領土の確定

紫鳥コウ

領土の確定

 スーパーボールだと思って地面に叩きつけたら、パリンと割れて、ビーダマだったことを知った。取り返しのつかないことをした。これはきっと、おばあちゃんの紫色の巾着袋きんちゃくぶくろに入っていたもののひとつだ。

 えんえんと泣いていると、怪我をしたのだと思って、友達がお母さんを呼んできてくれた。でも、泣いている理由をかれも、本当のことは言えなくて、よりいっそう大声で泣いた。その日の夜は、のどがひりひりするのを感じながら眠った。

 だから夜に、喉がすると、あのときのことを思いだすのだと、彼女は寂しそうに口にした。おばあちゃんは、自分を責めることはなかったけれど、目尻に涙を浮かべていた。それは、わたしが怪我をしなかったからだと言っていた。でも本当に?

 本当は、大切なものを割られてしまったから、悔しくて泣いていたのかもしれない。そう思えば思うほど、おばあちゃんを大事にしなきゃと焦った。だけど、空回りばかりしてしまって、迷惑をかけることが何度もあった。

 そのことは、自分にとってのトラウマで、いまでも泣きたくて苦しくて死にたくなるのだと、彼女は震えた。そっと抱きしめると、バッと突き放された。そんなことでごまかせるほど、この傷は浅くないし痛くてしかたないのだと。

 僕はもう、彼女を愛することができなくなった。彼女の繊細せんさいさを理解してあげられる、もっと相応ふさわしいひとがいると思ったから。もちろん、そんなことは口にせずに、きっぱりと別れてしまった。


 この経験は、僕にトラウマを植え付けた。もう誰ともお付き合いをすることはないだろう。ひとりで生きていこう。どこまでも、ひとりで。

 しかし、人肌寂しいのも事実だった。両親を亡くし、兄弟もいない僕には、手を繋ぐことのできる人は、自分自身しかいなかった。右手と左手を合わせて、いただきますと言うようになった。こんな些細ささいな礼儀が、どこか心地よく感じられた。

 忘年会で、そういう僕の作法を見た彼女は、「乾杯のあとに手を合わせてビールを飲むひとは、初めて見たかも」と笑った。肺の中心に、捺印なついんを押されたような気分だった。涙がこぼれ落ちそうになった。

 彼女は――柑奈かんなはこの飲み会で、班田収授はんでんしゅうじゅほう墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっとの響きが好きだと、三回くらい言ってきた。父親は民俗学者で母親はソフトボール選手らしい。本当かどうかは分からない。

 最初は、ショートを守っていると言っていたのに、二十六分後くらいには、ライトがポジションの選手になっていた。それを指摘すると、ユーティリティー・プレイヤーなのだと、気まずそうにはにかんだ。

 もちろん、柑奈は僕の彼女になった。僕は柑奈の彼氏になった。恋人というより、その一段上の関係を築いているように感じていた。しかし、さらにもう一段、踏み込もうとすると、強烈な磁力のようなもので、僕たちはねのけられた。

 職場で会うと、僕たちはパッと後ろを振り向き、誰もいないことを知ると、手を握ってからすれ違った。エレベーターに乗るときは、ふたりきりになれるように、すぐに「閉」を連打することもあったし、迎え入れるために「開」を押し続けることもあった。

 こういうことをするたびに、遠くに突き飛ばしたはずの青春が、ひょっこりと戻ってくるのを感じた。そして「家族」への撞着どうちゃくをも呼び起こした。しかし、結婚に至る気配は一向に見えなかった。


 そんな柑奈と別れたのは、いつまでも結婚をしなかったという理由だけだった。彼女はいつそれを切り出してくれるのか、焦りに焦っていたし、どんどん怒りを感じはじめていたらしい。だけど、僕はその一線を越えられるほど、いろんな意味で強くはなかった。

 結婚をしてしまえば、もう二度と、それ以前の関係には戻れないということは、僕にはあまりにも恐ろしく、もったいなくも思えた。いままでどおりに、恋人どうしより一段上にある関係性を楽しんでいたかった。しかしそれが、すれ違いの原因になってしまった。

 僕はまた、ひとりになった。もう「四十歳」が視野に入りはじめていた。なにかしらの「諦め」を決断する時期に来ていると感じていた。もう、結婚をということなのか。逆に、結婚をということをということなのか。

 ぼくには、なにかしらの線を越境する覚悟が、そろそろ必要とされているらしい。


 遠方へ出張をしたとき、近くにあった寺の本殿に手を合わせていた僕に、おずおずと声をかけてきた人がいた。どうして三日連続で来るのかとたずねられたので、「なぜだかは、あなたが知っているでしょう」とこたえてみた。

 僕たちは、もちろん、付き合うようになった。二十二歳の彼女と付き合うのは、どこか気恥ずかしさと後ろめたさをともなうものだった。しかし、彼女の心奥しんおうで、大人の関係へと昇華したいという意志が燃えたぎっているのを、僕は知っていた。


 大晦日おおみそか。僕はお守りや破魔矢はまやを売るのを手伝わされた。そして明け方、僕たちはこんな会話をした。

「たこあげを教えることってできる?」

「きみに?」

「ううん。わたしたちの子どもに」

「もし、結婚して子どもができたらね」

「ここの近くに大きな公園があるでしょう」

「うん」

「海が近いところ」

「うん」

 もろそうで寂しい藍色あいいろの夜は、あの「線」を、どこかへと隠してしまったらしい。いまなら、あちらへと越境することができそうだった。

「今年は雪が降らないけれど、来年は……」

「きっと大雪だと思うわ」

「じゃあ、結婚しないと困るね」

「そうね」

 彼女の手がそっと僕の布団の中へと入り、小指をつかまえようと、闇雲に、いろんなところをさわってきた。じれったくて、こちらから彼女の小指をとらえた。強く巻き付かれたものだから、ねじれて痛かった。

 痛みを声に出したのがおかしかったのか、彼女は布団に口を押しつけながら笑った。



 〈了〉

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