第二章 秋雨青春前線
第9話 先輩と後輩
カフェ・アンドルディスでの問答、その翌日。
言い換えるのなら
俺は諸々の話を能三先輩に伝えるべく、放課後一番に西校舎三階へ向かった。
「…………ち」
当然だが、右を見ても左を見ても上級生だ。
しかも受験シーズンということもあり、なんというかフロア全体が厳かで、かつじっとりとした雰囲気に包まれている。
空気が重い。居心地が悪いなんてもんじゃなかった。
確かに俺は能三先輩に惹かれているが、かといってわざわざこんな空気の中で雑談をする程のメンタルは持ち合わせていない。
さっさと用事を済ましてしまおうと思い、先輩がいるであろう教室へ。
そして、教室の真ん中――その最前列に
相変わらず、西洋人形のような美しさで彼女はそこにいた。
さらりと垂れた黒い髪は余程念入りに手入れされているのだろう。廊下から見てもはっきりと分かるくらいに艶々としていた。
細い目で真剣に卓上のテキストに向き合うその姿は、学生というよりキャリアウーマンのような、要はオトナな雰囲気に近い。
「良いよなあ……」
ぼそり、と呟く。
ところで先輩は気付いているのだろうか。
勉強に夢中になるあまり、抱えた二つの双丘が身体と机との板挟みでぎゅむむっと形を歪ませている事を。
「良いよなあ……」
もう一度呟く。他意はない。
てか、よく周りの男子も気にしないな。いいや、自分の受験勉強に精一杯でそれどころではないのか。
俺も来年にはああやってリビドーから解き放たれた勉強の鬼と化すのだろうかと、ふと考えた。受験生っていうのが一体どういう心持ちなのか、想像もつかない。
ともかく近場にいた上級生にお願いし、先輩を呼び出してもらう。
こちらに気づいた先輩は物珍しそうに目を丸くした後、柔和な笑みを浮かべて近づいてきた。
いや、事実珍しい事か。俺が先輩を訪ねるのは。
「一宮さん? どうしたの?」
「忙しい所すいません。ほら、あの部活動の件で進展がありまして」
廊下に二人並んで、事の顛末を伝達する。
先輩は女生徒の中では長身な方で、丁度俺と同じくらいの背丈をしていた。
整った顔が、艶やかな髪が、すぐそばにある。
どこか甘い匂いに若干クラクラとする意識の中で、俺はおおまかな状況を説明しきる。
正直なところ、我ながらお手柄だと思っていた。
例の『条件』は俺だけの問題だからさておいて、なにせ落ち目の文芸部に本物の小説家を招いたのだ。
これはもう凄い事だろう。起死回生の一手と言って遜色あるまい。
その上先輩は俺とは違い読書家で、確か二階堂の作品も読んでいたはず。ファン、かどうかは知らないがそれなりに憧憬みたいなものもあるだろう。
つまり、あるいは好感度すら稼げるかもと下世話な思考すら抱えていたのだが。
「……そっか。二階堂さんが、ねえ」
俺の予想に反して、先輩の表情は少し曇り気味だった。
首を傾げざるを得ない。
なぜそんな釈然としないというか、割り切れないというかのような表情を浮かべるのか。
考えて、ふと思い立つ。
「もしかして先輩、アイツの事苦手でしたか?」
「へ?」
「だって、その……」
どう言葉にしていいのか分からず言い淀むと、先輩がそれを汲み取ってくれたのか笑顔で首を横に振る。
髪が揺れ、また脳が蕩けるような香りが振りまかれた。
「ああ、いや、違うの」
一言告げた後、先輩は言葉を探すように数秒間中空を見つめ、再度口を開く。
「ほら現役の作家さんが部活の後輩になるのって緊張するなーって。別に苦手だとか、そういうのじゃないから安心して」
「そう、ですか。まあ分かりますけど」
「うんうん。いやー、どうしよ。私が書いた作品を酷評されちゃったら。けどそれも良い経験だよね。悩ましいなあ」
――嘘だ、とはっきり分かった。
俺はまともな友人関係を持っておらず、コミュニケーションだって苦手だ。
何が言いたいかって、そんな俺でもわかるくらいに、先輩の嘘は下手だった。
安心して、と言われても困る。どれだけ取り繕っても、未だその表情に陰りがあるのは確かなのだから。
……真意を、聞くべきだろうか?
考えて、内心で首を横に振った。
自分から言わないということはつまり、わざわざそれを聞かせたくない事なのだろう。
それに踏み入れる程、俺と先輩の仲は深くない。
むしろ、その関係性は浅いと言っていい。
あくまで部活の先輩後輩。その部活動すら大して盛り上がっていないせいで、お互いの連絡先すら知らないのだ。
多少顔を合わせただけの他人。友人ですらない位置。それが彼我の関係性。
……ああ、ちくしょう!
考えれば考える程勝率がねえなあ!
そんな内心を見破られぬよう、俺は愛想笑いを浮かべる。
物理的な距離はこんなにも近いのに、その心の距離はどこまでも遠い気がした。
やっぱり、人間関係と言うものは厄介で難しい。
「で、二階堂さんの入部だっけ。おっけーおっけー、私の方で顧問の先生に伝えておくよ」
「お願いします……。あー、そういえば誰でしたっけ、顧問の先生」
「こらこら、覚えておきなさい」
叱られてしまった。けど仕方ないだろう。
最後に顧問が部活に顔を出したのが何時なのかすらも思い出せぬほど、文芸部の運営は死んでいるのだから。
「野球部と兼任してるあの先生だよ。ほらー、あの……あれえ?」
出来の悪い生徒を叱る教師のようなキリっとした表情から、三歩歩いて全てを忘れた鳥のような表情へと先輩のそれが移り変わった。
「えっと、ほら! あの、ええ……?」
「先輩も忘れてるじゃないですか」
「し、仕方ないでしょう! だってほら、先生全然来ないもの!」
「なにせ野球部と兼任ですからね。忙しいんでしょうよ」
まあつまりは、だ
適当に役職だけ、名義だけ宛がわれたということだろう。
教職員は人員がカツカツとも聞くし、わざわざ碌に活動実績も上げない部活動に専任の顧問を作るより妥当だ。
まあ、こちらとしてもありがたい。
一々先生が見回りに来ていてはサボれないからな。
ああ、けど今後はむやみにサボる訳にもいかないのか。
面倒な。やっぱ廃部に甘んじた方が良かったかもしれない。
「とにかく、後はお願いしますね。じゃあ、俺はこれで」
先輩との会話である程度ほぐれてはいたが、受験ムードでピリピリとした階層にこれ以上留まるのはしんどかった。
というか方々から刺さる視線が怖い。
受験は置いておいても、何せ話している相手が学年中の、いや学校中の男子から大人気の能三芽衣先輩だし。
妙な因縁を付けられても困る。
さっさと退散しようと足を階段の方へ向けたその時だった。
「ねえ、一宮さん」
呼び止める声があった。
殆ど条件反射で振り向くと、心配そうに――いや、何かを伺うような様子の先輩がいた。
俺はそんな先輩の表情を、初めて見た。
昨日と言い、近頃はこれまで知らなかった他人の表情を見る機会に恵まれている気がする。
あるいはこれも、何かが変わり始めた暗示なのか。
そして、先輩は。
突如として、俺に一つの問いを投げかける。
「二階堂さんの事、どう思う?」
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