加藤クリス
@ymstmsr
加藤クリス
「来週パパがコストコに連れてってくれるって!」
「いいな!てか、ポケモン今日届くんだ〜」
チャイムの音と共に騒がしくなる教室で、目を輝かせる友人たち。小学校の友達はみんな、家に帰ることを楽しみにしていました。クリスくんは1人、いつも下を向いていました。彼の家には、コストコに行く習慣も、ポケモンも、平穏もありませんでした。
「DSはキリスト様が許してくれないから」。クリスくんと弟の家政くんがゲームをねだる度、母は困った顔をして、でも決して折れませんでした。ロザリオ、聖書、マリア様のおメダイ。サンタさんは毎年、クリスくんのリクエストを無視
してカルトみの強い気色の悪いプレゼントばかりくれました。少しも嬉しくなかったので、小学高学年からはもうお願いするのを辞めました。
長崎県の市役所勤めの父が毎晩遅くまで働く中、母は絵に書いたような宗教信者でした。キリスト教から派生した謎の宗教団体にハマり、毎日朝から夕方まで外出している彼女ですが、クリスくんが熱を出した時に「この水を飲めば熱が治まる」と言って謎の水を強要してきた時は、母の神経を疑いました。食器は洗われず、全てレンチンで済まされ、床にゴミが溜まりまくり、夜になると父は家庭内の金を勝手に宗教に貢ぎこんだ母に怒声をあびせ、どうしようもない母はクリスくんと家政くんにヒステリックに叫び散らすことでストレスを発散させていました。
彼女の信じる理想の子育てとはつまり子供をキリスト教信者にし、少しでも団体に貢献することであり、コストコやポケモンのような娯楽が入り込む余地はないことに齢12歳の少年は、分かっていたのでした。
そんな環境の中で勉強に打ち込むことだけが、クリスくんの逃げ場でした。クリスくんは必死でした。この長崎の閉ざされたド田舎を脱出すべく、塾の自習室で、教室の片隅で、友人たちのいう『娯楽』に想像力を働かせながら、彼は駿台
のテキストを埋めました。数年後、その甲斐もあってか、クリスくんは慶應の法学部政治学科に合格しました。合格した時、弟の家政くんが泣きながら良かったなと言ってきましたが、クリスくんはどこかで、自分が慶應に受かるのは当たり前だと感じていました。ゲームしたりコストコに行ったりしていた連中が中卒で働いたり、長崎のド田舎で上昇も下降もしない人生を想像して、彼らと自分は違うと軽蔑していました。クリスくんは先祖代々続いていた怠惰と無能の鎖を引きちぎり、町で初めて東京に出て、そこで成功して、二度とこの町には戻らないんだという確固たる信念と、無駄に気高いプライドがありました。
しかし入学式の日。いざ大学に行ってみると、高そうなバッグをもっている子も少なくありませんでした。当たり前です。何世代にも渡り淘汰された遺伝子。医者が美人を娶り、生まれた顔のいい高学歴サラリーマンがまた美人を娶る。東京の有名な大学に今どき苦学生なんていないのです。 みんないいとこで育った美男美女ばかりでした。
人生を上手に、器用に生きてきた人間たちばかりでした。まず、お父さんは伊藤忠商事に務めるサラリーマンです。お母さんはミス青学で、休日はパンを焼いて過ごします。みんなピアノやバレエ、管楽器などを習っていました。小さい頃から私立の幼稚園に入り高い塾に通い、長崎のド田舎では聞いた事のない塾の教材の名を、みんな懐かしいと言いながら昔話に花を咲かせていました。
勉強だけじゃありません。みんな小さい頃から人生を楽しんでいました。ある子はピアノで国際コンクールに出場したことがあると言い、ある子は小さい頃から雑誌に載っていました。みんな1人か2人は有名人や起業家と知り合いで、クラブやライブハウスによく呼ばれて行っていました。その点もクリスくんとは大違いでした。だって、みんながそうやって親から理解されて、友達に応援されながら人生を楽しんでいるその間、クリスくんは狭く汚い四畳半の隅で、みんなの言う娯楽の3倍貧相なものを娯楽と思い込んで勉強をしていたのですから。クリスくんは自尊心をねじ曲げられた気がしました。
クリスくんはどこかのサークルに所属しようと思いました。恐ろしいことが起こりました。やりたいことが何もないんです!当たり前です。勉強以外に何もしてこなかったのですから。その勉強すらも、ただの逃避の術だったのですから。
「大学に入る為」の勉強しかしてこなかったクリスくんは、「大学に入った後」の生活が分からなかったのです。
焦ったクリスくんは「就活」をしようと考えました。同じ学歴ならばここからだし抜けばいい。そう思ったのです。1年生からビジコンに参加して、ツテ目的で入ったサークルの先輩を利用してフジテレビでバイトをして、寝る間も惜しん
で東京という町に馴染もうとしました。
3年生の夏。三菱のインターンに落ち、電通クリエーティブ塾に落ち、絶望の淵に立たされたクリスくんが最後に引っかかったのは角川でした。ネットにメモとして綴っていた小説の感想文がバズって、編集の人に声をかけられたのです。
ただのインターン資格ですが、自分の文章を選んでもらったという高揚感で包まれたクリスくんの目には根拠の無い自身と、この街で成功を掴むんだという野望の炎が熱く、儚く揺らめいていました。
長崎の地獄から上京し、大手広告代理店に才能を見出されて敏腕コピーライターに。そんな淡い夢、見ない方が良かったのかもしれません。幼稚舎出身の慶應生の洗練されたセンスも、東大理系院生の頭脳も、早稲田商学部のコミュ力やアルコール分解能力を持たないクリスくんは、インターン生の中で埋没しました。
結局、インターン採用で箸にも棒にもかからず、それでも角川のインターンを突破したという中途半端な成功体験が枷となり、就活は玉砕し、就職留年したものの、それでも満足のいく結果は得られず、結局しょぼいWebコンテンツ制作
会社で働くことになりました。
昼から酒を飲んでタバコを吸います。退廃した生活の中で見るTwitterは、自分より恵まれた人間の転落劇に拍手喝采を送り悦に浸る哀れな人間たちの投稿がバズり散らかしていました。
嫉妬と悪意が渦巻く、この世の掃き溜め。
人々の声を世界に届ける目的で誕生したSNSをこんな醜い場所にしたのは、一体誰なのでしょうか。
大人になったクリスくんは今になって理解しました。気の狂った母親に怒鳴られ父の無干渉に気付かないふりをして、逃避の末に得た学歴は、確かにクリスくんの武器です。でも、その武器を利用する度に自分の名前にまで刻まれた母のヒステリーを思い出して心が波立つのです。これは、長崎の呪縛だと。
「そういやSSクラスのヨウジくん、家にSwitchないんだよ。ママが厳しいんだって。可哀想だよね。」
街で通りすがりに聞こえた、小学生が母親に言
った言葉に鼓動が早まりました。子供の世界の共通言語を持たず、部屋でただ偏差値をあげるための問題集を黙々と解く小学生男子。顔も知らないヨウジくんの日常を想像するだけで、クリスくんの胸が締め付けられます。
人生とはなんなんでしょう。
クリスくんはクラスの人間を、教室の片隅で、頬杖をついて見ています。プーマのロゴの入ったTシャツを着て、休み時間にクラスメイトが各々のグループに分かれて休み時間を楽しそうに過ごしているのを、冷ややかな目で黙って見ています。
クリスくんは見ています。母親がキリスト教にハマる前までは明るい性格でクラスの人気者でした。母親が入信してから、友達がいなくなりました。友達が出来なくなった理由は、母親が家に連れてきた友達に水を売りつけようとしているの見て、気づきました。1人取り残されたが ドの真ん中で、下を向いてみんなが走った後の土壌の穴ぼこを見つめていた、あの時の気持ち。
クリスくんは見ています。中学になっても高校になっても、クリスくんはただ見ていました。クリスくんへのクラスの子からのイメージは、ただの物静かな子、になっていました。それなのに何故?
彼は来る日も来る日も見ていました。
それはもしかすると、ただの物言わぬ悲しみの表明ではなく、分からなくなった「他人」というものを、見ることで理解しようとした切実な悲しみだったのかもしれません。
クリスくんは見ています。教室で眺めていた斜め前の鈴木くんからの結婚式の招待には、丁寧に『ご参加』の文字に二重線を入れました。クリスくんは、自分が特別な人間だと思い込んでいたのです。東京で生まれた人間が東京でなんとなく生きるのと難易度の違う人生を、クリスくんは自分の努力と才能で生き抜いたのだと、自分の力で東京にたどり着いたのだと思っていたのです。
クリスくんにとって東京は特別な場所でした。長崎の友人と違うことを証明してくれる、特別な場所。東京から転落したクリスくんには価値なん のはなくて、ただ人を見下し、そして見下し続けるほどの努力もせず、その薄っぺらい自信をひっくり返されて、今度は地面に這いつくばった自分が見くだされるだけで成される惨めな人生だけが残りました。
クリスくんは今年で27になります。何も無い人生でした。いや、クリスくんの性格の悪さ、頭の悪さ、能力のなさ、教養のなさ、そんな色々な、クリスくんのダメなところのせいで、自分自身のせいで、人生という名の本棚に、何かを残すことが出来ませんでした。必死に走るクリスくんの懐から本は次々と落ち、何も残りませんでした。何かに縋るようにキリスト教に入信したのは、悪酔いして寝た女友達が呼んだ自分の名前を聞いて、母を思い出したからでした。それは母が、母の空虚な人生の中で、質量保存の法則に乗っ取って自分に残してくれた、唯一のものだと思いました。
仕事終わりの金曜の夜は、何故かとてつもなく寂しくなります。こんな時クリスくんは父のことを考えます。父はクリスくんのことが好きだったのでしょうか。クリスくんと弟の家政くん、どちらの方が好きだったのでしょうか。病気の息
子に薬を与えずにひたすら水を飲むことを強要する母を見て、父は何を思ったのでしょうか。母がクリスくんにヒステリックに怒鳴り散らすのを見て、彼は何を考えたのでしょう。 母がクリスチャンのクリスを名付けたのを受けて、弟の名前
をキリスト教を弾劾した徳川家康から名前を1部取っているのを、クリスくんは知っていました。
母のことも考えます。無料の水に5万も払い、四畳半のアパートで2人の息子にヒスり、朝から夕狂ったように祈りを繰り返す、学も、常識もない母親。成人式で母からの連絡はなく、代わりに友人から、地元で布教活動を激化させ警察に取り押さえられる、近所の『やばオバサン』としての母が送られてきました。地元には、もう数十年帰っていません。それなのにあの長崎のグラウンドの、雨で湿ったような泥臭く湿気た土の匂いが今でも離れないのです。
家政くんのことを考えます。 家政くんのことはいつも考えています。考えるたびに、胸の奥がズキズキと痛み、イライラします。塾に行っている間、1人に絞られた標的として母に罵声を受けていた家政くん。中学卒業とともにぱったりと姿を消した家政くん。 一緒にお風呂に入ってくれなくなったのは、学校に行く度に増えていく痣を見られたくなかったからなのも、本当は知っていました。今でも申し訳ないと思っています。
二日酔いの吐き気を抑えながら真っ暗な部屋でSwitchの電源を入れます。
どんなにポケモンを捕まえて、ボス攻略して、技名を覚えても、あの頃欲しかった感情は得られないことを、この広く孤独な東京の四畳半の隅で、賛美歌を口ずさみながら、矛盾だらけでスカスカな人生の本棚の底で、ただ、ただ考えているのです。
加藤クリス @ymstmsr
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