第11話 操り人形

 中村はきっちりと整えられたスーツに身を包み、冷静さを保ちながらも鋭い眼差しでこちらを見つめていた。その整然とした姿は、異様な威圧感を漂わせ、場の空気を一変させる。遠藤は慎二の反応を確認するように視線を向けたが、その目には一瞬の動揺が浮かんでいた。


 慎二は中村の姿に目を奪われた。その整ったスーツ姿と冷静な表情が、どこか現実離れしており、彼の存在感をさらに際立たせていた。その端正な服装が不自然なほどの威圧感を漂わせ、慎二の胸には再び冷たい不安が押し寄せた。


「申し訳ございません、中村様」


 遠藤はすぐに中村へ頭を下げた。中村はゆっくりと遠藤に近づき、肩を軽く叩いた。その動作には穏やかさすら感じられるが、言葉には鋭い棘があった。


「友人だからといって、気を許しすぎだ。彼は君の友人かもしれないが、我々の友人ではない。それに、彼は『火星移住プロジェクト』の参加者だ。つまり、今や敵でもある」


「はい……私の軽率な発言をお許しください」


 遠藤の声は震えていた。中村は一瞬遠藤を見下ろすように目を細めたが、すぐに柔らかな口調で続けた。


「ああ、許そうとも――君の命でな」


 その瞬間、中村はズボンのポケットに手を入れ、錠剤状の小さな物体を4つ取り出した。それを無造作に地面へと放り投げると、何の躊躇もなく足で踏みつけた。


 錠剤が粉砕された次の瞬間、その地点を中心に分厚い空気の層が静かに生まれ、波紋のように周囲へと広がっていった。その異様な現象に、慎二の全身が硬直し、喉が乾いていく感覚がじわじわと押し寄せてきた。


 慎二は「この状況はまずい」と直感的に感じ、助けを呼ぼうと大声を上げた――はずだった。


「――――――ッ!!」


 確かに声を出したはずなのに、その声は周囲の空気に吸い込まれるように消え去り、慎二の耳には何も届かなかった。焦燥感に駆られる慎二をよそに、中村はその様子を見て微笑んだ。その笑みには余裕があり、どこか冷ややかな光が宿っている。


 しかし、それは中村も同じだった。声を発しようとしてもその音が全く響かない。そして、音だけでなく、周囲のすべての音が消え去ったかのような静寂が訪れていた。風の音も、足音も、さらには遠藤が立ち尽くす気配すらも、完全にかき消されていた。


 中村は静かにスーツの内ポケットへ手を伸ばした。その動きは不自然なほど落ち着いており、慎二は不安と恐怖の中で息を飲んだ。そして、中村の手から現れたのは、小型の9mm拳銃だった。中村はまるで慎重さを欠いたように、無感情にその銃を遠藤へと向けた。


 音のない静寂が支配する空間の中、中村の指が引き金をゆっくりと引いた。その動作は、まるで何度も繰り返してきた日常的な行為であるかのように迷いがなかった。そして次の瞬間、銃口から弾丸が解き放たれた。


 しかし、その発射音すらも消されているかのような異様な空間では、銃弾が放たれる音も衝撃音も一切響かなかった。慎二の目はその動きを見逃さなかった。弾丸は一直線に遠藤の眉間を目指し、寸分の狂いもなくその中心を貫いた。


 遠藤の体はその瞬間、ほんの一拍だけ硬直したかのように静止した。その後、まるでその硬直が解けたかのように力を失い、スローモーションのようにゆっくりと後方に崩れ落ちていった。その様子は、まるで糸が切れた操り人形そのものであり、遠藤の顔には驚きと恐怖の表情が刻まれたままだった。


 地面に倒れ込んだ遠藤の体は、まるで命が宿っていたことすら幻であったかのように、無機質で冷たく見えた。その眉間には小さな穴が開き、そこから一筋の鮮血が滴り落ちていた。その血は、完全に音を奪われた空間の中でさえ、静かに広がりながら地面を染めていった。


 慎二はその瞬間、恐怖に全身が凍りついた。目の前で起きた衝撃的な出来事を理解しようとするものの、音の消えた世界は、その現実感をどこか曖昧で非現実的なものにしていた。胸が締め付けられるような感覚と、頭の中を駆け巡る混乱が、慎二の動きを一瞬止めた。


「――――――ッ!!」


 慎二は声にならない叫びを上げながら、崩れ落ちた遠藤へと駆け寄った。その手で揺さぶり、何度も呼びかける。しかし、遠藤の身体は無反応のまま、まるで人形のように冷たく硬直していた。眉間を貫いた弾丸の痕からは、赤黒い血がじわりと流れ出し、慎二の手に触れるその感触が、残酷な現実を突きつけてくる。


 周囲を覆っていた波紋状の空気の層が徐々に薄くなり始め、遠くからかすかな音が戻ってくる。車の走る音、風が木々を揺らす音、夜の静けさに溶け込むささやかな環境音が耳に入ったその瞬間、慎二の心の中に怒りが沸騰した。


「てめぇ! ふざけ――!」


 慎二は感情のままに中村へ飛びかかろうとした。しかし、その動きを予測していたかのように、中村は冷静に銃口を慎二へ向けた。そして、指を唇に当てながら一言だけ静かに発した。


「シー……」


 その冷たい仕草と低い声は、慎二の怒りをさらに煽るどころか、不気味な威圧感で彼を押し留めた。中村の鋭い眼差しと銃口の冷たい先端が、慎二の全身に重くのしかかり、怒りのままに突き進もうとする衝動を抑え込んだ。慎二は仕方なく足を止め、歯を食いしばった。


 中村は慎二を見据えたまま、淡々と語り始めた。


「さて、警察沙汰になるのは非常に面倒だ。ここで静かにしてもらおうか。遠藤の遺体は、こちらで処分させてもらう」


 その言葉を聞いた慎二の胸に、再び冷たい恐怖が広がった。中村はポケットに手を入れると、先ほどとは異なる錠剤状の物体を数個取り出した。それを遠藤の遺体に向かって無造作に振りかける。


 すると、信じられない光景が広がった。遺体の表面から緑色の植物が異様な速さで芽吹き始めたのだ。それらはみるみるうちに成長し、絡み合いながら遠藤の遺体を覆い隠していく。その間、慎二はその場から一歩も動けず、目の前の異常な現象にただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


 植物は遠藤の遺体を完全に飲み込むと、やがて朽ち果てるように枯れ始め、黒い土となって地面に溶け込んでいった。最後にはその土も消え、何事もなかったかのように跡形もなくなってしまった。中村はその様子を冷静に見守り、風が枯れた植物の欠片をさらっていくのを確認すると、ふっと口元に薄い笑みを浮かべた。


「これで片付いたな。さて、次はお前だ」


 中村は冷たく言い放ち、拳銃を内ポケットにしまいながら慎二をじっと見つめた。その視線には迷いも遠慮もなく、まるで慎二の命すら掌握しているような絶対的な支配力が漂っていた。慎二は無意識に一歩後ずさったが、中村はその反応に気を留めることなく、代わりに内ポケットから別のものを取り出した。


 それは小さな布製のお守りのようなものだった。柔らかな布地には、あの『ヴォイニッチ手稿』に描かれていた文字と酷似した不規則な模様が刺繍されている。慎二はそれを見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。あの不気味な手稿の文字が、なぜここにあるのか――それは偶然ではないことを慎二は直感的に理解した。


「これだ。死にたくなければ受け取れ。拒否権はない」


 中村の言葉は静かだったが、その冷たさは慎二の心臓を握りつぶすような重圧を持っていた。慎二はその場に立ち尽くし、目の前の物を見つめる。受け取らなければ、その場で命を奪われるという明白な脅威が中村の姿全体から滲み出ていた。


 慎二の手は震えていた。恐怖と疑念が渦巻く中、仕方なく手を伸ばし、お守りを受け取る。布の感触は驚くほど柔らかかったが、それが余計に不気味さを際立たせた。慎二は握りしめたまま、唇を噛み締めて中村を見上げた。


「……なんだよ、これは?」


 慎二の声はかすかに震えていたが、なんとか質問を絞り出した。


「見た目通り、ただのお守りだ。だが、それを持って明日の『火星移住プロジェクト』のオリエンテーションに必ず参加しろ」


 慎二は中村の言葉に眉をひそめた。何か裏があるのは明白だった。遠藤が最後に残した忠告――「『火星移住プロジェクト』には気をつけろ」「明日のオリエンテーションには行かない方がいい」という言葉が、慎二の脳裏に深く刻み込まれている。それが、今目の前にいる中村の態度と交錯し、慎二の中で疑念がますます膨らんでいった。


 中村はそんな慎二の心の揺れを見透かしているかのように、冷静に視線を向けてきた。そして、慎二が何かを問い返す隙を与えないように、さらに言葉を重ねた。


「お前の動向は、常にチェックしている。無駄な抵抗はするな。抵抗すれば、次は間違いなくお前自身の命を奪うことになる」


 中村の目は冷たく、しかしその奥に確信に満ちた光が宿っていた。慎二はその威圧感に押されながらも、意を決して口を開いた。


「……わかった。けど、一つだけ聞かせてくれ」


 慎二は手の中のお守りをぎゅっと握りしめ、中村を真っ直ぐ見つめた。その目には恐怖と疑念、そしてほんのわずかな覚悟が宿っていた。


「なんだ?」


 中村は慎二の問いを待つように微かに首を傾げた。その冷静な仕草に慎二は一瞬言葉を詰まらせたが、腹を括って問いかけた。


「最近、世界中で起こっている連続殺人事件――あれは、お前たちの仕業か?」


 慎二は覚悟を持ってその疑問を中村にぶつけた。目の前で遠藤を殺した中村の行動は、巷の連続殺人事件とは一線を画している。証拠隠滅を図るための謎めいた技術が使われている以上、それが単なる衝動的な犯罪行為とは思えなかった。これでは、慎二の考察が的外れているということになる。より真実に近づくたまに、直接答えを引き出そうと決意したのだ。


 中村は一瞬目を細め、それから堪えきれないように楽しそうに笑い声を上げた。


「お前、友達が目の前で死んだってのに、悲しむよりもまず疑問を最優先か! 本当に面白い奴だな。狂ってると言ってもいいくらいだ」


 その言葉に慎二は目を伏せたが、すぐに鋭い目つきで中村を見返した。その瞳には涙が浮かんでいるが、それを押し殺すように、慎二は言葉を絞り出した。


「……悲しんで、暴れて、感情を爆発させても、どうせお前に撃たれて終わりだ。それなら少しでも情報を引き出すほうがいい。俺はもう、恐怖に飲み込まれたり、感情に振り回されたりするのはやめた」


 慎二は自分自身の中で膨れ上がる感情の嵐を、必死に抑え込んでいた。胸の奥で渦巻く怒り、悲しみ、恐怖。それらすべてを押し殺し、自分の意志でこの状況を打破するために、冷静さを取り戻そうとしていた。


「……もう、自分の身をただ流れに任せるだけの人生は終わりだ。自分で動かしてみせる」


 その言葉には、慎二自身も驚くほどの力がこもっていた。中村は慎二の目を見据え、一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐにその口元に薄笑いを浮かべた。


「その割には涙目じゃないか――まあ、いい。その勇気を讃えて、教えてやろう」


 中村の声は冷静そのものだったが、その響きには慎二を試すような挑発的な余韻が漂っていた。冷たい鋭さをたたえた視線が、慎二の中にある動揺や恐怖をじわじわとえぐり出すようだった。慎二は息を詰めたまま、次の言葉を待った。


「我々が起こした事件ではない――だが、我々の起こした事件でもある」


 その曖昧で矛盾した答えに、慎二は思わず眉をひそめる。予想をはるかに超えた返答に、彼の胸の奥で混乱と苛立ちが膨れ上がった。


「どういう意味だよ、それは……!」


 慎二が問いただそうと一歩前に踏み出す。しかし中村はその様子に気を留めることもなく、口元にうっすらと笑みを浮かべながら話を続けた。


「俺は遠藤みたいにお喋りじゃないんでね。それ以上を知りたければ、自分で考え、調べるんだな」


 その言葉には冷淡な決定の響きがあった。中村は慎二の反応を楽しむかのように軽く肩をすくめ、スーツの袖を直すと、背を向けてゆっくりと歩き出した。その姿は、まるで何事もなかったかのように街の闇へと溶け込んでいく。


 慎二は中村の背中を、呆然と見つめるしかなかった。何をすべきかもわからず、手がかりを掴むどころか新たな謎だけを押しつけられたような気持ちが、彼の心を重く支配していく。



 ♢♢♢



 夜が明ける。


 慎二はベッドの上で横になっていたが、あまり眠ることが出来なかった。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、薄暗い部屋の中を静かに照らしている。だが、その温かな光とは裏腹に、慎二の胸の中には冷たい重石のような感情が残っていた。


 昨夜の出来事――遠藤の死、中村の冷酷な態度、そして二人が残した謎めいた言葉。それらが慎二の脳裏に鮮明に蘇り、胸の奥でざわめきを引き起こしていた。全てが現実だったのか、それとも悪夢だったのか。慎二はしばらくの間、天井を見つめたままぼんやりとしていた。


「……結局、何も分からないままだ」


 慎二はそう呟きながらゆっくりと体を起こした。頭は重く、疲労感が全身にまとわりついている。昨夜の一連の出来事が、心だけでなく体にも影響を及ぼしているようだった。


「遠藤……」


 慎二は遠藤の姿を思い出し、胸が締め付けられるような痛みを感じた。彼が何を考え、何を伝えたかったのか。その真意は、永遠に闇の中だ。そして、そんな彼を無惨に殺した中村。その冷酷な行動の理由も、慎二には分からなかった。


「一体、何が真実なんだ……」


 慎二は自分に問いかけたが、当然のように答えは返ってこない。胸に宿り続ける不安と恐怖が、朝の静けさの中でじわじわと広がり、心に暗い影を落としていた。


 しかし、ふと頭をよぎったのは、今日の予定――『火星移住プロジェクト』のオリエンテーションだった。林山の「必ず火星に行け」と言葉、中村が渡してきたお守りと「明日のオリエンテーションに参加しろ」という中村の思惑が、慎二の思考をさらに混乱させていた。遠藤の「行かない方がいい」という忠告も脳裏に焼き付いており、慎二の頭の中はぐちゃぐちゃだった。


「それでも……俺は……」


 慎二は自分に言い聞かせるように呟いた。これまで、あまりに多くのことが起こりすぎた――殺人現場への遭遇、林山の忠告、ソティラスとの関わり、そして遠藤の死。しかし、それらが重くのしかかる今だからこそ、慎二は思う。自分の信念や夢だけは、絶対に曲げてはいけないと。


 慎二の胸の奥に残る、幼い頃から抱いていた火星への憧れ。それは、ただ漠然とした夢ではなく、自分が自分であるための道標だった。たとえ何が待ち受けていようと、その夢を諦めることはできない。慎二は深く息を吸い込み、決意を固めた。


「行こう……火星に……」


 昨夜まで、慎二は自分が巻き込まれた一連の出来事が、林山から渡された『ヴォイニッチ手稿』に似た文字の画像から始まったと思っていた。しかし、今ではっきりと気づいた。それは違う。全ての始まりは、自分が火星という未知の世界に恋い焦がれた、その夢から始まっていたのだ。


「……だから、進むしかない」


 様々な出来事を経験し、重い現実を背負うことになった今だからこそ、慎二は信念を持って突き進む必要がある。どんな困難が待ち受けていようとも、『火星移住プロジェクト』という夢を叶えるために、自分の足で未来へ向かって歩き出さなければならないのだ。


 慎二は自室を出て、同じ階にある浴室でシャワーを浴びた。熱い湯が体に触れるたび、昨夜の出来事でこわばっていた筋肉が少しずつほぐれていく。脱衣所の洗面台で髪を整えながら、慎二は鏡越しに自分の顔を見つめた。少し疲れた顔だが、目には決意の色が宿っている。


 一階に降りると、キッチンでは母が朝食の準備を終えて待っていた。朝の穏やかな陽光が窓から差し込み、部屋全体に暖かさを与えている。


「そろそろ起きてくる頃かと思ったわ」


 母はにこやかな表情で慎二を迎えた。その優しい声と微笑みに、慎二も思わず笑顔を返す。


 父はすでに仕事へ出かけており、家には慎二と母だけだった。二人は並んで食卓につき、たわいもない話をしながら朝食を楽しんだ。緊張していた心が少しだけ和らぎ、慎二は久しぶりに日常の温かさを感じることができた。


 しかし、ふと母が口を開いた。


「慎二、昨日の夜、何かあった? 友達が来たっていうのは知ってたけど、その後の顔色が真っ青だったじゃない。疲れた様子だったから、私もお父さんも声をかけなかったけど……気になってね」


 母の言葉に、慎二は一瞬息を止めた。昨夜のことが頭をよぎり、胸の奥で冷たい感覚が広がる。遠藤が目の前で命を落とした場面、中村との対峙、そして異様な出来事の数々。慎二は再び動揺しそうになるが、必死に感情を押し殺した。


「もう大丈夫だよ。ただ……お酒をちょっと飲みすぎちゃってさ」


 慎二は誤魔化すように笑顔を作りながら言った。母は慎二の言葉を聞いて、深いため息をついた。


「お酒はほどほどにしなさいよ……体を壊したらどうするの」


「わかってるよ、お母さん」


 慎二は軽く笑いながらそう答えたが、その笑顔の裏には昨夜の出来事がまだ色濃く影を落としていた。母はそんな慎二の様子に気づいていたが、それ以上何も言わず、優しく話題を切り替えた。


 二人は朝食を終えると、慎二は食卓から食器をキッチンに運び、母はそれを受け取って洗い始めた。その手つきは丁寧で、慎二が幼い頃から変わらない母の仕草だった。慎二は洗い終えた食器を受け取り、清潔な布巾で拭きながら、ふと母の問いかけに耳を傾けた。


「そういえば、何時ごろ帰るの?」


 慎二は布巾を手にしたまま答える。


「少し休憩してから出るつもり。だから、たぶんお昼前かな」


 母は安心したように頷きながら言った。


「わかったわ。ゆっくりしていきなさい。無理することはないから」


 慎二はその言葉に感謝を込めて微笑み返した。


「ありがとう、お母さん」


 慎二はソファに腰を下ろし、ARデバイスを装着して冷たい麦茶を飲みながらネットサーフィンをしていた。窓から差し込む朝の光が部屋を明るく照らし、穏やかな時間が流れていた。


 昨夜の出来事が心に残りつつも、静かな朝がその不安を少し和らげてくれるように感じた。母がキッチンの作業を終えると、慎二は立ち上がり、荷物をまとめて玄関へ向かった。靴を履きながら、母に声をかけた。


「そろそろ行くね」


 その言葉には、慎二なりの決意が込められていた。母は微笑みながら言った。


「気をつけてね。何かあったら、いつでも帰ってきなさい」


 慎二は軽く手を振って玄関の扉を開ける。冬の冷たくも清々しい空気が彼の体を包み込み、心を少しだけ軽くしてくれる気がした。


 慎二は外の空気を深く吸い込むと、一歩一歩踏みしめるようにして実家を後にした。胸の中に昨日の不安がまだ燻っていたが、朝の穏やかな時間が慎二の気持ちを少しずつ癒してくれているようだった。

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