第4話 黒髪と胸が揺れる放課後

 小さく微笑みかけてくる能三のうみ先輩に「うす」と小さく返事をして、俺は壁の隅へと荷物を置く。

 意外だった。

 前回先輩が部室にやって来たのは一週間前。普段の周期からはズレている。


 とはいえ、まあ嬉しい誤算だ。

 五十嵐と四条の二人が恋愛ごとにかまけて部活に顔を出さない以上、俺は先輩と二人きりになれるのだから。

 

「珍しいっすね。受験で忙しいものかと」


 無言が恐ろしいので適当な事を口にしつつ、鞄から小説を一つ取り出す。

 普段は読まない。先輩がいる時にだけ、部活に参加していますよと取り繕う為に用意している一冊だ。

 ブックカバーで表紙が隠れてしまっているので、タイトルすら忘れてしまった、何やら男女が電車を乗り継いで旅する退屈な作品。


「そりゃあ受験は忙しいよ」

「先輩ほど頭が良いと、勉強せずとも受かりそうなものですが」

「褒めてくれるのは嬉しいけどねー。結局勉強って青天井というか、やってもやっても終わりがこないというか」


 ――そういう意味では、がある物語ってのはいいよね。


 手元の文庫本を弄びつつ、先輩は薄く笑った。

 それなりに細く、鋭い目をしているのに、表情のおかげかこれ以上なく柔和に見える。そのアンバランスさもまた美しい。


「で、私がここに来た理由なんだけどさ」


 ぱたん、と本を閉じて何やら俺の背後へと視線を向ける。


「……えと、五十嵐さんと四条さんは?」

「サボりです。ったく、許せませんよね」

「あははっ、部活動に対して情熱的なようで何より。だけどほら、恋愛って素敵じゃない。目を瞑ってあげてもいいと思うかなあ、私は」


 聖母かと思った。これ以上なく慈愛に満ちている。

 俺の視点では、既に能三先輩の背後には後光が差していた。今なら福音書を片手でなぞり、先輩へと祈りの言葉すら捧げられるだろう。


 俺が無宗教からの改宗を目論んでいる間、先輩は何やら人差し指を顎に当てて考えているようだった。

 そして、小さく呟く。


「恋愛事ねえ。楽しいのかなあ、実際」


 ぼそり、と呟いた言葉が第二図書準備室に拡散する。


 ………………おお。

 なんというか、これはチャンスなんじゃないのか?


 きっと先輩にとっては適当に口から出た言葉だろうが、俺にとっては重要な言質だ。

 憧れの先輩は恋愛に興味を示している。ここはもう、男を見せてしまうべきだろう。

 分からないのならやってみませんか、くらいのことは言うべきだ。


 脳内のスーパーコンピュータにアクセスし、最適な会話を計算し続ける。

 大丈夫。脳内で先輩と付き合う妄想は百を優に超える数してきた。あとはその流れを実行に――。


「分かりませんよ。あいつらが楽しんでるのなら、まあそうなんじゃないですか」


 ――逃げた。


 逃げたさ、ああ。

 踏み込むことを諦めて、当たり障りのない返答をしたさ。


 いやだって無理だろ。

 どこぞの小説家でもなし、何の脈略も無く告白だなんて馬鹿げている。

 そういうのはもっと親密になって、こう……特別なシチュエーションでするべきなのだ。

 恋愛のいろはなんてまるで知らないけれど、何となくそんな気がする。


「楽しいねえ。そんなものかなあ」

「よく言うじゃないですか。世界が輝いて見える、広がって見えるって」

「どうだろ。それこそ、その辺りは一宮さんの方が詳しいんじゃないの?」


 首を傾げながら先輩が俺を見ていた。

 首を傾げたいのはこっちだ。恋愛の楽しさなんてまるで知らない。

 いや、恋というのであればあなたにしていますが。

 だがそれは恋愛ではなく、どこまでいっても恋だ。


「ほら、二階堂さんと」

「…………勘弁してください」


 突如として浮かび上がった小説家に俺は苦い顔をせざるを得なかった。


 俺と二階堂の関係なのだが、大変不本意な事にどうやら他人からは殆ど付き合っているように見えるらしい。

 現実は俺が一方的に彼女に絡まれているにもかかわらず、だ。


 その辺りの機微を先輩は知っているはずなので、恐らくこれはジョークだろう。


「あはは、ごめんごめん。けど良い物件だと思うよ?」

「まあそりゃ否定はしませんが……」

「いいじゃない、付き合いながら知っていけば」

「そもそも面識ほぼゼロからだったんですよ? 好きなんて言われても警戒しますって」

「まあそっか。んー、恋愛事ねえ……」


 人差し指を顎に当てて、斜め上に視線を向けながら唸っていた。そんな何気ない動作ですら美しい。流石は先輩だ。


「ああ、けど四条さんにはこの前デート用の服選びを手伝わされた時は……」


 情景を思い返していたのか数拍の間を置き、「うん……楽しそうだったね、確かに」と先輩が口走る。


「あいつ……先輩は受験シーズンだってのに」

「いいのいいの。私も前に付き合わせたしね。この辺りの喫茶店」


 そう言って、先輩はポケットからスマートフォンを取り出し、写真を探す。

 この井原南いばらみなみ高校では、校内の私的なスマートフォンの使用は禁止されている。よって先輩のこれは校則違反に当たるのだが……そういうところ、イメージと違って案外先輩は緩い。

 そのギャップすら可愛げに見えるのだから、もう無敵だった。


「そうそうこれ。あー、美味しかったなあ」


 こちらに見せられた画面を見て、俺は若干息が詰まった。

 いや、映っている料理自体はまともだ。ごく一般的なチョコレートパフェ。

 ただ問題なのはその量。


 なんか凄かった。

 通常のパフェの五倍はありそうなそれは、もはやカロリーの山だ。

 男の俺ですら食べきれる気がしない。


「……美味そうっすね。いやほんと」

「そう! 美味しかったしボリュームも満点で! しかもそれなりに安いの!」


 適当な相槌に先輩が食い気味に口走る。

 そりゃあボリューム満点でしょうよ。見たら分かります。

 普段の大人しい様子はどこへやら、目をキラキラさせながらスマホの画面を見て思いを馳せているその姿に、俺は内心でツッコミを入れた。


 ――と。


 これは俺も今年に入った時点で知ったのだが、先輩はとんでもない大食らいなのだ。

 娯楽として映画やゲームより先に食事が案に出てくるような人なので、そりゃあもう食べることが大好きなのだろう。


 その割に彼女の身体はスリムだ。

 あるいはその栄養全てがはち切れんばかりの二大巨塔へと充てられているのだろうか。


「あー、また食べに行きたいなあ。糖分って頭を回すのに必要だしさあ」


 甘美な味を思い返して悶えているのか。

 頬に手を当てて身体を揺らしているせいで自己主張の激しいそれを、それとなく視界の端に収めておこう。


「ま、そんな小話はさておいて」


 俺の低俗な視線には気づかないまま、先輩はスマホをポケットにしまう。

 だが座ったままなので上手く入らないのか、何度も身を捩っていた。

 そのせいで、パフェに負けず大ボリュームな二つの果実が上下左右にまあ揺れる揺れる。


 ――――ほお。


 ほおじゃねえ。いい加減見るのを止めろ一宮柊。

 流石に理性がストップをかけ、自然な動きで窓の外へと身体ごと視線を動かす。

 窓越しの視界には、空が映った。


「…………曇りか。雨は、降らないといいんだけどな」


 昼間はそれなりに晴れていたのだが、気が付けば陽がかげっていた。

 まるで遮光幕を下ろすかのように、教室の明かりが影によって覆われていく。

 今朝は天気予報を見ていなかった。仮に雨が降ったら濡れるか走るかの二択を強要されることになる。それは避けたかった。


「――よし」


 ようやくポケットにスマホが入ったのか、背後から声がした。

 振り返り、能美先輩の細く鋭い視線と目があった。


 …………?


 気のせいだろうか。

 一瞬、ほんの一瞬だけ。

 その眉が、何かを残念がるかのように下がっていたような気がしたのは。


「本題の話をしよっか。この後用事もあるから、ちょっと急がないといけなくて」

「あ、はい。分かりました」


 そんな微かな違和感も瞬き一つの間に霧散する。


 そういえば先ほども、ここに来た理由があると言っていたか。

 つまり先輩は他の部員を待っていたのか。どいつもこいつもサボりがちなのは知っているだろうに、律儀なものだ。

 自然、俺の背がピンと張る。無意識に肩へ力が入っていた。


「まあ、まず率直かつ簡潔に結論から述べるね」


 そして能三先輩は。

 少しだけ申し訳なさそうに目を泳がせながら、言った。


「今年をもって、文芸部は廃部となる――らしいよ」

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