を掘って壁の下を通るか。それは、主都の地下に隠し通路がある、という字の子の間で話されていた空話を思い出した。ラパン小兄を見送るのに、最初に主都に来た時は、そんな空話に関心を持っていなかったけど、何があるとかないとか、言い切れる理由も僕にはない。

 足元の地面を踏み付けてみると、しっかりと固く、足の方を痛めそうだった。

 石を敷き詰めた、滑らかな道を見るには、人の手が掛かってるという事だから、その下にも手が掛かってると考える事は出来る。また、傾斜地の中に、横穴が山の向こうに通じているとも考えられた。これから行く剣の瀬はどの向きだろう。中央通り、二番通りに目を向けていると、そこを歩いて来る人物が見えた。それは近づくだけ、小さく見えてくるようだった。

 ハンダン母様が、麻の袋を抱えていた。

「シマパン、まだ出発してなくて良かった」

「ルルガル・ネイが馬を借りに行っているんです」

「そうかい。これ荷物。大した物は入ってないけど」

「いいです、助かります」袋を受け取りながら、言った。「母様はすぐ帰りますか」

「そう、家も気に掛かるし、スレンジーって人が馬車を出してくれるって」答えながら母様は自分の荷物を開け、毛織の外套を取り出した。緑色の、母様が頭まで包めそうな外套を僕の肩に掛けて、前を合わせた。「冷えるといけないから。外套と、帽子も買ってあるからね」毛皮の帽子は兎だろう。雲のように白く、汚れの少ない物を、主都の店で見たような気がした。

「こんな良い物を」

「スレンジーって人が用意してくれたから」

「馬車で出るって事は、少しは一緒に行けるんですか」

「どうだか。遠征隊の人達も乗るって。途中の字にも寄るんみたいよ」

「そうですか」

「ラパン、見つけてやってね」

「はい。探せるだけ探してみます」

「それはそれ、あのルルガル・ネイって人は」

「馬を借りるって言って、門を開けて貰うように言付かったところです」

「そう。遅いんね。馬を借りるのって手間なんかね」母様が来た道を振り返っていると、二番通りの方に兎馬と、ルルガルとカンライの姿が見えてきた。縄を持っているのはルルガルで、カンライは横を歩きながら小言を言い続けている。空いている手を払って、もう帰れという所作をするけど、カンライはずっと横に並んだままだ。ルルガルが僕に気付いて、払い除ける所作から、手を挙げて合図をした。「母様」と僕が言い、指を差すと、母様が目を細めた。

 兎馬が僕と母様の前で止まった。「澄んだ目だ」と母様が呟くと、カンライは少し嬉しそうに頷き、両手に持っていたカバンを地面に置いた。一つは板を組んで革を張った箱で、一つは蔓を編み合わせて作った籠だった。ルルガルはカンライに背を向けるように立って言った。

「貸す物は貸すんだから、疑いの言葉を挟む必要はないんだよな」

「いいか、潰すなって言ったからね。これは契約だから」

「そんな悪心な言葉を使うな。レンテとの信頼あっての事だろう」

「王城付きの石術師が使わないで誰が使うんだ。ヴィーア、契約は、分かるね。こちらが受け取った金銭の範囲では、馬の貸し借りだけだ。馬が負傷、死亡した時は、追加の支払いを求める事になる」カンライはルルガルの肩を叩き、言った。「全部王城から払わせるけどね」

 ルルガルは傍見をしながら兎馬の首元を叩いた。「安い命だな、ヴリエン・レンテ」

「ようよう戻るけど、ルルガル。無事に戻って来ればいいね」

「おう、いいな」カンライの背中を見送り、早々目を切ったルルガルが、僕に置かれたままの荷物を指して言った。「シマパン。荷物を馬に括り付けろ。後肢の所に鞍の横から縄を通せるだろう。違う、籠が右だ」荷物は見たよりも重く、持ち上げる時に両足を強く踏まねばならなかった。縄には棚板が括り付けられ、そこにカバンを置いてから、別の縄で締め付けた。

 左右に荷物を付けると、自分の物を肩掛けにして、僕はレンテの目を見た。

 悲しげに濡れた黒い目が、体毛の奥から何かを伝えようとしてるようだった。

「じゃあ、ハンダン母御。追々シマパンの世話になるよ」

「そんな事。せめて役立ててやってくれりゃ幸いですんで」

「母様、行ってきます」

「おう。無事でね。どうかユヴァ様のご加護をくださりますよう」

 手を振られながら、ルルガルの後に続いて、重い音を立てて開かれた門を潜った。

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