第8話 雨音の中で変わるもの
テーブルの向かい側。
提示された言葉を、俺は思わず復唱した。
「……条件?」
「そう、条件。よく考えてもみなよ。別にボクが文芸部に所属した所でこちらにメリットは無いだろう。家に帰ってやりたいことだって無数にあるし、ボクは今の帰宅部で十分満足しているんだ」
「そう、か」
言い分は分かる。
そもそも近頃の彼女はそれなりに多忙だろう。少なくとも何も考えずに日々を怠惰に過ごす俺なんかよりは、ずっと。
しかも井原南文芸部はサボリ魔の巣窟。入ったところで彼女に何か新しい知識やインスピレーションが浮かぶべくもない。
その理屈でいけば、確かに二階堂未央が文芸部に入るメリットはゼロだ。
だが一つ彼女は間違いを犯している。
「メリットならある」
得意気に笑みすら浮かべて、俺は短髪の少女に対峙する。
「文芸部に所属するメリットなら、確かに」
「ほう。新たに学ぶことなんて無いと思うんだけど、さてそのメリットとは?」
「俺が、所属していることだ」
「――――ちっくしょうめちゃくちゃ魅力的じゃないか‼」
ぐいっ、と身を乗り出してキラキラとした目で俺を見ていた。
近い。何かいい匂いがするのは何だお前。
「くっ、いい手札を持ってるじゃないか」
……コイツマジでシリアスが続かねえのな。
とはいえ流石に二階堂もそこまで単純ではなかったらしい。
席に腰を下ろし、こほんと咳を一回。片目を瞑りながら笑う。
「ま、どうあれボクの出す条件は絶対だ。これさえ守ってくれれば二階堂未央は喜んで一宮柊に身体を差し出そう」
「文芸部な、文芸部。差し出されたところでいらねえから」
「うう……やっぱり胸か。おっぱいか。ボクの身体が貧相だからいけないのか……‼」
勝手にショックを受けている馬鹿が一人。
ころころと表情が変わるのは退屈しないから良いが、追いついていくのが面倒だ。コイツはもう少し相手の会話ペースに合わせるということを覚えた方が良いと思う。
「――で、なんだよその条件ってのは」
「呑んでくれるのかい?」
「内容を聞いてからだ。例えば、あー……一億円寄越せとか言われても無理だし」
「考えた末の例えがそれかい。想像力が乏しすぎるよ一宮クン」
うるせえよ。いいだろニュアンスが通じるなら。
そんな意味も込めて俺は彼女を睨みつけるが、くすくすと笑われて躱される。
相も変わらず掴み所が無いというか、何というか。
ともかくペースを取り戻すべく、大きくため息を吐いて思考をリセットする。
「で、条件の内容だっけ。まあそう難しい話じゃない。一宮クンにはやって欲しい事があるんだ」
「やって欲しい事、ねえ」
「そうそう。なあに、ちょっとした作業だよ。それに、キミなら得意なはずだ」
「あぁ? 俺が得意なもの?」
脳裏で自分の得意なものを思い浮かべてみる。
……駄目だ。碌に誇れるものがねえ。
自分がいかに適当に生きてきたのかを思い知らされているようで辟易する。
つまり、思いつくものは何も無かった。
「…………?」
じゃあ眼前の少女は一体何の事を言っているのか?
まさかその身体を一日貸せとか言う訳でもあるまい。仮にそうであればこの場で三桁の数字をスマホに入力して眼前のストーカー予備軍とは今生の別れを告げる予定だ。
……という冗談は置いておいて。
「つまりだね」
二階堂の提示する条件とやら。それが何か?
その答えは、すぐさま向こう側からやって来た。
これまでの和やかな雰囲気を壊すべく、突如としてそれはやって来たんだ。
「風景画だ」
「――――ッ⁉」
ガゴンッ‼ と。
脳の内側にハンマーを振り下ろされたかのような衝撃が走った。
「お、まえ——っ」
瞬きの間に動悸が激しさを増す。
額に、背中に、嫌な汗が噴き出した。
ぐわんぐわんと世界が歪んでいき、数多の音が遠くなっていく。
景色が遠のいていき、意識が酩酊していく。
さながら世界に対して拒否反応を示しているかのように、俺は一瞬息をする事すら不可能になっていた。
それ程の衝撃。
たった五文字。されど五文字。
その言葉は俺の全身を鳥肌で覆うのに十分過ぎた。
そんな俺の様子を無視するかのように、二階堂未央は言葉を続ける。
「三学期が始まるまでに、一宮クンの手で風景画を一枚完成させてほしいんだ。それがボクがキミに出す条件」
「お、前……」
――大丈夫、大丈夫だから‼
「ち、くそっ」
脳裏に浮かんだあの光景を振り払う。
かつての、中身のない言葉を振りかざしていたころの自分を消し去る。
ああ、くそ。それどころじゃねえ。そもそも今の問題はここじゃなく。
「テメエ、なんで知ってんだ。なあ‼」
肩が震えていた。
本当に、なんなんだコイツは。
先ほどまでの楽しい雰囲気だとか、そういう軽い気持ちはとっくに冷めていた。
代わりに芽生えるのは赤色の感情。つまりは怒りだ。
「どこまで知ってるんだ、なんで……っ‼」
「どうどう。店内だ。店員さんに迷惑をかける訳にもいかないだろう」
「っ、の――‼」
やっぱりコイツは駄目だった。
関わっちゃいけない。触れてはいけない爆弾なのだ。
だってそうだろう。理由も無く人を好きになる人間なんて、ロクなヤツじゃない。
その上コイツは何故か俺の過去を知っている。
どうやって調べ上げたのかは分からないが、異常だ。異常な執着だ、これは。
「さて、どうだろう。この条件は」
どうだろうも、なにも。
そもそもその条件を俺が呑む必要などない。
呑むくらいなら、この文芸部が廃部になった方が余程マシだ。
「嫌だ。お前が何をどこまで知ってるかは分からねえけどな、俺はもう描かないって決めたんだよ」
「嘘を吐くなよ一宮クン。未練があるから部屋の画材が捨てられないんだろう?」
「……ち」
「ほらね」
ほらね、じゃねえよ。何でも知ってやがる。
盗聴器とか仕掛けられてるんじゃないだろうな。
それともこれはカマをかけたのか。
「なあ。ボクだって意地悪で言っている訳じゃないんだよ。そろそろキミも吹っ切ってもいい頃だって、そういう話をしているんだ」
「……吹っ切る、だあ?」
ふざけんなよ。
何様のつもりで話しているんだ、こいつは。
いっそ固く握ったこの右拳を振りぬいて、にやにやと笑う二階堂の顔面を殴ってやろうか――なんて。
そんな危険な思想すらも浮かぶ。
……ああ、くそ。
冷静になれ。流石にそこまでする程じゃねえだろ。なあ。
浅く呼吸をして、血に沸いた脳を落ち着かせる。
「……はあ、分かった分かった。今すぐには決められないんだね」
「今すぐどころじゃない。俺は描かないって言っているだろ」
そこは譲れない。
瞼の裏に浮かぶあの景色。
彼方にまで続く緑色の起伏。光を反射してキラキラと空を写す湖面。
次に風景画を描くというのなら、その題材はあれだ。
だけどその日はやってこない。絶対に。
「……やっぱり、ここまで引き摺っていたか」
そう言って俺を見る彼女の目は、何故か優しかった。
嘲笑とか愚弄だとか、そういうものは無い。何というか、愛おしいものを見るような、そんな目をしていた。
だからこそ、意味が分からない。
こちらの過去を穿り、その上で優しい目をするなんて。
「なんで――お前はなんなんだ!?」
荒げた俺の問いに、二階堂はどこまでも落ち着き払った声で答える。
「一宮柊に恋した一人の小説家だよ」
にこりと、場の雰囲気のそぐわぬような笑みすらして見せて。
そして二階堂はころりと表情を戻す。
俺の内面を伺うような、調子を確かめるような表情に。
「勘違いしないで欲しいんだけど、本当にこれはキミの為を思って言っているんだ」
「…………」
言わんとすることは、分かる。
俺だってずっとこのままでいいとは思っていない。
あの出来事を、いつかは乗り越えなければならないのだと。
「けど、俺は」
「……分かったよ。なら譲歩だ。仮入部、というのはどうだろう」
「仮入部……?」
復唱した俺に対して、彼女は「ああ」と相槌を打った。
言葉の意味は分かる。
だが、譲歩というのは。
「冬休みまでの間だけ、部員として参加しよう。そして少しだけ協力する。要はアドバイザーみたいなものさ。そうして活動をしていれば、少なくとも来年始まってすぐ廃部ってのは無くなるだろう。その後は知らないけど」
それは、確かにそうだ。
部活を存続させるうえでの最善は、二階堂未央が在籍し続ける事。
だが、それだけが手段じゃない。
彼女の言葉通りにすれば、少なくともすぐさま廃部はありえない。
「だから、三学期だ。三学期が始まるまでの間にキミが風景画を描けば、ボクはそれ以降も文芸部員として活動しようじゃないか」
「待て。待てよ、勝手に話を進めるな。俺は一言も良いだなんて、」
「おや。キミにとって都合の良い話だと思うけどね。どう転んでも、今は保たれるんだし」
……だとしても、だ。
彼女の舗装した道を歩くのが、怖くなった。
風景画。
二階堂未央という少女が俺の過去をどこまで調べ上げているのかは未知数だが、このまま彼女の言に振り回されていたら、取り返しのつかない場所まで行くんじゃないか、と。
――だけど。
「ねえ、ボクは心配だよ。キミはいつになったら正しい意味で笑えるんだい?」
「――っ」
眼前の少女の、その表情は。
その心配そうな顔は。
嘘じゃない気がして。
ああ、ちくしょう。掴み所がまるでない。
どこまでが虚飾で、どこまでが本音なんだよ、お前は。
「……ああ、くそ!」
先に根負けしたのは俺だった。
確かに彼女の言う通りだ。俺がアレを乗り越えずとも、ここで頷けば暫くの文芸部の安泰は確保されるのだ。
俺にとってデメリットは無い。強いて言うのならこの得体の知れない女に部活動中も付きまとわれる事だが、それも普段とあまり変わらないのだから無問題だった。
「分かった、分かったよ! とりあえず、仮入部だ。そこまでは受け入れる」
「受け入れるのは部長さんじゃないのかい?」
「うるせえよ。それにどうせ次期部長は俺だ」
なにせ、俺以外の部員は全員顔を出してないからな。
言うと二階堂は笑みをこぼした。それは俺の言葉のせいか、それとも仮入部という案に着陸したせいか。
彼女は残っていた水をすべて飲み干して、席を立った。
雑談の合間にパンケーキは完食していた。俺も席を立ち、会計へと向かう。
「付き合わせた礼と、ボクを受け入れてくれた感謝だ。ここは奢ろう」
あっ、と俺が止める間もなく、二階堂は電子マネーでささっと決済を終了させた。
金額がやたら高い。甘味ってボリュームの割に値段が張るから厄介だ。
「ほら、行こうか」
先を行く二階堂は振り返り、微かに笑みを浮かべる。
追うようにして、外に出た。
ある程度マシになったが、未だに雨は降っていた。
二人揃って傘を取り出して、ちぐはぐな住宅街に二色を花を咲かせる。
「じゃあ、これから本格的によろしく。一宮クン」
「……よろしく、つってもだな」
「まあ条件の話はまだ先だ。それまでは普通に部活動の仲間としてさ」
「………………おお」
首を縦にも横にも振れず、俺は曖昧な返事だけをして彼女から顔を背けた。
距離感が分からない。
信用信頼なんて以ての外だ。
自分の事を語らず、何故か俺の過去を知っている少女。信頼に足るはずもない。
だけど、ここまでされて。
俺のかつての秘部を明らかにされて。
つい先ほど激高の寸前にまで感情を揺さぶられて、尚。
何故か――本当に何故か、俺は二階堂未央という少女の事を嫌いにはなれなかった。
いや、むしろこれまで以上に惹かれているような、そんな気すらあった。
好意ではない。
あるいは、それは未知や変化に対しての危険な好奇心だったのか。
「……何度でも言うけどさ、これでもキミの事は好きなんだよ」
「そうかよ。ならなんで俺の過去を知っているのか聞きたいもんだが」
「ごめんね、それはお断りだ」
「…………ち」
ある日。絶えず鳴り響く雨音の中で。
隣を並んで歩いていながらも、その心の距離は未だ遠い。
だけど。
確かに何かが変わる予感があった。
何かが、変わり始めていた。
スマホに入れていた天気アプリから通知があった。
連日続いていた残暑は明日以降ようやく終わるらしい。
秋分から少し遅れて、正しい季節がようやく到来する。
――――読書の秋が、やって来た。
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