第5話 気づけば癒されて

 気づけば空は夕暮れ。


 おばあさんが気を利かせてくれたのかジュースやお菓子がテーブルに置かれていた。片手間につまみながら猫と遊んだり保護した時の話をしたりと、あっという間に時間が過ぎていたらしい。


「では、今日はこの辺で」

「はいよ、また来てね」

「お邪魔しました」


 玄関の脇から鈴の音が聞こえてきた。すると、おばあさんの足元からひょいっと猫が顔を覗かせた。


「じゃあな」

「にゃ」

「ふふ、すっかり懐いたみたいね。俊くんもまた来てね」

「はい」


 正直、まだ遊んでいたいけど時間も時間。ここは大人しく引き下がろう。

 軽く会釈をしてからおばあさん家を後にした。


「まさか本当に猫がいるとはな」

「嘘はついていませんでした」

「なんでそんな偉そうなんだ」


 七海は腰に手を当てて胸を張った。まあ、猫がいたのは本当だったし、それも過去に出会っていたなんて。忙しい時期ではあるけど、無理やり連れてこられた甲斐はあったな。


「ふふーん」

「上機嫌だな」

「そうですかねー?」


 七海は屈託のない笑顔で返してくる。

 いつも通りの無邪気な様子に俺も自然と笑みがこぼれてくる。夕陽も相まって心が休まっていくのを感じた。


「先輩、今日も帰ったら勉強ですか?」

「もちろん」

「やっぱりやるんですね。一日くらい休んだりしないんですか?」

「しないかなあ」


 正直、これまでに休みたいと思った日は何度もあった。その度に無理やりやる気を引き出しては見栄を張っていた。


「ちゃんと休んでくださいね」

「わかってる」

「本当ですか?」

「うお」


 七海は急に足を止め、顔を覗き込んできた。

 突然のことに仰け反ってしまったが、七海はまだ覗いてくる。


「じー」

「え、なに」

「ちゃんと休むんですか」

「わかったって。今日は休む」

「ならよし! じゃ、海まで競争しましょ!」

「は!? 休めって言ったのはなんだよ!」

「えへへ。先に行ってますよー!」


 颯爽と七海は海へ向かって行った。夕方になったとはいえ、まだ外は暑い。さっき休めなんて言ってたけど、まったく考えていることがわからない。


 けれど、どうしてか走りたい気分になってきた。これは七海に刺激されたからなのか、そう思いたい。


 流れに身を任せて、俺は七海を追いかけた。




 海まではそう遠く感じなかった。下り坂も多く、まるで風になったかのような気分だ。


 しかし、頬をつたう汗が疲労を感じさせる。膝に手を置き、呼吸を整えよう。


「はあ、はあ……」

「あ、せんぱーい! こっちでーす!」


 七海の声がして顔を上げると、石段の上に座っていた。

 ゆっくりと足を動かし、七海のもとへ歩いていく。


「はあ……速いな……」

「まあ、先輩よりは体力あるので」

「うるせ」

「えへへ。とりあえずお疲れ様です、隣来てください。ここから見る景色、いいですよ」


 七海に促され、ゆっくりと腰を下ろす。

 そして、顔を上げると水平線に広がるオレンジ色の光が目に入ってきた。


「綺麗ですよね、ここ」

「うん、綺麗だな」


 ただでさえ広い海に光が反射して、より一層壮大さを感じさせてくる。そして、静かな波の音と時折吹いてくる優しい風がさっきまでの疲労を吹き飛ばす。このままここで寝れてしまいそうだ。


「今日は先輩を無理やり連れだして正解でした」

「ま、無理やりすぎたけどな」

「そうですけど、いつかは一緒に来たいと思ってたんです。あの猫ちゃんのこともありますし……」


 七海の声はどんどん小さくなっていく。そのうち、波にかき消されそうなほどに。


「あ、あの。先輩」

「ん?」

「今日はありがとうございました。来てくれて」

「こっちこそありがとな。猫にも会えたし、この場所も教えてくれたし」

「そうですか、それは嬉しいです。この場所、先輩と一緒に、見たかったので……」

「え、一緒に?」


 耳に入った言葉に驚き、咄嗟に七海のほうを向いた。夕焼けのせいなのか、顔が赤くなっている。


 しばらく無言のまま、ただ二人の間に風が通っていく。波の音よりも心臓の音のほうが大きい。なぜか俺が緊張してしまっているようだ。ここは何か言わないと、こっちが持たない。


「なあ、七海」

「……なんですか?」

「また、ここに来ようか」

「え?」

「いや、その、猫もいるし! まあ、そういうことっていうか……」


 急に恥ずかしくなって、訳が分からないことを口走ってしまう。


「ふふ」

「え?」

「あはは!」

「え、なに……?」

「いや、告白みたいなこと言うなって」


 おっと、確かにこのシチュエーションであんなこと言ったらそう捉えられても、おかしくないのか?


 頭の中が羞恥と後悔が巡って顔が熱くなっていくのを感じる。


「いや、ちょ。さっきのは忘れてくれ……」

「いいえ、忘れません」


 そう言うと七海は立ち上がった。そして。


「今度は先輩から誘ってください。待ってますから」


 弾んだ声で言う七海の顔は輝いて見えた。


 今日見た中で一番綺麗とさえ感じる。平たく言えば、俺は七海に見惚れていた。


「あ、でも勉強がありますもんね……」

「……別にいいんじゃないかな」

「え、サボるんですか?」

「ちが……わないけど。その、休みも大事じゃん?」

「ええ、さっきと言ってることが違くないですかー?」


 いつもの調子に戻った七海に煽られる。


「休みが必要だって言ったのはそっちだろ?」

「そうですけど……。本当にいいんですか?」


 言っていることが二転三転しているのは百も承知。もうここまで来たら正直になるしかないじゃないか。


「俺がそうしたいんだ」


 誤魔化すように強めの口調で主張した。もちろん、照れ隠しだ。


「わかりました。じゃあ、待ってますね」

「おうよ」


 無理やり連れられた見知らぬ土地で癒されることになるとは。

 もしかしたら、俺は猫よりも七海と一緒にいることを望んでいるのかもしれない。


 いや、きっとそうだ。

 だけど、この気持ちは留めておこう。今は勉強に集中だ。


「それじゃ、帰りますか」

「そうだな」


 さてと、次はいつ誘おうか。

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