二体目「謝らないだけの力」
執政官ドッド・ネイ=アフタームは、細面に髭を垂らした白髪の老爺で、頭を包む皮のような小さな帽子を被り、ローブの下にも質のいい布地の、同じ黒色の服を着込んでいた。手には分厚い書物を持ち、別の手で羽を忙しなく動かして、部屋の壁に何か書き込んでいた。よく見ると、壁沿いの床に細い溝が通っていて、それが外の壁に向かって、傾いているようだ。
溝は部屋の端に達し、そこの壁に小さな穴があった。
ハンダン母様は、部屋の右の方で丸椅子に座っていた。
反対の壁の近くに、母様を殴った兵隊が立っていた。
それぞれのすぐ後ろに衛兵が立って、槍を邪魔そうに、肩に沿わせて立てていた。
母様の隣の椅子に座って、口を寄せる。「どうなったんですか?」
「ああ、シマパン。それよりか手は良くなったんかい」
「それなら」と手を見せて、僕は二度、握ったり開いたりした。「療術師の方が」
「だったらいいんだ。今はね、あのドッド……」
「執政官である」老爺は羽を動かしたまま、背中越しに答えた。「少しく待つんだ」
「大仰な扱いだな」と兵隊が言った。「字の農家が王城付きの療術師に」
「静かに」と衛兵が言って、石突で床を叩いた。
老爺が口元に手を添え、大きく咳き込んで、ようやく部屋の方に向き直った。
「ええ、執政官、ドッド・ネイ。本日、西王新九年、四週七夜月。各々方、名前を」
「マニー・ロク=レノスター」
「ハンダン・ガ=ヴィーア。これは第三子のシマパンで」
「よろしい。本日、審理官が子の元服の儀にて不在により、裁判を立てずに略式で決着せよとのネイザキン王のお達しがあり、我、ドッド・ネイが裁定を下す次第となった。異論は受け付けない事。初めに、此度の発端となった争いについて、こちらから説明をさせてもらおう」
一つ、帰還した第四次遠征隊にヴィーアの二子ラパンの姿が見当たらなかった。
一つ、母ハンダンは帰還した隊員マニーにラパンの在所を確認しようとした。
一つ、疲れ傷ついたマニーは見知らぬ老婆の足止めに怒りを覚え振り払おうとした。
一つ、母を案じたシマパンはマニーの足を阻むが逆にマニーによって投げ飛ばされた。
「ちがう」とマニーが怒鳴った。
衛兵の手に力が入り、こちらの衛兵も、僕と母様の前に出ようとした。
「まあよい。マニーよ、何が違うか、説明できるか?」
「その……シマパンが自分を投げ飛ばした」
「しかし二重ねほど上背の余るマニーをシマパンがどうして投げ飛ばせるか?」
「知らない。吸い込まれるような感じがして、倒れそうになった。だから」
「シマパンに向かって倒れ込んだか」
「そうしないと、腕が」マニーが自分の腕を撫で、無い痛みを痛がるようだ。「そうだ。あの女、あそこに女が居ただろう。痩せ犬みたいなのが兵隊を投げ飛ばした、と言っていた。あの女を探してくれ。確か一緒に……槍で首を突かれそうになったんだ。倒れたところだった」
「槍でな。今マニーも言った事だ、手を切られて、療術院で治したのはシマパンだ」
「違う、自分の首が」
「違いはしない、短剣を落とさせる為だと槍で突いた本人が答えた」
「それは誰だ」
「誰でもいい」
マニーは更に問い詰めようとはしなかった。
城の衛兵や、王家の人間であれば、罰を与える事はできない。それに結果としては、僕の手が切られ、治ったのも本当で、マニーが不服を訴える理由はない。そっと腰に手をやると、皮の短い鞘が吊ってあって、短剣の柄には触れなかった。往来に落ちたのであれば、誰かが持って行った後だろう。短剣は、大兄様が使っていた物だった。失くしたとなると口惜しい。
「さて、マニー。人々の証言になるが、先に手を出したのはマニーだそうだな」
「いえ、それは。シマパンが急に、目の前に」
「母を殴り倒され、黙っている子は居ない。そこへ、マニーが先に手を出したのだな」
「……出した」
意気を失い、丸椅子に身を投げ出して、マニーは絞り出す声で答えた。
「よろしい」と言い、老爺はマニーからこちらに向き直り、背を真っ直ぐにした。
会話に耳を寄せていた母様は、身を竦め、僕の腕に縋りついた。執政官ドッドは、一つ息を吐いた。それから羊皮の紙を見比べ、ハンダン母様の方へ、更に厳しい目を向けて、初めは静かに問いかけた。「ハンダン・ガ=ヴィーア。第二子ラパンが第四次遠征隊、第七班に所属していた。本日、北部より隊が帰還する知らせを受け、三子シマパンと主都へ迎えに来た」
「ええ、そうで。すぐ先頃に着いたばかりで」
「しかしラパンは居なかった。ネオン軍本部で生存確認が行われる手筈だった」執政官ドッドが見せた紙には、何か書いてあるらしかった。「残念だが、ラパンは作戦中行方不明だ。それについては、同じ班の兵隊も心を痛めていた。まして、自らの口から伝えにくい事だな」
言葉を失った母様が、僕の腕に爪を食い込ませ、歯を食いしばっていた。
代わりに僕が聞いた。「生きているのですか」
「作戦地域が国境の川であれば。速やかに捜索隊を送れば、見つかるかもしれんな」
「では、早くそうするべきでは」
「準備は進んでいる。しかし、パラグラフ軍も同じ考えであろう。妨害工作が行われたり、武力衝突が起こる事を王は懸念されている。どのような規模、兵力を投じるか、軍参謀も頭を悩ませている。そうなるとハンダン。同じ悲しみを持つ兵隊に迫ったのは短慮であったな」
「ええ、はい」息を詰まらせながら母様が頷き、嗚咽が漏れそうになる。
「マニーはラパンを知らないと言ったそうだが、他の兵隊でも同じ事だ」
「本当だ。班が違ったんだ。ラパンなんて知らない」
「口を閉じよ。次にシマパン、なぜ己の身を上回る兵隊に向かっていったのだ」
「それは、母様が」
「母様が大熊や大鹿に襲われても、同じように向かうか?」
僕は、三つの頃に大鹿の角が刺さった足が疼き、見たくなるのを耐えた。
「ある国に、軽い者が重い者を打ち倒す白兵術があると言う、知っているか?」
執政官ドッドは、全て知っていて、僕に聞いているのだろうか。本当の狙いは、風身功について聞き出し、兵隊に学ばせる為だろうか。僕は多くを知っても、全ては知らない。物足りない技を教え、それが元で兵隊が負けたり死んだりしても、どうする事もできない。ヴォーテルだって、だから技を使いたがらなかった。それに、これは僕がヴォーテルの世話をした報いであって、それを誰かに明かすのは、ヴォーテルの恩義を汚してしまう事にもなるだろう。
「シマパン、前に言ってなかったかい」
「いや、あの事は……」
執政官ドッドの、大鷲のような目が一時、慈しみの色を覗かせた。
音。音が鳴った。「なんだ」と執政官が言い、母様は半分より小さくなった。
音が鳴り、そこで執政室の戸が開けられ、小さな隙間から、戸は蹴り開けられた。
壁に当たって跳ね返った戸の軸が折れかけてるのが見えたけど、何も言わなかった。
戸口には文官の男が立っていて、今は槍を持っていなかった。その脇に、足を前に出した格好のまま、ローブを纏った銀髪の少女が立っていた。「話が付いた。そこのガ字の男を連れていってもいいか?」と中一指を差して、声高に宣言すると銀髪の少女は僕を睨み付けた。
執政官が問う。「ルル嬢、話というのは何者との間にかね」
「我が領主ネイザキンがその者を不問とし、密命を下すと言ったんだ。さあ渡せ」
マニーも、僕も母様も、衛兵達も、死者に背を撫でられたように固まり、威暴の闖入者に目を奪われていた。銀髪の少女が被りを手で押さえながら、右、左、執政室の中に目を触れ、腕を組んで充実に頷いた。閉じた瞼に銀色の、長い睫毛が並んでいる。黙っていれば、日の光の集まる所のような柔らかさを感じるも、戸口を塞いで立っている今の姿とは相容れない。
執政官ドッドは書物を書き物台に置き、両目を揉んだ。
「分かった」と抑えた声で言った。「連れて行くといい。しかし、兵隊に手を出した者への反感を鎮めなければならない。それは王の一声でどうなるものではない。シマパンが戦闘に長けている者であると言うなら、ネオン軍は軍のやり方でシマパンに報復しようとするだろう」
「シマパンが名前か」
「シマパン・ガ=ヴィーアという」執政官ドッドが答えた。
「そうか」部屋の中に入ってきた銀髪の少女が、僕の前に立った。右手を差し出して、狩りをする者のような笑みを表した。「私はルルガル・ネイ。王家付きの石術師だ。シマパンは王の間に呼ばれたんだ。さあ、立て。ほら」掴んだ手を、引っ張られ、立ち上がると、戸口の方に押された。「母御も。それと、ドッドに、我が領主から誉れ高きお言葉を賜ったから聞け」
戸口で振り返り、ルルガルは部屋の中に行き渡るように声を出して言った。
「北部の戦況は悪化する。ネオン軍はまた近くに志願兵を募るだろう」
「パラグラフと戦を起こすのか」
「そう見えたらしい。各々、川底を浚うのと、望む方を手に取ればいい」
扉を閉めずに、ルルガル、文官、僕と母様は長い長い石の廊下を歩き出した。
ネオン王城は、北側の岩壁に食い込んで建っている。主都で最も大きい建物で、監視塔、水耕塔に勝って、遠目にも目立っている首都の象徴だった。窓の少ない廊下は洞窟のようで、点々と並んでいる燭台の、星のように小さな光がいくつも見える。階段を回って、また回廊を巡って、衛兵が立つ大扉の前に僕と、みんなが立っていた。「ネイザボゥ様、ご用件は?」
「先頃と同じです。この者達が王に呼ばれて」
「ネイの男児なんて名前、禁止されて長いだろう。スレンジーは最後のネイザボゥだ」
「ガ字にも居たねえ。ネイザボゥが。本人は首都に行った事はないって言ってたけど」
ルルガルと母様が小声で話している間、衛兵の一人が戸を薄く開け、中に入ってまた戻って来た。「どうぞ、中で王がお待ちです」文官が先に進み、僕は母様に押されて、応接間に入った。思ったよりも、中は広いだけで、物は少なかった。美々しい玉座、使い込まれた鎧兜、奪い集めた美術品、一つも無い。部屋の中央に円卓があって、その奥側に、壮年の男が先に腰を下ろし、両脇に衛兵が立っているだけだった。「来たかね」と言った領主、ポーラポー・ネイザキンは、むしろ歴戦の戦士のようで、冷たく険しい目元に、古い刀傷が引き攣っている。
文官が左、ルルガル、僕、母様が並んで椅子に座った。
みんなをゆっくりと見て、領主ポーラポーは、ゆっくりと息を吐いた。
組んだ手を解きながら、薄い口の隙間から風のように乾いた言葉が漏れた。
「鉄の王を知っているか」
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