鉄の王の記

@godaihou

一体目「帰還するまでが死体」

 夜の海を逆さにしたような、黒雲の広がる悪天が地の果てに続いている。

 第一番大通り、往来に沿って集まった人々は、十二人か二十四人かってところだ。

 外套に身を包み、ふと悲しみの色を差す顔を伏せて、言葉を交わさずに待っていた。

「もうそろそろかねえ」と母様が言い、僕の腕を引いた。

「もうそろそろですね」と答えてやり、僕は石門を見た。

 周りの人々も、母様と同じような年嵩の、ほとんどが女性で、付き添いが居た。

 焼き串を売っている露店の前には、ローブを纏った銀髪の少女が居て、主人と何か揉み合っているようだ。持っているのは、腸詰めの羊肉を丸めて焼いた串だ。滴った脂、煙の匂いが風に乗って、往来に漂って来ると、悲しみの色がいっそう渇き、人々が生唾を飲み込んだ。

 聞くに「前の細君は温め直してくれたのだが。これは冷めている」という話。

 話している間に冷めたのだ、という言い分も尤もで、主人は商売の邪魔になるからと銀髪の少女を追い払おうとした。即座、腕を振り上げた少女を、上背の大きな文官が抱え上げ、露店の前から引き下がらせた。「待て。冷めたら屍肉と変わらないだろうが。あの詐話師に知らしめてやらないと、おい。スレンジー」と呼ばれた文官は、聞こえていないように、路地裏まで少女を引きずっていった。一人、二人、三人。それを見ていた人々も、目を門に戻した。

「正門、開放」と番兵が宣言する。「第四次北部遠征隊が間もなく帰還する」

 門の両側に付いた三人と三人の兵隊が縄を引き、重厚な門が上がり始めると、丘を下る街道が少しだけ見え、そこに枯れ木のような影がゆらゆらと現れた。完全に門が開いて、往来に沿って集まった人々の中から溜め息の波が起こった。馬を牽き、市内に入って来て、疲れ切った兵隊が、包帯を巻いていた。添え木を当てていた。杖を突いていた。腕を布で吊っていた。

 ネオン領、主都ネイ市、石門前に群がる人々の顔を見れば分かる。

 南北に長く伸びる尾根に沿った領地は、中枢から僻地を見張る事容易ではなく、領を接する国々からの侵略に脅かされていて、高地に移された字の多くが要害となり、護衛隊が日々夜々に亘って周辺の監視を行っている。だから、字の庶子は古くから、兵隊の姿を見、惚れるようになる。ガ=ヴィーアの二子、ラパンも、幼い時から鍬よりも槍を好んで持ち、森の中で猪狩りを、賊狩りを行っていた。そして十八の年にはネオン軍に志願し、正規の兵隊となった。

 西王暦一〇〇九年、ユヴァ暦後三十期。

 凍えるような朝に見た兄の勇ましさの顔を思い描いた。

 二、四、六頭もの馬が鈍く鈍く進むと、その馬車に積まれた死体、武器、残った食料が道に落ちた。それを薄汚れた幼子が引っ掴んで、人々の足元に頭を潜り込ませ、見ていた兵隊、兵隊の家族、書記官、療術師は誰も引き止めなかった。人の頭の動きを見ていくと、幼子は路地の方に逃げていったようだった。さっきの銀髪の少女は、もうどこにも姿が見えなかった。

 馬の後には、兵隊と、兵隊が肩で支え合いながら更に鈍く鈍く歩いてきた。

 腕を引かれる。

 ハンダン母様が顔を見上げて、何か言いたそうに口を動かしている。

「ラパンは、この隊に居るんじゃなかったかい?」と母様が聞いた。

 第四次北部遠征隊、第七班か、八班。

 帰還が告げられたのは一夜、二夜を経る前の事だった。

 風術師達はお触れを出し、縁者は迎えを出すようにと領内に告げた。

 僻地から主都まで、五夜も歩かないと着かないような字からは、誰も来ていない。まだ移動している最中なのか、迎えを出す気もないのか。夫を亡くしたばかりのハンダン母様にとっては、庶子であれ、大事な家族ではあるけど、兵隊になるのは跡継ぎ長子ではないから、そこまで大事にされていないのだろう。「知ってる顔が居ます、あの兵隊。第七班に居ました」

「やっぱりそうだいねえ」

 深く皺の刻まれた顔は困惑の色味を増し、母様は僕と兵隊を何度も見た。

「まだ列はありますから、ラパン小兄様は遅れてるのかもしれません」

「でも。心配だってちょっと聞いてみるよ」

「あ、待って」と引き止める間もなく、母様は列に向かって駆け出した。

 まさに近くの兵隊は、腰に巻き布を纏っただけの恰好で、皮の帯で繋いだ鉄の胸当てを、心臓よりも遥かに遠く、脇の下に垂らしたまま、刃毀れだらけの長剣を杖に、背を丸めて歩いていた。夢中の目で母様を見ると、即座に疲れの色を濃くし、兵隊は顔を背けてしまった。

「すまないんだけど、ラパンっていう兵隊が同じ班に居なかったかい?」

「なんだ、ラパン?」

 擦り切れた声で聞き返し、その兵隊は縋り付く母様を振り払おうとした。

「うちの子なんだ。この七班ってとこに居たんだ」

「知らない。他に聞いてくれ」

「知ってるよ。ラパンは、同じ班は良い奴ばっかりだって」

「おい嬶、何人死んだと思ってる。そのラパンなんかもどうせ死んだんだ」

 その言葉を聞こうとしなかった母様は、兵隊の腕に縋り付いて、同じ質問を繰り返そうとしていた。「母様!」僕は母様を引き離そうとしたけど、遅れて、目の前で母様が倒されるのを見た。「母様、どこか痛めましたか?」兵隊は足を止め、長剣から手を離して立っている。

「なんだ、小猿が。己の親の悪態も見過ごすのか」

 頭一つ、二つ、僕よりも大きい兵隊が、上から手を出してくる。

「なんだその顔は。何か言いたいんだったら言ってみたらどうだ」

 足元の母様も、目の前の兵隊の事も離れ、風身功の思い出と向き合っていた。

 流れ者の、ヴォーテル・ガという白髪の小男が教えてくれた戦わない技。

 ガ字を名乗っても姓はなく、村の外れの粗末な板張り小屋に寝ていたヴォーテル。

「水で満たした瓶を逆さにして、そこから水を取り出すように」と言ったヴォーテル。

 寒さの中で息絶えたヴォーテル。

 風身功は、掴み掛かろうとする兵隊の腕を逸らしながら、僕の足は一歩で兵隊の足の向こうに、二歩で兵隊の側面に滑り込んで、その腕を取って手首を返し、肩と肘が噛み合うように固めてしまう。ヴォーテルより大きかった僕も、簡単に腕を取られて何度も転ばされていた。

 そうやって完全に体重を捉えたと思った兵隊の、その腕が力強く振り回された。

 足元を失った次には、兵隊の体の向こうに黒い空が見えていた。

 倒され、伸し掛かられ、そして長剣は兵隊の後ろの、地面に突き立ててあった。

 僕は素早く腰の短剣に手を伸ばし、背中が地面に付いたら、その場に体勢が安定した事を感じながら、兵隊の喉元を見ていた。銀色に閃く何かを見ていた。刃先が打ち合う音が、耳の奥でいつまでも鳴った。手が熱く、痛くなって、手から顎に垂れてくる液体は冷たかった。

 横から扱かれた槍は僕の手と短剣を打ち、兵隊の喉元をずっと通り過ぎていた。

「失礼」と文官の大男が言った。「止めるつもりが、手を切ってしまった」

「本当にこの兵隊を投げたのか。こんな、痩せ犬みたいなのが」

「ふむ。ルル嬢、危ないので下がっていて」

 いよいよこの異様な二人の登場に対し、兵隊達も、集まった人々も動けなくなり、そこから段々に話し声が聞こえ、大きくなり、往来は喧噪に包まれた。文官が槍を立て、石突で地面を打って、言った。「静かに。これから三人を療術院に運ぶ。手を貸せる者は前へ出ろ」

 不安定な狭い場所に移され、それが布を張った担架だと気づく頃、僕は下ろされていた。

 白い上衣を纏った療術師はグスマン・オリファントと名乗って、無垢な白い部屋の中で、僕を寝台に寝かせ、僕の右手を取って眺めていた。「ここが悪いのかね。としたならば、体を起こすかね。そこの椅子に座れ。今療術球儀を持っていく」グスマン師は寝台の周りに置いてあった模型を引きずって来た。腕を折り曲げたような台座に、鉄の爪があり、爪に鉱石が嵌め込まれている。その模型は傷病人を囲むように四つあって、次は椅子の周りに設置された。

「手を出してくれるかね」

 手を出して、僕は言った。「あの、母様は」

「ハンダン・ガ=ヴィーアか。その方は執政室に呼ばれている」

「どこか痛めてたりするんじゃ」

「何もない。血も流さず、痛みも訴えず、自らの足で歩いて来た」

「それなら、いいです。あの、療術球儀っていうのは」

「見るのは初めてかね。高地の字の住民は療術師の手を使う事もないものか」

 療術は秘石術の中でも歴史が古く、多くは虫の真名を使って、縫ったり、固めたり、冷やしたりという効果を得ていた。生命の力を与える為に、生物のマナが必要になるので、グスマン師は水を溜めた錫の桶に川魚を入れて持ってきた。「手を中に置いて待つ事だ。名前は」

「シマパン・ヴィーアです」

「シマパン。この魚に名前を付けるんだ」

 浅黒い鱗に包まれた、丸々と太った体をうねらせ、魚は桶の中で回っている。

 髭が生えた、虚ろな目をした、大きな口を開けたそれは、生臭そうな魚だった。

「ヴォーテル」

「よし、ヴォーテル。マナを貰うがね」と、グスマン師が魚を取り出した。

 療術は、まず四つの鉱石が光の筋を手に当て、優しい暖かい感じが伝わって来た。

 それは熱くなって、激しくなって、手の中でマナが動き回るようだった。

 特に切られた太指と中一指の間が突っ張るようで、僕は手を動かしそうになった。

「シマパン、動けば傷跡がずれる」

「はい、注意します」

「さあ……、終わりだ。ふうむ」動かなくなったヴォーテルを桶に戻し、グスマン師は僕の手を顔の前に持って、揉んだり引っ張ったりしながら、傷跡の様相を確かめた。「秘石術との釣り合いは良いようだね。その首飾りは、ハンダン母御の祝福か。ユヴァの紋章に見えるね」

「農耕神カーシュが彫られています」

「そうか。ヴィーアは農家系か。字には水耕栽培塔を建てたのかね」

「いや、その。そろそろ母様の所に」

「おお、おお、そうだね。迎えの者を呼ぼう。こちら療術院、オリファント。ヴィーアの子の療術は終わった」机の上にあった鉱石に話しかけると、それからほどなく、兜と肩当てを身に着け、槍を持った衛兵が来て、グスマン師と少し話した。そして戸口の外に出ると、グスマン師が立ち上がった。「執政室に連れていく。手の予後が悪ければ、また来ても構わない」

 外は長い回廊になっていて、衛兵の後を、王城に向かって長く長く歩いた。

 正門の方へ、二名も四名も、多くの負傷兵がのろのろと列を作っていた。

 隣国パラグラフと接する剣の瀬渓谷を監視する北防隊から、主都に救援要請が届いたのは三周月も前の事だった。訓練生だった兄ラパンは遠征隊に組み込まれ、二夜後には主都から出発した。その渓谷では、パラグラフ王家の家宝を盗み出した賊が川を越え、ネオン領に逃げ込んで北防隊の新兵を一人切り殺した。北防隊は賊を主都に連行しようとし、パラグラフ軍は引き渡しを要求し、押し合いの中、協議によって王家の財宝の返還が行われる事になった。両軍の司令官が橋上で立ち合い、まさにその場所、時刻、状況で炎が上がって橋が落とされた。

 夜のうちに秘石術が仕掛けられたものらしい。

 パラグラフ軍とネオン軍はお互いに相手方の工作によるものと主張した。

 先に動き出したのはネオン軍だった。

 副長の判断により、賊の処刑が執行された。それにより、パラグラフ軍は家宝の隠匿を行っていると疑惑を持ち、ネオン軍に宣戦布告を行った。あとは、どちらからともなく、石が矢になり、矢が火になり、火が槍になり、兵隊と兵隊が争い始めると両軍は話し合いをやめた。

 今や賊の侵入さえもパラグラフ軍の策略によるものと言われている。

 そして帰って来たラパンは、袋に放り込まれた腕章と首飾りだけだった。

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