第8話 恐怖は常に無知から生じる
翌朝、慎二は目を覚ましたものの、布団の中でじっと横たわっていた。薄い光がカーテンの隙間から差し込んでいるのに、体を動かす気力が湧かない。昨日の出来事が頭から離れなかった。蒼人と三宅の無表情な顔が、まるでフィルム映像のように何度も脳裏に浮かび上がる。その空虚な瞳には、自分の声が届かない冷たさが宿っていた。
『ナホビア』――その異様な存在感もまた慎二の心に重くのしかかる。意味の分からない言葉を発しながらも、なぜか抗えない威圧感を感じさせたその姿。自分の中にわずかに残っていたはずの冷静さや理性を、音もなく削り取っていくようだった。
そして何より、慎二を苦しめたのは自分自身だった。蒼人と三宅を救おうと扉を叩いたのに、結局は何もできずにその場を離れた自分。行動を起こそうとしながらも、結果として無力さを突きつけられた瞬間――その悔しさと自己嫌悪が、胸の奥で鈍い痛みとなって広がっていた。
「俺は……何もできなかった……」
慎二は小さく呟いた。言葉に出すことで少しでも気持ちが軽くなるかと思ったが、むしろその重みが現実としてのしかかる。何かをしたい、しなければならない――そんな焦燥感がある一方で、何をどうすればいいのか分からない無力感が、それを押しつぶしてしまう。
思い返すたびに、苛立ちと無力感が胸をかき乱す。何度も頭の中でその場面が再生され、何度も「こうすればよかった」「ああすれば救えたのでは」と後悔が押し寄せる。だが、現実は変わらない。その事実が慎二の気持ちをさらに沈ませていった。
布団の中でじっとしていると、まるで世界から取り残されているような感覚に襲われる。起き上がるべきだと思いながらも、体は動かない。昨日の出来事にすっかり囚われたまま、時間だけが過ぎていくように感じられた。
「……バイト、行かなきゃな……」
慎二は小さく呟き、重い腰を上げた。大学が休みの日はバイトに行くのが日課だ。昨日のことを引きずっているせいで気分は最悪だったが、だからといって休むわけにもいかない。慎二は洗顔を済ませると、タンスから適当にジーンズとカジュアルなシャツを取り出して身に着けた。
キッチンでパンをかじり、水で流し込む。味もあまり感じられないまま、バイトに必要な荷物をバッグに詰めた。ふと鏡を覗くと、そこにはどこかやつれた自分が映っている。目の下には薄いクマができていた。
「……よし」
慎二は小さく自分に言い聞かせるように呟き、無理やり気持ちを切り替えようとした。玄関へ向かい、靴を履いて家を出た。
朝の冷たい空気が肌に触れる。慎二は最寄り駅へ向かう道を歩きながら、深く息を吸い込んだ。昨日のことが頭をよぎるたびに気持ちが沈むが、なんとか振り払おうとする。視線を上げると、少しずつ日が昇り始め、街全体が白みがかった光に包まれていた。
改札を抜けてホームに着くと、ちょうどタイミング良く電車が滑り込んできた。慎二は無言で車内に入り、端の席に腰を下ろした。電車が動き出すと、車窓越しに流れる街並みをぼんやりと眺めるが、心のざわめきは収まらない。蒼人や三宅、そして教団での出来事が何度も頭の中で繰り返される。
やがて、電車が目的地近くの駅に到着した。改札を出た慎二は、重い足取りでスーパーの裏口へ向かい、更衣室へと向かう。自分のロッカーから制服を取り出し、慣れた手つきで制服を身につけた。小さく息を吐きながら気持ちを切り替えようとしたその時、更衣室の奥から何かが崩れるような大きな音が響いた。
「……何の音?」
慎二は音がした方に目を向け、しばらく耳を澄ませた。静かな更衣室の中、何かがかすかに動くような音が混じっている。日の字の形をした更衣室は入り口から奥までは見通せず、音の正体を確かめるには足を進めるしかなかった。
慎二は喉を小さく鳴らし、緊張を抑えるように息を整えた。心臓が早鐘を打つ音が耳に響き、全身に冷たい汗がにじむ。頭の片隅では「何もなければいい」と願いつつも、昨夜の出来事が重く影を落としている。
「……誰かいるのか?」
慎二は声を潜めて問いかけたが、返事はない。ただ、自分の靴音がタイルに反響して聞こえるだけだった。慎二はバッグを強く握りしめながら、慎重に奥へと歩を進めた。
更衣室の奥に差し掛かったその時――慎二の目に異様な光景が飛び込んできた。
「林山さん……?」
そこには林山が倒れていた。彼の体は壁に寄りかかるように崩れ落ち、片手で自分の首元を押さえながら、苦しそうに肩で息をしている。その顔は蒼白で、額には冷や汗が滲んでいた。周囲には何も異変はないように見えるが、林山の苦しげな姿が、明らかに普通ではないことを物語っていた。
「林山さん! 大丈夫ですか!?」
慎二は駆け寄り、林山の肩に手を置いた。だが、林山はかすかに目を開けるだけで、すぐにまた力なく閉じてしまう。何か言おうとしているようだが、声が出ないのか、喉を詰まらせるような音が漏れるだけだった。
「林山さん……しっかりしてください!」
慎二は林山の顔を覗き込んだが、その目は焦点が合っていない。明らかに普通の体調不良ではない。頭の中で状況を整理しようとするが、心臓の高鳴りが焦りを増幅させるだけだった。
「救急車……いや、それよりも、誰か!」
慎二は立ち上がり、更衣室を出て人を呼びに行こうとする。誰か助けを呼ぶべきだと分かっているのに、頭が混乱して思うように動かない。
その時、林山の手が微かに動いた。慎二の袖を掴むような仕草を見せ、かすれた声で何かを囁こうとする。
「……設楽……くん……」
その言葉に慎二の心臓が跳ねた。林山は確かに自分の名前を呼んだ。そしてその次に言おうとした言葉を、慎二は無意識に耳を傾けた。
「すまない……君を巻き込んでしまった……ようだ……行ったんだろ……? 『ソティラス』の集会に……」
林山の口から『ソティラス』という言葉が出るとは思わず、慎二は驚きを隠せなかった。冷や汗が背中を伝う。なぜ林山が『ソティラス』の集会に行ったことを知っているのだろうか。
「なぜ、それを?」
慎二は恐る恐る尋ねた。林山は申し訳なさそうに顔を歪めながら、話を続けた。
「あの画像……君に……いや、君たちに見せたのが間違いだった……」
林山は断続的に息を切らしながら、苦しげに慎二へと何かを伝えようとしていた。その言葉には後悔と焦りが滲んでいる。
「君は、『火星移住プロジェクト』の参加者……なんだろう……? 必ず君は……火星に行きなさい! ここまで関わってしまったのならば……君には世界の秘密を、知る権利がある」
その言葉に慎二は息を呑んだ。林山には一切、自分が『火星移住プロジェクト』に当選したことは話していない。それなのに、なぜ林山は知っているのか。その事実が、慎二の中で新たな恐怖を芽生えさせた。
「確かに僕は『火星移住プロジェクト』に当選しました……ですが、林山さんには言ってないはずなのに、なぜ知ってるんですか? それに世界の秘密って何ですか!?」
慎二の声は震えていた。胸の中で渦巻く不安と疑問が次々と溢れ出し、言葉を抑えることができなかった。林山は一瞬、疲れ切ったように目を閉じた。呼吸は浅く乱れ、今にも意識を失いそうなほど弱っている。それでも、次の瞬間、彼はかすかにニヤリと笑った。その笑顔にはどこか諦めと皮肉が混じっており、慎二の不安をさらに煽った。
「そりゃそうさ……君のことなら……私の息子から聞かされたからね……」
その言葉を聞いた瞬間、慎二の頭の中に警鐘が鳴り響いた。林山の息子――東京大学で天文学の助教をしているらしい人物のことを、林山との雑談の中で聞いたことはあった。しかし、それ以上のことは知らない。もちろん、直接会ったこともない。それなのに、林山の息子がなぜ自分が『火星移住プロジェクト』に当選したことを知っているのか――全く理解できなかった。
「息子さん……ですか? でも……どうして僕のことを……?」
慎二は動揺を隠せなかった。言葉を絞り出すようにして問いかけると、林山は荒い呼吸の合間に、断続的に言葉を紡いだ。その声はかすれていたが、その一言一言が慎二の胸に重くのしかかった。
「……息子はね……知ってるんだよ……色々と……普通じゃない……」
「普通じゃない……って、どういう意味ですか?」
慎二の問いかけに答える余裕が林山にはなかった。体力が限界に近づいているのが見て取れる。それでも林山は、最後の力を振り絞るように、慎二に向けて囁いた。
「だから言うんだ……『ソティラス』とは……できるだけ関わるな……! 私の息子……林山真也に気をつけろ……そして、必ず火星に行くんだ……!」
その言葉を聞いた慎二の体が強張った。『ソティラス』だけではなく、林山の息子にまで「気をつけろ」と忠告される意味が全く分からなかった。慎二の頭の中で「なぜ」という疑問が何重にも反響する。
「えっ……どういうことですか? 息子さんが……何を?」
慎二は追及したい衝動に駆られたが、林山は力尽きたようにぐったりと肩を落とした。目を閉じ、意識を失った彼の体は動かないが、微かに息づいているのが分かった。
「林山さん! しっかりしてください!」
慎二は肩を揺らしながら必死に声をかけたが、林山は応えなかった。焦燥感が慎二を支配する。胸が締めつけられるような感覚の中で、慎二は周囲を見回し、声を上げた。
「誰か! 助けて!」
その声は更衣室の静寂に響き渡った。一瞬の静寂の後、遠くから慌ただしい足音が近づいてきた。
「どうした!? 慎二君、大丈夫か!」
バイト仲間の一人が駆け込んできて、慎二の元に急いで近づいた。それを皮切りに、他の店員たちも次々と姿を現した。驚いた様子で慎二と倒れている林山を見つめ、戸惑いの表情を浮かべる。
「林山さんが……倒れてるんです! すぐに救急車を呼んでください!」
慎二の声に反応して、一人の店員が慌ててスマホを取り出し、119番にかける。その間、別の店員が林山の様子を確認するために慎重に近づいた。
「呼吸はしてるけど……これ、かなり危ないんじゃないか?」
「救急車、もう呼んだ! すぐに来るはずだ!」
慎二は安堵しつつも、依然として胸の中で恐怖が渦巻いていた。林山の最後の言葉――『ソティラス』、そして「息子」という言葉が、頭の中で何度も反響する。それらが絡み合い、慎二の中で不安と疑念が膨らみ続けていた。
♢♢♢
慎二は部屋のドアを開けると、重たい体を引きずるようにして中へ入った。靴を脱ぎ、帰り際に買ってきたコンビニ弁当を机に置いて、鞄をそのまま床に置くと、無意識のうちにベットへと腰を下ろす。時計を見ると、まだ昼過ぎだった。普段ならバイトの真っ最中の時間帯だが、林山の件の影響で店長から「今日はゆっくり休め」と帰されていた。
林山が救急車で運ばれてからの一連の出来事が、頭の中でぼんやりと再生される。警察からの簡単な事情聴取では、林山を発見した経緯や、その時の様子を繰り返し聞かれた。特に問題はなくすぐに解放されたものの、その間ずっと、林山の最後の言葉が脳裏に張り付いて離れなかった。
「『ソティラス』とは関わるな……息子にも気をつけろ……」
慎二はベットに寝転ぶと、深く息を吐いた。ぼんやりと見上げた天井の白さが、妙に空虚に感じられる。その言葉の意味を何度も考えようとするが、何一つ手がかりが見つからない。林山の息子の忠告が示すもの、それが何を意味するのか、慎二には全く見当がつかなかった。
「……結局、何も分からないままじゃないか……」
慎二は小さく呟いた。その言葉が、静まり返った部屋の中に虚しく響く。次第に、何もできなかった自分への苛立ちがじわじわと胸を締め付けていった。林山は確かに何か重要なことを伝えようとしていた。それなのに、自分はその真意を掴むこともできず、ただ呆然と見送るしかなかった。今も林山は病院のベッドの上で意識を失っている。その事実が、慎二の無力感を一層際立たせた。
慎二はテーブルの上に置いたコンビニのビニール袋を開け、中から弁当を取り出した。バイト帰りに適当に選んだものだったが、味への期待はほとんどなかった。プラスチックの蓋を外し、箸を取り出して、無心で一口運ぶ。
「……味がしないな……」
慎二はぼそりと呟いた。弁当の味が感じられないのは、疲れのせいなのか、それとも気分のせいなのか。林山の言葉が頭を離れず、何をしても心のどこかがざわついている。『ソティラス』と息子への忠告、そして「火星に行け」という言葉――全てが薄暗い霧に包まれ、慎二を縛りつけていた。
箸を止め、弁当に視線を落とす。湯気が立ち昇るその光景が、どこか現実味を欠いて見えた。食欲も湧かないまま、慎二は静かに弁当の蓋を閉じた。
一つ大きく息を吐きながら、慎二は思考を巡らせる。林山の忠告の意図を、なんとかして導き出そうとするが、手がかりはどこにもない。それでも、ここ最近自分の身に起こった出来事を振り返らずにはいられなかった。
すべての始まりは、林山から見せられた『ヴォイニッチ手稿』に記された文字のような奇妙な模様の画像だった。林山が不安そうにしていたのを見て、慎二は少しでも力になれればと、その画像の正体を突き止めようと動き始めた。水野蒼人、三宅雪子、高村一也、遠藤健児――次々と関わる人々に話を聞き、その中で遭遇した殺人現場。そして、辿り着いた新興宗教『ソティラス』。最終的には、原因不明の苦しみに倒れた林山からの謎めいた忠告を受けるに至った。
「……まるで、導かれているみたいだ……」
慎二はぼそりと呟いた。これまでの出来事を一つずつ振り返るたび、それらがただの偶然ではなく、何かの意図によって引き起こされたもののように思えてくる。林山が自らその流れを作り出したのか、それとも林山すらも何かに操られていたのか――その真相は分からない。ただ、一つだけ確かなのは、自分がいつの間にか、何か巨大な渦の中心に立たされているという感覚だった。
その渦の正体は何なのか。慎二には全く見当がつかない。ただ、その中心に自分がいるという実感だけが、不気味に胸を締めつけてくる。そして、次第に浮かび上がってくるのは、一つの疑念だった。
「一体、俺の身に何が起ころうとしてるんだ……」
慎二は静かに呟き、ぼんやりと天井を見上げた。何かが見えそうで見えない――そんな霧がかった状況が、心の中に苛立ちを生み出していく。だが、それ以上に胸を満たしているのは、不安と恐怖だった。形のないそれらが、静かに慎二の中で広がり続けている。
しかし、このままでいいはずがない。慎二は拳を握りしめた。恐怖は、常に無知から生じる。知らないからこそ、恐れる。だからこそ、何が起きているのかを知る必要がある――そうでなければ、この先も自分は何も分からないまま、事件に巻き込まれ、ただ流されていくしかない。
「……そんな人生、絶対に嫌だ」
慎二は小さく呟いた。自分に言い聞かせるように。その声には、かすかな震えがあったが、その中に確固たる決意が宿り始めていた。
慎二は床に放り出していた鞄を手に取り、中からARグラスを取り出した。電源を入れて仮想ディスプレイを表示し、最近のメールを再度確認する。既に何度も目を通した『火星移住プロジェクト』の詳細案内もそこにあった。
「……これ、2日後か」
慎二は内容を再確認しながら呟いた。すでに読んでいたはずのメールだったが、今はその文字が以前とは違う重みを持って迫ってくる気がした。プロジェクトに当選したことへの喜びや期待感は、いつの間にか遠ざかり、代わりに緊張と疑念が入り混じる感情が芽生えていた。
『必ず火星に行け』――林山が苦しみながら絞り出した忠告が、慎二の中で何度も反響する。
「……これは、林山に行けと言われたから行くんじゃない。自分の意思で自分の人生を動かすための一歩だ」
慎二は画面を閉じ、グラスを外して手の中に握りしめた。これがただの科学的な夢や未来への挑戦ではなく、もっと大きな、そして危険なものに繋がっているのではないか――そんな思いが頭をかすめる。それでも慎二は、行かなければならないと感じていた。
「行くしかない……どんなことがあっても」
慎二はグラスをテーブルの上に置き、深く息を吐いた。その息遣いの中には、微かにだが覚悟の色が滲み始めていた。
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