第2話 窓越し、憧れを見下ろして
昼休みも終わり、午後の授業が始まる。
壇上に立つ頭頂部の薄い教師をぼんやりと見つめながら、俺は口元を抑えてあくびした。
最後尾、窓際の席というのは陽射しが当たって心地いい。
現在は秋という事もあり、直射日光が程よい気温に調節してくれていた。
ちなみにこれが夏になると地獄なのは言うまでもない。
長々と数学教師の説明が続く。ふと時計を見てみると、残り時間はまだ後三十分もあることに気づいた。
「……ち」
小さく、乾いた音が口から出た。
学生の本分は勉強とは言うが、果たしてこの時間は本当に有用なのか。
黒板の上に長々と記された公式の、そのどれだけが今後俺の人生で必要になるのだろう?
――などと。
そんな斜に構えた思考を走らせつつ視線を左の窓へ向けた。
窓越しに四階から見下ろしたグラウンドには、サッカーをしている生徒たちの姿があった。ゲーム中ではなく、ドリブルやらパスやらを練習中らしい。
――あ、
たどたどしくボールを蹴る群れの中に、やたらと浮いた人影を見つける。
腰元まで伸びた艶やかな髪をなびかせながら、繊細なタッチでボールを蹴って並んだコーンをジグザグに縫っていく。
向かい側に辿り着き、腰元に手を当てて息をついていた。
その僅かな所作にすらどこか色気を感じるのだから恐ろしい。
「いいよなあ……」
小さく、無意識に呟いたのはそんな言葉だった。
サラサラとした長い黒髪と、細く鋭い目つきが特徴的な一学年上の生徒。
スレンダーな体つきと、そこと対照的に豊満すぎる胸。
言うまでもなく
その上運動神経がそれなりで頭も良い。
要は、概ね男子の理想的な『年上お姉さん』属性を兼ね備えた逸材と言ってもいいだろう。
「……覗きはよくないよ」
「テメエが言うなよ筆頭」
「失礼な。覗きはしたことないよ。尾行は今日したけど」
先輩のグラマラスなボディを目に焼き付けていると、隣の席から小さな声で待ったが入った。
少し低音で落ち着いた、さながら少年のような声。
そう。何の因果か俺の隣に座っているのは
ちなみにこちらのボディはちんちくりんだ。魅力の欠片も無い。
「おっと、何やら失礼な事を考えてるね。顔に出てるよ」
「失礼なんかじゃねえよ。淡々と事実を思い浮かべたまでだ」
「……ふーん?」
……こいつは何故か。
本当に何故かは知らんが俺に執着している。
そんな彼女がたまたま俺の隣と言う本人にとっての特等席を手に入れた。果たしてこれは偶然か。
席順はくじ引きなので不正は出来ないはずなのだが、この変態小説家を見ていると不可能を可能にしそうで怖い。
「で、能三さん?」
淡々と何やら喋っている数学教師にバレない様に、二階堂が椅子をこちらに寄せて、俺と同じように眼下のグラウンドを見下ろす。
「好きだよねー、一宮クンも。文芸部入ったのも先輩目当てでしょ」
「そりゃあな。小説なんざ興味は無いし」
「うわー、ボクの前でそれを言う? ねえ、ボクの前で!」
ぎろりと横目で睨みつけこそこそとした声で糾弾してくる。
だが、どことなくその表情は楽しそうだった。つまり本気で怒っている訳じゃない。
俺が文学にまるで興味を示していない事を、二年生になってから今日までの半年間でそれなりに彼女も理解しているだろうし。
「ま、分かるよ。能三さん美人だし。けど倍率高いと思うんだけどね」
「バーカ。だからこそ文芸部所属の箔が光るんだよ。遠巻きから眺めてるその他大勢と俺とでは天と地ほどの差がある」
「うわー、勘違いしている。かわいそう」
にへらと笑って馬鹿にしてくる二階堂に対して、俺は肩をすくめた。
言ってろ。そして今に見てろ。
能三芽衣先輩は文芸部の部長だ。そして俺は部員の一人。つまり部活動という大きな大きな接点がある。
ここが肝要。
接する機会が一つあるだけで、レースの勝率は二百パーセント以上上昇すると言っても過言では無いだろう。
眼下のグラウンドでは基礎練習が終わり、ゲーム形式に移ったらしい。
華麗な足捌き、高精度のフェイントで立ちはだかる人々を抜き去っていく様子が見えた。
無論彼女はサッカー部でも無ければ経験が多分にある訳でもないだろう。故にその動き自体は『中々上手い』止まりなのだが、それでも体育の時間に無双をするには十分だったらしい。
鋭いシュートがゴールのネットに突き刺さる。一点だ。
「やるぅ」
二階堂は品定めをするような目でそれを眺めていた。
というか、近い。
俺が窓際ということで、無論隣の席の彼女は窓から二列目。そこからグラウンドを見下ろすには、それなりに俺の方へと近づかなければならない。
当たっていた、肩が。
顔が数十センチ横にある。
短い黒髪からやたらいい匂いがした。
少年のような体躯と顔からは考えられない、甘い女の香り。
体温が高くなっていくのを感じて、俺は慌てて口を開く。
「邪魔だ。ノートが取れねえ」
「っと、悪いね。けど白紙みたいだけど?」
「うるせえよ」
適当な言い分で誤魔化しつつ、二階堂を退ける。彼女はやたらとニマニマとした笑みでこちらを見つめていた。
……だから、なんでお前は。
「で、さっきの話の続きだけどさ。いくら文芸部で繋がりがあると言えど、進捗はダメなんでしょう?」
「…………ち」
痛い所を突いてきやがった。
確かにそうだ。そもそも井原南の文芸部は事実上の活動停止中でもある。
三年生は迫る受験の準備で忙しく、部活動だって運動部なら基本的には今年の夏で終わりだ。
文芸部は卒業まで惰性的に続くのだが、それも自由参加なため能三先輩が部室にやって来るのは本当に珍しい。
去年までならいざ知らず、今年に入ってからは先輩が部室に訪れる回数が指数関数的に減少していき、今では三週間に一度といったところか。
そんな様子なので、先輩目当てで文芸部に入ったやつらも退部していき、今では部員数は僅か四人。しかも内二人は付き合っており、恋愛ごとにかまけて部活に来ない始末。
つまるところ、真面目に部室へ顔を出しているのは俺だけだ。
ライバルが減ったと喜べばいいのか、未だ未練がましく固着していると自戒すればいいのか。
「まあけど連絡先を入手してるのはデカいね。おおよそのチャレンジャーはそこすら突破できずバミューダトライアングルに沈んでいくんだから」
「………………おお」
曖昧な返事が思わず洩れた。
こういう時、彼女は察しが良い。目を丸くし、信じられないようなものを見る目でこちらを覗き、そして口を開く。
「う、そだろう。まさか、連絡先交換していないのかい? え、だって部活動の先輩後輩だろう? もう一年以上の付き合いだろう? うわー酷い。酷すぎてかつ哀れすぎる」
「……ち」
何か言い返したかったが、何も言い返せなかった。
ああそうだよ。進展ゼロだよ。文句あるかよ畜生が。
「なんというかさあ、もっとこう積極的にさあ」
「なあ、俺にそんな度胸と度量があると思うのか?」
「……………………はは」
乾いた笑いで誤魔化すな。
せめてなんとか言ってくれよ。ツッコミ待ちだぞ。
と、そんなやり取りを進めるうちに授業も終わりに近づいていた。
数学教師が適当に課題を出し、同時にチャイムが鳴った。
長い長い、退屈な授業が今日も終わる。
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