第4話 誤認

被害者の樋上 さとこのハンドバックに入っていた財布から、現金が抜き取られている事が判明したのは後になってからだった。

事件当時、さとこはビン・グォン・タン以外にも複数人との売春行為を行い、少なくとも事件当時、8万円前後の札が財布に入っていた事が分かった。売春客の中から、事件の重みに耐え兼ね、警察に自分は犯人ではないと陳情するものが出て来たのだ。

直ぐにDNA鑑定を任意で行ったが、今回の現場からの証拠品と合致する人間は一人としていなかった。宗蓮アパートを使わず、自らの部屋を提供した者もいる為、捜査はますます混乱して行った。


「被害者、相当、好き物の様相ですね。何人とやってるのか皆目見当がつきません。」津母高と手等而は捜査本部で上がってくる情報に一喜一憂しながら、この事件が難局を示している事に焦りを感じていた。一件、証拠も上がって、DNAを押さえてある事で単純な犯人探しに思えるが、これだけ複数の男関係が出て来ると、本当に事件現場で殺されたのか?という疑問さえも浮かんでくる。もし、仮に、違う場所で殺害され、宗蓮アパートの空き部屋へと運ばれたとしたら、証拠品全てが、意味を成さない可能性もある。それよりも何よりも、重要参考人として追い詰めているビンの存在さえも吹き飛び、捜査方針も0から練り直すような大変な事態となる。しかし、事件は、更に警察を追い詰める方向へと向かった。重要参考人のビン・グォン・タンに関して、新たな証言が出て来た。

彼は、貧しい家庭の出で母国マレーシアに祖父、両親、兄弟5人を残し日本に観光ビザで入国したまま仕事を違法に行っていたが、その出稼ぎ仲間の話から、貧しい家族の為に、稼ぎの殆どを仕送りし、自らの食事も削っていたとの情報を得た。一日一食の食事は、何時もカップラーメンで、仲間から提供を受けなければ満足な栄養を得られないほどだったという事だった。性格は至って大人しく、体つきが大きいのは、国技でもあるセパタクローでも無く、競技人口が高いバトミントンでも無い、大好きな日本の力士になる練習をしていた名残だと言う事だった。日本に来てからも仲間らとのトラブルは一度もなく、温厚な性格で、女性には特に優しい人間だったと証言を得たのだ。捜査本部は、手等而をビンの母国、マレーシアに向かわせ、海外捜査に当てた。


「ビンは、犯人ではないかもしれない。だが、捜査方針は彼を重要参考人だとしている以上、こうするしかない。嫌、こうしなければならないんだ。」剪芽梨は、不条理極まりない自らの捜査本部の姿勢に何とも言えない重圧を感じていた。剪芽梨は、本星かどうかが疑われる様相を呈して来た捜査方針に、踏み留まるよう捜査主任の蜷川にながわ 畦三ぜんぞう府警補佐官に進言した。

本部内では本部長である剪芽梨が上の立場だが、警察組織の構図では、蜷川は雲の上の人である。彼は、剪芽梨の監視役として本庁からの指示で動いていた。

時にやりすぎる正義感を出してしまう剪芽梨に組織が釘を刺した形だった。

「いいか、剪芽梨、これは、本庁の意見が反映されている方針だ。府警の人間がいくら転んでも覆される事は無い。確たる証拠もあるんだ。びくびくするな。」

「しかし、証言が出た以上、根本から考え直すのが筋じゃないでしょうか?強いては、その事が冤罪に…」

「馬鹿を言うな。警察は、冤罪事例など作ったりはしない。」

剪芽梨は、耐えて言葉を吐かなかった。


過去にあった冤罪事件は、布川事件、足利事件、氷見事件、志布志事件等がある。特に布川事件では有罪が確定した後に、目撃証言から再審無罪となった。当時の警察組織は崩壊寸前まで追い込まれたのだ。それでも、根強く息づく警察の威信という鎖は、朽ちる事は無い。


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