浮舟

 いたちと云ふ名の娘っ仔は、そらもう勝ち気の塊ときた。

 生まれたての魂かのやうに、何でも自身の眼で確かめたがる。

 然し、力と云ふものは何ひとつ持たぬ。故に力量としても赤子同然なのだが、一丁前にモノは申す。知らぬが故に、あれやこれやと厄介ごとに首を突っ込みがちなのである。

 其の上、生まれも育ちも、己が死んだ理由ワケさえ何ひとつさっぱりわからぬのだ。

 わかる事と云えば、其の魂の半分を鼬の妖に混じられていると云ふことである。


 の世と此の世、常世と浮世。

 其の狭間にある三途の川に鼬はひとり足を浸しては、何やら浮かぬ表情で物思いに耽っておった。


「なんでぃ、なんでぃ。こンなとこで太公望してたって、此処は天上、三途の川。一生魚なんぞ釣れやしねぇっての」

「おれなりに、反省をしているつもりなんだけど……」

「っはぁ! 結構、けっこう! いい心がけでぃ。知らぬが仏、とはよく云ったモンだがァ、此度の事に関しちゃぁ他人ヒトの忠告はよぉく聞いとくンだったなァ!」


 川べりに座るはわらしがひとり、けれども声はふたつ也。

 ——ふたつめは、其の童の隣に無造作に置かれた古びた葛籠から聴こえてくる。

 鼬がこの河原へと棲み処をもらった時に、彼女が「お師匠さま」と呼ぶ白装束の坊主から預かった葛籠である。

 どうやらこの葛籠、生きているのだ。喋りもし、眠りもし、時には悪鬼雑鬼にヒトに供物……となんでも喰う。無論生きているのだから仕掛けも絡繰カラクリも在りはしない。然し葛籠故に己では一歩たりとも歩みを進める事ができぬ為、こうして鼬があずかりお師匠さまの御勤おつとめの際に背負っていくのである。


「それにしたってだよ、愚図って云ひ方はないだろう。あんの人でなし、そうやって人の心がないような朴念仁だから、声にも霊にも惑わされないんだよ」

「あー、いんやぁ鼬のぼんよゥ。其れはちょぉっと違うぜ」

「……自分の愚鈍さを棚に上げて、他人の陰口か」

「げっ、雨月うげつ……」


 さっと頭上に影が差したかと思えば、見上げた鼬の眼には刺すやうな視線が返ってきていた。


 着流し風の着物を着た、黒髪の男である。

 其のざんばらに伸ばした髪は顔の大半を隠し、髪の奥から覗く鋭い眼光の左目から、僅かに覗く口元までくっきりと殘る刀疵かたなきずがはしっている。

 多少線は細いとはいえ……どう見たってヤクザ者の様相である。


「殺サズ、を貫くなら此方にいろ。邪魔だ」

「そ、そんなこと」

「寧ろ殺セズか、テメェはよ」

「……っ」


 雨月もお師匠も、浮世に足を運ぶことの出来る、所謂死に神と云ふものであった。

 故に、本当の名も出自も分からぬ迷い魂であり、輪廻に戻せぬ存在であった鼬をこうしてあずかっている。

 彼らの御勤めとは、悪鬼異形共の討伐だけにあらず。時にはヒトの御魂も刈り、喰らふ事もある。



 此度は辻斬りの下手人を雨月が血飛沫と変へたときのこと。

 此れがまた運悪くと云ふべきか、雨月とふたり。葛籠は片時も離さぬよう仰せつかってはいたものの、お師匠は所用で他所のお勤めへと参ったらしい。

 既に其の刃の餌食となった母は事切れ、傍で傷を負った若い娘が震えていたのである。


「もう大丈夫」と声をかけた鼬を見、然し娘は雨月を見てこう云ったのだ。

「私もおっかさんのところへ行かせてくんねぇ」と。


「あい分かった」


 そう声が聞こえた次の瞬間には、旋風が幾重にもなって鼬の目の前を掠め去った。

 娘の姿は下手人の侍と同様、ぱっと弾けてぱたぱたと血の飛沫と成ってしまったのである。


「どうして!? なんで殺した、此の娘はなんにも悪いこともしてないのに!」

「……」

「なんとか云いやがれ、この化け物!!」

「お、おい、鼬……」


 サーッと、前触れもなく雨が降った。

 血も、何もかもが、其の雨の中で濁り、流されていく。


「……善悪だけで、生き死にが定められると思うか?」

「なに……を」

「其の辻斬り野郎が死んだのは、悪人だったからか? 此奴に斬られた奴らは、悪人だったから死んだのか」

「それは……」

「綺麗事ばかり並べやがって、愚図が」


 そう云ふと、雨月は「首葛籠、喰っとけよ」と云ひ残し、くるりと踵を返して歩き出してしまった。

 鼬は——云ひ返すことすらできなかった。

 お師匠さまだって鬼や異形を討つ。ヒトの命だって奪う場面だって見てきた。

 然し、此の雨月という男からはなんの慈しみの情を感じられないのだ。まるでそう、なんの感情もなく手桶から水を溢すかのやうにヒトの命を散らす。

 けれども——力の無い鼬には、返す言葉もなかった。

 

 怨念蛍の光に惑わされたときも、お師匠さまに助けてもらった。

 夜叉に襲われたときには、目を開ければ雨月が其れを屠った後であった。

 魑魅魍魎の類ひすら、払うこともできず。せめて、という形で動けぬ葛籠の足役を任されているのだ。


 そんな己への不甲斐なさが、目の前の男への怒りよりもまさってしまう。


 葛籠に魂を喰わせることすらできず、雨の中立ちすくむ鼬に。


「そない濡れたら、心が風邪をひいてしまいまさぁ」


 どれほど経った頃か、そう見慣れた白い衣でそっと涙を拭われた。

 お師匠さまは、あれだけ手放すなと仰った葛籠を取り落として鼬が泣いても、そっと寄り添ってくれていた——。




「おれ、お師匠さまみたいに優しく強くなりたい。雨月みたいには絶対ならない」

「……勝手にしろ」


 それ以上は云ひ争うこともなく、雨月も何処かへと姿を消した。

 葛籠は仕方ねぇな、とでも云ふかのやうに「げふぅ」と息を吐く。


「おっ、鼬ィ。笹舟だぜ」


 川の上流からは、対岸にいる子らの安寧を祈る笹舟が流れてくる。其れを送るかのやうにぴゅうと鳴る笛の音が聴こえていた。

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