第12話 勝利
傍聴席の剪芽梨は、自分の周囲にいる人間を横目で観察する。「この証拠でほとんどの人間が、ビンが金品を奪う際もみ合いになり殺した、そう考えているだろう。あの紙幣は売春の報酬であることは確実だ。買春金額をごまかそうとしたビンの態度から言って誰もが被告人が被害者から売上金を奪おうとしてもみ合いになり殺害に及んだと想像がつく。」
ビンの立場は益々、犯行を認めざるを得ない状況となった。
「弁護人なにか反論はありますか?」
「何も…。」裁判長の言葉に弁護人は冷静な態度で答えた。
ビンは落ち着きを失いかけていた。貧乏ゆすりが激しく時々爪を噛んでいる。
「検察官、被告人質問は以上ですか?」紅木裁判長の問いかけに検察はさらにビンを追い詰める。
「いえ、もう一つ、質問事項があります。」
「続けてください。」
「はい。」
ビンが証言台に再び立つと、検察官は、こう切り出した。
「事件現場となった、宗蓮アパートにあったコンドームに関して貴方は、事件のあった日より前に使ったものだと証言しています。間違いありませんね。」
ビンは頷き「はい」とイライラしながら答えた。
検察官がすかさず証拠提示を行う。スクリーンに色分けされたグラフが映し出される。
「このグラフは、証拠になったコンドーム内精液の経時変化を現すグラフです。グラフが三つあるのは、他の精液と比較するために証拠品以外の精液を使いグラフ化しています。御覧の通り、三つの精液の経時変化はほぼ同じように変化していってます。そして一番下にあるグラフは一週間前に作られた資料です。ここから遡ってこの精液が空気に触れたのは4日前となります。これを証拠品、そしてもう一つのグラフと重ね合わせると寸分たがわず一致することが明らかです。それからするとこの証拠品のDNAは事件当日のものだということが立証できるのです。それを踏まえて、被告人にもう一度同じ質問をします。このコンドーム内精液は、事件当日より前のものですか?」
検察官の勝利を確信した声が法廷内に木霊した。
今思うと一審で無罪判決が出た時、剪芽梨の中でこの事件はお蔵入りとなっていた。無罪判決が出れば当然のごとく、身柄釈放となる。そのまま、ビンが母国に逃げ帰れば、もう日本警察ではどうにもならない事案となり、ビンを法で裁くことは、マレーシアで良くて軽犯罪程度の罪だった筈だ。それを検察は、無罪判決が冷えないうちから控訴し、地裁に拘留状の発布を求め、拒否されるとさらに特別部に再申請。しかし、それでも発布を拒否された。
検察は尚も諦めず、高裁に事件記録が送られると今度は控訴先の高裁に拘留状の発布を求めた。そして、遂にビンを二審が始まるまでの期間、拘留する事が出来たのだ。
弁護側は、異議申し立てをしたが高裁は棄却した。「罪を犯したと疑うに足りる相当な理由」が出たという事だ。しかし、検察も引けない立場を自ら選んでいる。それなりの覚悟は出来ているだろう。
この検察と高等裁判所の判断が、冤罪判決を生み出す元となった。
ビンは、検察官の質問に答えに窮した。だが、最後まで精液は過去のもので押し通した。
ビンは考えていた。「確かに、あのコンドームは事件当夜のものだ。でも、俺は女を殺してなどいない。
被告人質問は、次の事案に移った。
「裁判長、もう一度証拠品Bを提示します。」
検察官は、樋上さとこが現金を強奪される際に、財布を入れていたハンドバッグを法廷内に持ち込んだ。
「検察官は、要点のみを発言してください。」裁判長は時短の為に検察に釘を刺す。
「はい。」と、検察官は答えると早速被告人に質問する。
「被告人はこのハンドバッグに見覚えはありますか?」
ビンは、眉間に皺を寄せ、無言を貫いた。
「被告人、言いたいことはありませんか?」
裁判長の発言を促す言葉にも、弁護人と目を合わせ、黙秘を使うビン・グォン・タン。
「裁判長、被告人が黙秘しているため、私の方から宜しいでしょうか?」検察が隙をついて申し出る。
裁判長が肯定した。
「このハンドバッグの切れた取っ手から、経時変化を踏まえ、事件当日に近い指紋が2種類検出されました。一つは、被害者、樋上さとこさんの指紋。もう一つ、形状から男性のものとされる指紋。そして、その指紋を被告人のものと照合した結果、一致しています。」
騒ぎ出す法廷傍聴人。
一人の男が、慌てて法廷外へと駆け出した。読内新聞の壷内だ。どうやら、有罪になると踏んで記事を書き替えるつもりのようだ。
剪芽梨が、その後姿を、勝ち誇ったように見送る。
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