第10話 不利なカード
殺害現場の部屋の鍵に関しては、報告が上がっていた事項だった。捜査初期段階で被害者である樋上さとこの周辺から自室以外の鍵を持ち歩いていたとの情報を仕入れたことで捜査本部も彼女が宗蓮アパート310の鍵を持っていたと思い込んでしまった。しかし、その後、ビンがこの部屋の元借主であったことがわかり、彼がスペアキーを持っていたと見極めがついたのだ。
「被告人は、勝手に証言台を離れないように。」裁判長は、証言を黙秘し、許しもなく席に座ってしまったビンを窘めるように注意する。
「ボドー」ビンは小声で誰とはなくそう呟いた。
「被告人は証言台以外で発言しないように。」
弁護人は自分に縋るような目を向けるビンに無言で頷く。それを見てビンは、押し黙った。
ビンの言った「ボドー」とはマレーシア語でバカ。不利になって頭に来たのだ。
「検察官、他に何かありますか?」
「はい、裁判長。」次に検察側が出したカードは買春金額だった。「貴方は、被害者の女性と性行為を行いましたか?」検察官の言葉尻が幾分挑発的に変わる。
傍聴席にいる剪芽梨はビンの弁護人を何気なく伺い見た。買春が犯罪であることは明らかであり、立て続けに被告人が不利になるカードが切られ、さぞ慌てているだろうと思ったのだ。だが、その顔には、チャンスを得たかのように口角を上げ、ほくそ笑む自信気な表情が窺われた気がした。
ビンは一瞬凍り付くような表情を見せ弁護人を見たが、彼は頷くだけだった。すぐに気持ちを立て直し宗蓮アパートでの性行為を認めた。
法廷にはどよめきが起こり傍聴者の興味の具合が窺い知れた。大阪ネット通信社という一部上場企業の管理職女性が売春をし、金儲けをしていたことに意外性と人間性を阻害しようとする偏見が織り交ざった声だった。
「では、貴方は被害者の女性にお金を渡しましたか?」検察官は、ビンの法廷での心象を下げようとしている、それは、傍聴席にではなく裁判官に向けての事だ。
ビンは又、黙秘する。
検察はさらに追い詰める。「貴方は、警察での取調べにこう答えています。」調書を読む検察官。「被害者、樋上さとこさんから1万円で良いと言われ、そのとおりに払った。と被告人、貴方はそう供述しています。間違いないですか?」
ビンは弁護人の方に目線を送り、軽く頷きあったところで「間違いありません。」と答えた。
検察官が掛けている眼鏡をしっかり掛け直す。
剪芽梨は、心の中で呟く。「切り札の登場だ。」自慢げに腕を組み戦況を見守る。
「裁判長、新たに証拠物件を提示します。」裁判長の紅木悳乃助は、法廷に持ち込まれた証拠品に検察官の説明を求める。手の平サイズの赤い日記帳だ。「これは、被害者である樋上さとこさんが、自分の行動を書き留めた日記代わりのメモ帳です。」得意気に話す検察に対して弁護側が意義を申し出る。
「裁判長、今回の事件に被害者の日記を持ち出す理由は同情を引きたいだけの審理にそぐわぬ証拠品と思われます。」
剪芽梨は、弁護人の慌てようにせせら笑いを隠せなかった。「知らなかっただろう?隠し玉を。」
紅木裁判長は、弁護人の異議を簡単に却下した。誰がどう見ても弁護人が言ってることは支離滅裂だ。
「検察官、続けてください。」司法に促され検察が発言を進める。
「この日記には、被害者の得た収入金額が、相手方の実名とともに書き込まれています。それによると事件の日、ビン・グォン・タンから2万円と書かれています。詰まり被告人は被害者に対して2万円を払う約束をしていたということになります。」
傍聴席が再び騒がしくなり裁判長から注意が入る。
剪芽梨はふと自分の意識が変わろうとしていることに気付く。「犯人は矢張りビンで、冤罪などなかったのではないか?」と。
ビンの弁護人は、ここで休廷を申し出た。裁判長はこれを了承し、15分の休憩となった。
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