第6話 知るための一歩を

 一歩歩くごとに雨音が強くなっていくかのようだった。

 頭上を覆いつくすような厚い雲が彼方まで広がっていて、それが大粒の雨を絶えず流し続ける。これだけの量の水が、いったいあの空気の層のどこに匿われていたのか。


「参ったなあ」


 四階から階段を降り続けて昇降口へ。

 そこから見える外の景色は、見事に土砂降りの雨に染められていた。

 ツンとした水の匂いに顔を顰める。水を含んだ空気はどこか重く、どうにも憂鬱な感情が芽生えてしまうのは仕方のないことだ。


 言うまでもなく、傘もなくこんな大雨を帰るなんて無茶だ。

 いや、別に俺自身は幾ら濡れても良いんだが、流石に教科書等を抱えているとそうも言っていられない。

 めんどくさいが一度部室に戻って時間を潰すかと、来た道を戻ろうとしたその時だった。


「やあ」


 声があった。

 聞き覚えのありすぎる声が聞こえた。

 どこか中性的で、やけに耳に馴染むような声。


「お困りのようだね一宮クン」

「……二階堂」


 振り返る。そこにいた。

 俺の肩より少し下ほどの体躯の、黒い短髪の少女――二階堂未央にかいどうみお


 新進気鋭の天才小説家。

 ボーイッシュな、井原南高校の人気者。

 俺の事を何故か好いている、俺の知らない少女。


「……なんで帰ってないんだよ。無所属だろ、お前」

「用事があったんだよ。色々とね」

「何だよ色々って」

「おやおやボクの事をそんなに知りたいのかい? よくないなあ他人のプライベートを探ろうとするのは」

「よく言えたもんだなテメエ」

「ははっ、冗談。実のところを言うと勉強だよ。ほら、家に帰ったら誘惑が多いだろう?」


 ……嘘だ、と思った。


 きっとコイツは俺が傘を持っていない事を知っていて、こうして待ち伏せしていやがった。

 これは自惚れや自意識過剰なんかじゃない。過去にも似たような経験があるから間違いんだ。


 ちなみにその時は遠慮して校内で時間を潰した。残念そうに頬を膨らませる二階堂の姿が目に焼き付いている。


「で、だ。時に提案があるんだけど」


 ――来た。


 彼女は手に取った藍色の折り畳み傘をトントンと叩き、呟く。


「実はコイツを常備していてね、傘が余っているんだよ。一緒に帰ってくれるのなら、貸してあげよう」

「初めからその為に待ってただろ」

「どうかな。キミの想像に任せる」

「…………そうかよ」

「うん」


 満面の笑みで、二階堂は頷いた。

 イエスともノーとも取れないような、曖昧な返事だった。


 沈黙があった。

 窓の外からは、ざあざあと鳴り響く雨の音。

 二人の間にあった数秒の静寂を、その音が埋め合わせてくれていた。

 脳裏に過ぎるのは先ほどの五十嵐とのやり取り。

 文芸部を存続させるための一手。それがチラついて離れない。


 ……ああ、くそ。


 仮に、だ。

 大真面目に文芸部を存続させたいのなら、彼女を引き入れてしまうのが最善の解決策なのだろう。

 ただ入部させるだけ。それだけですべての問題は解決する。現役作家と言うネームバリューがあれば、教員たちも文句は言わない。

 これ以上なく聡くて、早い。


 だけど。

 廃部か存続か、なんてこの際おまけだ。

 彼女を部活に引き入れた時点で、俺は二階堂未央という少女との接点を自発的に増やすことになる。


 それがどのような結果に落ち着くのか――俺はそれが怖かった。


 だってそうだろう。

 こいつは、この少女は何故俺を好いているのかという問い。

 その解が分からない以上、その先に踏み込むのは恐ろしい。

 踏み込んだ瞬間に、何か後戻りの出来ない蟻地獄のようなものに呑まれはしないだろうか?


「どうするんだい、一宮クン」

「…………」


 そもそも二階堂未央って誰なんだ。

 こいつはどういう人間で、何が好きで、どんな風に生きているんだ。俺はそれすらも知らない。

 聞いたこともないし、話してくれたこともない。いつも受動的な関係性で、この半年間を思い返したとて、これまで一度たりとも俺の方から彼女へと接触したことは無かった。


 だけど、今は彼女の力が必要だ。

 文芸部を存続させたいのなら、確かに。


 なら、まずは――。


「貸してくれるか、傘」

「……! へえ」


 受動的にではなく、能動的に。

 試しに慎重な足取りで一歩を踏み込んでみよう。

 いいじゃないか。進むか、退くか。それは彼女の人となりを見極めてからでも遅くはない。


 それに、もしも。

 これはもしもの話だが、こうして一歩踏み出した結果、俺が彼女の事を好きになればそれは相思相愛だ。

 そうなりゃいい事尽くめじゃねえか、なあ?


 二階堂が可愛いのは事実だし、俺だって全く惹かれていない訳じゃないんだからさ。

 それに、もう二度と五十嵐にデカい顔をさせずに済む。


「……自棄になってんな、我ながら」

「え、どうしたの急に。顔怖いよ?」

「別に」

「そお? まあキミがそう言うなら別に気にしないけどさ。人前で怒ったり悩んだりで百面相するのは不気味だからやめた方が良いんじゃないかな?」


 原因が何を言うか。

 口から出そうになった言葉を飲み込んだ。


「じゃあこの折り畳み傘をどうぞ」

「どーも」


 投げ渡された藍色のそれを受け取った。

 どうやらあくまでこれは予備らしい。あまり使われた痕跡が無いのは、彼女が毎日天気予報を見て、しっかり傘を持ってきているからか。


「意外だね。遠慮するかと思った」

「気分だよ気分。たまにはこんな日だってある」

「そっか。まあその気分で一緒に帰れるならボクは一宮クンの気まぐれに感謝しないといけないね。土下座でいいかい?」

「おう、急に会話のアクセルをベタ踏みするのはやめような」


 本気で両足を地に下ろそうとした馬鹿を諫める。

 まあ流石に冗談なのだろうが、コイツの場合止めないと本気でやり始めるから恐ろしい。


「行くぞ」

「了解。あー、登校はともかく一緒に下校するのは久々じゃないかな? 楽しみだ」


 昇降口を出て、二人して並ぶ。


 ……自分でも、不思議な距離感だとは思う。


 二階堂未央は間違いなく一宮柊を好いている。

 だというのに、一宮柊は二階堂未央の事を知らない。

 いっそ歪だ。倒錯的と言ってもいい。

 だから、是正する。知らないのなら知っていけばいい。


 そんな事を考えながらも、思った。

 俺は本当に部活動が大切なのかと。

 存続させたいからしているのか、と。


 違うんじゃないか。

 あるいは、あるいはだ。


 それを理由にして、このストーカー予備軍の変態小説家に関わってみたいのではないかと。

 前提に二階堂未央を知りたいという理由があって、後付けで部活動のあれこれが付与されているのでは、と。


 楽し気な笑みを浮かべながら歩く少年のような少女を横目で眺めながら思ったのは、そんな自己への疑念だった。



 藍色の折り畳み傘と、赤色の傘が雨の下で花を咲かせていた。


 幸いだったのは風が強くなかった点だ。

 雨が天井から垂直に振ってくる。俺たちはただ愚直に傘を天へと突き立てていればいい。それだけでおおよそ全ての雨を弾ける。


「一宮クン、この後予定は?」

「あ?」

「予定だよ、よーてーい。英語で言うならスケジュール。ドイツ語で言うなら……いや知らないな。ドイツ語は門外漢なんだ、ごめんね」

「知ってるか? 会話って一人で済ませるもんじゃないんだぜ」


 井原南高校付近は都会と田舎の中間のような、中途半端な発展を遂げている。

 オンボロと新築が交差して立ち並ぶ住宅街の中を、俺たちは歩いていた。


「で、なんで俺の予定を確かめる。とうとう学校だけじゃなくプライベートにまで侵食してくるつもりか」

「違うよ! 実は行きたい喫茶店があってね。ほら、折角二人きりなのにただ帰るだけなんて無粋だろう?」

「いや、別に普通に帰ればいいと思うが」

「むぅ……」

「むぅじゃねえ」


 どうしようか、と悩む。

 普段なら適当に理由を付けて帰っていただろう。そもそも俺は人付き合いというものが好きではないんだ。


 けど、今日は前提が違う。

 今日は二階堂未央という少女の確信に近づくためにこうして二人して下校しているのだ。

 であるのならば、ここは乗っておく方が良いのではないか。


 ……ああ、そうだな。

 知る為には付き合うべきだろう。他意は無い。


「分かったよ、どうせ暇だし。……クソ高いぼったくり店じゃないだろうな」

「極々一般的な価格だよ。味だって保証しよう」


 そう言いながら、二階堂が俺の少し前を歩き始めた。

 そして、気付く。

 この半年間、俺の方から歩んだことが無いから気にも留めなかったんだろうが――俺の想定以上に彼女は美少女だ。


 赤い傘の下で若干濡れた黒髪は艶やかで、その健康的に引き締まった身体は色気こそ無いが魅力的に映る。

 整った顔つきは横顔でも健在で、見るたびに身体が熱くなるような気がした。


「んぅ? どうしたんだい一宮クン?」


 着いてこない俺に気付き、彼女は振り返って小首を傾げた。

 その小さな動作ですら可愛げがあった。


 ……落ち着け馬鹿野郎。

 惚れっぽいなんてレベルじゃねえ。

 思い出せよ一宮柊。お前には能三芽衣先輩と言う理想の女性がいるじゃないか。


 先輩の出るところが出たパーフェクトスタイルを妄想しながら呼吸を数回。

 よし大丈夫。なんだこの貧相な身体つきは。まるで情欲をそそられねえ。


「……不当な評価をされている気がするよ?」

「気のせいだろ。あるいは自意識過剰だ」

「の、割には目が泳いでいるようですが」

「雨が降ってるからな。目だって泳ぎたくなるだろうさ」

「どういう理屈だいそれは……」


 ジト目でこちらを睨んでくる二階堂に、俺はそう返した。なんでコイツはこういう時にやたらと鋭いのか。

 そんなしょうもないやり取りの果てに、短髪の少女はその足を止める。


「ここだよ、例の喫茶店」


 芝居じみた所作で左手を大げさに広げ、店に向かって突き出した。

 やたらと古めかしい西洋建築、というのが第一印象だった。白い外壁に埋め込まれた幾つもの円形の窓が特徴的だ。

 建物の正面には看板がある。


「『カフェ・アンドルディス』……なんで北欧神話なんだよ」

「よく分かったね。ま、店長の趣味じゃないかな」

「もっと気の利いた名前があるだろうに」


 会話もそこそこに、二階堂は傘を畳んで傘置きへ。

 俺も折り畳み傘を外袋に入れて、鞄にしまった。

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