第7話 地裁

春まだ芽吹く様子もない冷風吹きすさぶ日に裁判は始まった。三月二日。事件から二年が経過していた。

大阪地裁第三法廷では先ず検察側から起訴状が読まれた。罪状は強姦殺人。刑法では罪を犯す意思、すなわち、故意の無い行為は罰しない。しかし、検察はこの事よりも犯した罪の深さを問い正す。ビン・グォン・タンは、戸惑いながら被告人席に座る。刑事訴訟法に照らし合わせ、司法警察職員詰まり警察官らによる捜査が違法でない事を証明する。裁判所が発行した令状その他も重要な手続きとして扱われる。書類に不備は無い。この事件で強制捜査を行ったが、令状に不備は無く、証拠物件も正当なものとして裁判に提出された。裁判官は犯罪が存在するという蓋然がいぜん性も考慮した判決を下す事になる。大阪府警によるビンの身柄拘束等に対して違法な部分が一つでもあれば、この裁判は検察側の負けとなる。

嫌疑を掛けてから起訴、送検するまでの流れも抜かりは全くなかった。検察官の起訴は訴因が重要となり、公訴事実と訴因を理解出来なければ刑事裁判の裁判所の役割を果たす事が出来ない。ビンが何について責任を問われているのか?公訴事実と照らし合わせて合致させていく。裁判所は、ビンの責任の有無を判断するものでは無く、検察の立てた訴因が認められるか否かを判断するのだ。極端にいえばビンという例をとって検察の意見が正当なものなのか判断するのが裁判官だ。

検察の求刑は、無期懲役であった。刑罰に関しては、犯罪に対する応報であるとする意見と、犯罪抑止だとする二通りの考えがある。ある意味、刑罰にはまだ、ぶれがあると言う事だ。

だから、判決も同じような事件に対して違うものになる事があるのだ。刑法理論では、行為とは何か、故意と過失、過失と無過失等多くの体系を含む。判例の理解の仕方が判決に左右されて来る。

ビンは、弁護人に、「俺は、死刑になるか?」と聞いていた。弁護人は、「死刑には絶対にならないし、無罪も確実。」と答えていた。この裁判に勝つ事を確信していた。

それは、宗蓮アパートの事件現場にあった証拠品に疑問点が多かったからだった。

被害者の女性が売春していたという事実に行き着いた弁護人は、検察が上げた証拠品に隠されたモノが多くあると踏んでその確たる証拠を掴もうとしていた。

不確実なDNAと彼は呼んだ。


第一回公判は、ビンが犯人であるとする証拠品に焦点が当たった。トイレにあったコンドームと精液、被害者の近くにあった陰毛、そして、部屋にあった指紋。しかし、被害者が売春をしていたと言う事実が明らかにその証拠を鈍らせていた。不安になり、しきりに弁護人の方を向くビンに、安心するよう首肯して落ち着かせる弁護士。

検察対弁護人の勝負が始まった。この公判で、検察側のカードの切り札はDNA鑑定結果だ。

証拠として上がった血液型の一致はビンが事件の日、被害者と接触している証拠だった。


大阪地方裁判所に剪芽梨は来た。捜査本部は解散し、今日は非番の一市民としてビン・グォン・タンの裁判を傍聴しに来たのだ。「ここに来たのは初めてになるか。」彼は裁判を刑事の仕事とは別物と考えている。特定する人間を追い捕まえるのが刑事、裁判所はその事件の罪と罰を決める。裁判とは人相手ではなく、法律という重責の結果と剪芽梨は思うようにしている。既に始まっている法定の傍聴席に静かに座り目を閉じ聞く耳をそばだてる。


検察側はミトコンドリアDNA鑑定と血液型鑑定によって得られたトイレ内のコンドーム内精液がO型であり、経過鑑定から事件当時の時間のものと断定できるとした。その精液はビンのDNAと97%一致していることから有罪であると発言する。

一方の弁護側は、当時現場には複数のコンドームが見つかっており、被害者が売春していたという事実から被告人であるとは断定できないと弁護する。更に、弁護側は、警察内部しか知り得ない証言を引き出してきた。


剪芽梨が、眼光強く弁護人を睨み付ける。「其事をどこから仕入れた?」


弁護人は深夜タクシーを降りた二人連れについての証言についての食い違いを突く。一人は被害者、そしてもう一人の男の体躯は明らかにビンではなかったという証言だ。


奥歯を噛み締め怒りを鎮めようとする剪芽梨の後ろには、冷静に裁判の行方を見守る一人の男性が居た。読内新聞編集者、壺内昇つぼうちのぼるだ。ビンの弁護人に情報を与えたのは坪内だ。「これで面白い記事がかける。」黒革のひびが入った年期物の分厚い手帳に短い言葉をメモし、再び法定を見やる。


検察も慌てた様子で休廷を申し出た。この日、裁判はここで打ち切られた。ビンが体調を崩したと裁判長に申し出たのだ。これは弁護士が、新たな証拠を集めるための時間稼ぎともなる。結果的にビンは急性胃腸炎と診断された。次回は一ヶ月の期間が開くことになる。

検察としては不本意だった。日が経てば新たな証拠、証言が出てくる可能性があり不利となる。この地裁判決は負けるかもしれない、そう検察官も感じていた。

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