第7話 潜入作戦

「――んで、なんで俺まで呼ばれてるんだ? 大学までサボらせて……」


 慎二たちが住む街の郊外。薄暗い夕暮れの中、慎二と一也の二人は教団『ソティラス』の集会が行われるという会場の近くまで来ていた。人気の少ない住宅街を抜け、少し開けた場所に佇む古びた建物を前に、一也が呆れたように慎二を見やる。


 数日前、慎二は『ソティラス』という教団が、最近身の回りで起こっている不可解な事件――連続殺人や遠藤の失踪、事あるごとに目にする文字のような模様に関連していると断定した。そして、一人で向かう勇気が出なかった慎二は、一也を無理矢理誘ってここまで連れてきたのだ。そのため、一也は少し不満そうな表情を浮かべている。


「そんなこと言うなよ。俺一人は流石に怖くてさ……」


 慎二は申し訳なさそうに肩をすくめながら、一也をなだめるように言った。しかし、その言葉を聞いた一也は、大きなため息をつきながら肩をすくめた。


「なら行くなよ! ……ったく。でもまあ、俺も気になってたし、いいけどさ」


 そう言いつつも、一也の声にはどこか諦め混じりの軽い調子があった。一也は建物の方に視線を向けると、眉をひそめた。


「にしても、なんか嫌な雰囲気の場所だな……ほんとにここで集会があるのか?」


 慎二も一也の視線を追うように建物を見上げた。時代を感じさせる古い外壁に、何の看板も掲げられていない。窓はほとんど閉ざされており、中の様子は全く見えない。どこかひんやりとした空気が漂い、二人の足元を秋の冷たい風が撫でていった。


「……間違いないよ。ブログに書いてあった日時と場所はここだったし、間違ってる様子もない。」


 慎二の声にはわずかな震えが混じっていた。一也はそんな慎二を横目で見ながら、軽く肩を叩く。


「まあ、調べてきたお前がそう言うなら信じるけどさ。大丈夫か? 今からビビってたら、これからどうするんだよ」


「……分かってるけど、やっぱり怖いんだよな……」


 慎二は視線を落としながらポケットに手を突っ込み、無意識に握りしめた拳を開いた。鞄の中にあるあの紙――例の模様が描かれた紙が、まるで慎二をここに引き寄せたかのような気がしてならなかった。


「とにかく、一度中を覗いてみよう。何かおかしなことがあればすぐに引き返す。約束するよ」


 慎二の言葉に、一也は一瞬渋い表情を見せたが、やがて諦めたように頷いた。


「分かった。絶対無茶はするなよ。お前に何かあったら、俺が説明する羽目になるんだからな」


 二人は建物に向かって足を進めた。慎二の心臓は早鐘のように鳴り、一歩進むごとにその鼓動が強くなっていくのを感じていた。


 二人は無言のまま建物の入り口へと向かった。古びた扉は大きな木製で、ところどころ塗装が剥がれ、時間の経過を感じさせる。扉の隙間からかすかに冷たい空気が漏れてきており、慎二は思わず足を止めた。


「どうした、慎二。今さら怖気づいたのか?」


 一也が慎二の顔を覗き込むように軽く肩を叩いた。その声に促されるように、慎二は小さく息を吐き、震える手で扉の取っ手に触れた。手に伝わる金属の冷たさが、一瞬、慎二を現実に引き戻した。


「……行くぞ」


 慎二は小さく呟き、扉を押し開けた。ギィィ、と鈍い音が辺りに響き、暗闇が二人を迎え入れる。中は外観以上に古びており、薄暗い廊下が奥へと続いている。天井からは裸電球がところどころ吊り下げられているが、明るさは足りず、不安定に点滅していた。


「なんだここ……本当に集会やる場所かよ。廃墟じゃねえか」


 一也が小声で呟きながら、慎二の後ろから廊下を見回す。慎二も同じように周囲を見渡したが、壁に貼られた古いポスターや雑多に置かれた木箱が目に入るだけで、特に目立ったものはなかった。


 廊下の奥から、かすかな人の声が聞こえてくる。祈るような、しかし言葉を判別できない不気味な響きだった。慎二は無意識のうちに息を止めていた。


「慎二、行くのか? まだ引き返せるぞ」


 一也の声がどこか遠く感じられる。それでも慎二は、なぜか足を進めるのを止められなかった。遠藤のこと、模様の意味、そして教団「ソティラス」の真実――全てを知りたいという気持ちが、不安に勝っていた。


「……行く。ここまで来たんだ、引き返せないだろ」


 慎二の声には、ほんの少しの決意が混じっていた。一也はため息をつき、慎二の後ろに並ぶようにして歩き出した。


 二人が廊下を進むにつれ、奥からの声が徐々に大きくなってきた。それは単なる会話ではなく、何かを唱えているような調子だった。不規則な抑揚と耳慣れない言葉が混じり合い、慎二の背筋に寒気を走らせた。


 やがて廊下の先に大きな扉が見えてきた。そこには装飾が施された奇妙な模様が彫られており、そのデザインは慎二が持つ紙に描かれている模様と酷似していた。


「……おい、慎二。これ、もしかして――」


 一也が言葉を切り、慎二の持つ紙に目をやった。その視線を受けた慎二は、震える手で鞄から紙を取り出し、模様を確かめた。


「間違いない……これだ」


 慎二の声は震えていた。視線を扉に戻すと、模様が薄暗い光の中でまるで揺れているように見えた。慎二はごくりと唾を飲み込み、意を決して扉に手を伸ばした。


 扉を押し開けると、室内から一気に声の響きが溢れ出した。それは低く響くような祈りの声と、微かに混じるざわめきが交じり合った、不気味な音の波だった。中は広いホールのようになっており、壁沿いには無数のキャンドルが配置され、青白い光を放っている。その揺らめく炎が空間全体を幻想的でありながら不安を煽る雰囲気に包み込んでいた。


 中央には十数人の人影が輪を描いて立っており、全員が一方向をじっと見つめている。その静止した姿が異様で、まるで時間が彼らの周囲だけ止まっているかのようだった。その外側にはさらに多くの人々が集まり、肩が触れ合うほどの混雑の中、ざわざわとした低い声で何かを囁き合っている。その喧騒と静寂が同時に存在する空間は、現実感を失わせるほど異質だった。


「……なんだよ、これ……」


 一也が低い声で呟く。その横で慎二もまた、目の前の光景に圧倒されていた。ホールの奥には高台があり、その上に立つ人物が見えた。白いローブを纏い、顔を隠したその人物は、何かを朗々と語っているようだった。


 慎二は強い不安を胸に抱きながらも、どこか神秘的な雰囲気を漂わせるこの場所に圧倒されていた。


 すると突然、後ろから肩を叩かれる。慎二はびくりと体を震わせ、驚いて後ろを振り向いた。そこに立っていたのは、見知った顔――水野みずの蒼人あおと。そしてその隣には、見覚えのない同年代くらいの女性がいた。


「よぉ、こんな所でまさか会うとはな! お前も人生の迷子で入信でもしたか?」


 蒼人がいつもの調子で笑いながら声をかけてくる。だが、その言葉の軽さに反して、慎二の胸には奇妙な不安が広がった。


「蒼人……なんでここに……?」


 慎二は思わず問いかけた。声が自然と低くなる。それに、この様子――まるで蒼人は前々からこの教団に関わっていたかのような口ぶりだ。慎二の脳裏に、数週間前に蒼人に模様の画像を見せたときのことが浮かんだ。その時、蒼人は「興味が湧いてきた」と言っていたが、いつもなら数日後にはスッカリ忘れるようなヤツだ。なぜ今ここにいるのだろうか。


 蒼人は慎二の疑念など意に介さず、軽い調子で話し続けた。


「いやさ、先々週だったか? お前にあの変なグラフィックスの画像を見せてもらっただろ? そしたら、なんか面白そうだなって思って色々調べてたんだよ。そしたらこの教団に行きついたってわけ。その一連の流れをブログに書いてたら、思いのほかPV数が伸びてよ。だったら、いっそのこと集会に潜入してやろうかなって思ってさ!」


 蒼人はケラケラと笑いながら肩をすくめたが、慎二の不信感はさらに強まるばかりだった。蒼人の言葉に何かが引っかかる。偶然ここに来たにしては、その軽さが不自然すぎるのだ。


 すると、蒼人は「そうだ」と言って横にいる女性に手を向けた。


「紹介するわ。こいつは三宅みやけ雪子ゆきこ。ほら、お前に有識者として紹介してあげただろ? その人だよ」


「ああ、そういえば」


 慎二はうっすらと記憶にあった名前に応じた。数週間前、蒼人から「こういうの詳しい人がいるから聞いてみろよ」と紹介され、チャットでやりとりをした人だ。慎二はてっきり男だと思っていたので少し驚く。その時は模様についての簡単な質問をしただけだったが、画像を送った途端、三宅の態度が急変したのを思い出す。


「ああ、そっちも連れがいるんだな」


 蒼人が三宅をちらりと見やった後、慎二に向けて言う。その言葉に慎二は少し頷き、自分の隣にいる一也を紹介した。


「そうだ。一也、高村一也。大学の友達で、今日は一緒に来てもらったんだ」


「よろしく、蒼人」


 一也はそう言うと、蒼人と軽く握手を交わした。蒼人は短く「よろしく」と返しながらも、目線を一也に向けて少しだけ興味深そうな表情を浮かべた。


 簡単な挨拶が終わると、三人の間には再び静かな緊張感が戻った。慎二が辺りを見渡しながら小さく呟く。


「けど、なんか不気味な雰囲気があるね……嫌な感じだ」


 ホール全体を覆う静寂と、どこからともなく漂う冷たい空気。慎二の言葉に、蒼人と一也も無言で頷いた。


 すると、その場にいた三宅が突然口を開いた。


「……結局、あなたも私も……ここに辿り着いてしまった……のね? これも運命の……導きかしら」


 ぎこちなく響く彼女の声に、慎二は驚いた。チャットでは流暢で知的な印象を持っていた三宅だったが、実際に話す姿はぎこちなく、言葉が詰まりがちだ。どうやら、対面での会話は苦手な様子だ。


 三宅の言葉にはどこか不安定さが感じられ、慎二はその意味を測りかねていた。彼女の言う「運命」という言葉が、慎二の胸に奇妙な重さを残した。


「君が蒼人に教えたのか?」


 慎二は恐る恐る問いかけた。彼女が自分の意志で蒼人をこの場に導いたのか、それとも何か別の理由があるのかを確かめたかった。三宅は慎二を見つめ、小さく頷いた。


「私は……嫌だった……の。私と同じ……ことを……させたくはなかった……から」


 彼女の言葉は震えていた。それが恐怖によるものなのか、それとも後悔なのか、慎二には判断がつかなかった。しかし、その次の言葉が慎二の中に冷たい刃のように刺さった。


「けど、もう無理ね。『ナホビア』様が来た……」


 その言葉が終わると同時に、ホールの奥に続く扉がゆっくりと開く音が響いた。


 その瞬間、ホールの奥に続いている扉がゆっくりと開いた。慎二たちの方を向いていた信者たちが一斉に振り返り、沈黙の中で深々と頭を下げた。その視線の先に現れたのは、身長2メートル近くはある高身長の白人男性だった。


 その男は、慎二がこれまでに見たことのない威圧感を漂わせていた。白いローブに身を包み、長い金髪が肩にかかっている。その歩みは音もなく、まるで地に足をつけていないかのように滑らかで、彼が近づくたびに空気が冷たく張り詰めるようだった。


「……あれが、『ナホビア』……?」


 慎二が声にならない声で呟くと、三宅は再び小さく頷いた。その顔は蒼白で、瞳はどこか焦点が合っていないように見えた。


 男――『ナホビア』と呼ばれるその人物は、ホール中央に立つと、ゆっくりと周囲を見渡した。信者たちは一言も発せず、全員が頭を垂れている。その異様な光景に慎二は背筋が凍る思いだった。


 一也が慎二の耳元で小声で囁いた。


「……慎二。あの人、やばそうだぞ?」


 一也の言葉には珍しく緊張が混じっていた。いつもの明るい雰囲気は影を潜め、その声には明らかな戸惑いがあった。それもそのはずだ――目の前の男の存在感は、ただそこにいるだけで周囲を圧倒していた。


 慎二は答えられなかった。喉が乾き、声が出ない。ただ、心臓が早鐘を打つ音だけが耳の奥で響いていた。


『ナホビア』はゆっくりと口を開き、低く響く声で何かを語り始めた。その声は不思議と心に染み渡るようで、何を言っているのか分からないにもかかわらず、聞く者の意識を引き寄せる力があった。


 慎二はふと蒼人と三宅の方を見た。二人はまるで催眠術にかけられたかのように、『ナホビア』の声に吸い込まれていくようだった。その様子に慎二の胸に強い不安が湧き上がる。


「……三宅さん、大丈夫?」


 慎二が声をかけるが、雪子はまるで聞こえないかのように動かなかった。その横で一也も、事態の異常さをようやく理解したのか、慎二の腕を掴んで低く呟いた。


「おい、慎二……これ、やっぱり普通じゃねえぞ。引き返した方がいいんじゃねえか?」


 慎二も同じことを考えていた。しかし、『ナホビア』の低く響く声とその異様な存在感が、二人の足をその場に釘付けにしていた。ホール全体を支配するような圧迫感の中で、慎二の胸には恐怖と好奇心が渦巻いていた。だが、何か――ここでしか知り得ない真実があるのではないかという思いが、不安をかき消そうとしていた。


 それでも、慎二は一也の言葉に小さく頷き、低い声で返した。


「ああ、絶対やばい。逃げよう……」


 二人は一瞬視線を交わすと、ホールに入った時と同じ扉を目指して足を動かした。だが、その行く手を塞ぐように、一人の男が静かに立ちはだかっていた。


 慎二の目はその男の顔を捉えた瞬間、驚愕に見開かれた。


「……遠藤……健児……?」


 そこに立っていたのは、失踪したと噂されていた友人――遠藤健児だった。遠藤は薄く笑みを浮かべながら、まるで慎二を迎え入れるかのように腕を広げた。


「やあ、慎二くん。やっぱり君は来てくれると思ったよ。君の一歩はここに辿り着いた。それは、実に偉大な一歩だ――一也くんまでいるのは、少し意外だったけどね」


 遠藤の言葉は、どこか芝居がかった調子だった。慎二はその言葉の意味を理解できず、無意識に一歩後ずさった。その隣で一也が眉をひそめ、遠藤を睨みつける。


「……そこをどけよ。俺たちは帰る」


 一也の低い声には怒りと警戒が滲んでいた。だが、遠藤は微動だにせず、軽く肩をすくめて笑った。


「せっかく来たのにかい? 残念だな……まあ、僕は君たちが帰ろうとどうでもいいんだけど――」


 遠藤の笑みが一瞬だけ鋭くなり、その視線が慎二と一也を射抜く。そして彼は、口元に薄い笑みを浮かべたまま静かに続けた。


「――『ナホビア』様はそうではないらしい」


 その瞬間、遠藤は手でホールの奥を指し示した。慎二と一也が反射的にその方向を振り返ると、目の前には『ナホビア』と呼ばれる男が静かに立っていた。


 白いローブに身を包んだ彼の存在感は、さっきよりもさらに異質だった。まるでその場の空気自体が彼を中心に収縮し、二人を取り囲んでいるように感じられた。彼の金色の瞳が慎二たちを捉え、その冷たい視線が肌を刺すようだった。


 慎二は喉が乾き、声が出なかった。一也もその場に立ち尽くし、遠藤を睨む目つきがわずかに揺れていた。


「さあ、慎二くん。一也くん。せっかくここまで来たんだ。『ナホビア』様があなたたちに伝えたいことがあるらしいよ」


 遠藤の声は、まるで子供が悪戯を楽しむかのように無邪気だった。しかし、その言葉の裏に隠された狂気が、慎二の心にじわじわと染み込んでいくのを感じた。慎二は息を飲みながら遠藤を見つめたが、次の瞬間、ホール全体の空気が変わった。


「◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️」


『ナホビア』が何かを口にした。聞いたことのない言語――どの国のものともつかない、異質で不気味な響きだった。その音は耳障りというわけではないが、慎二にはこの世のものではないように感じられた。音には規則性があり、それが一つの文として成立していることだけは直感的に理解できた。しかし、その内容を理解することは到底できなかった。


「――日本語で喋れよ……」


 一也が静かに呟いた。その声はかすかに震えていたが、明確な反発を含んでいた。だが、次の瞬間、彼の体が突然後方へと弾き飛ばされた。一也を突き飛ばしたのは、激昂した遠藤だった。


「神の言葉を無碍にするな!」


 遠藤の目は血走り、普段の穏やかだった彼とはまるで別人のようだった。慎二は慌てて叫んだ。


「遠藤! お前、なにやって――ッッッ!!」


 慎二は遠藤を抑え込もうと飛びついたが、その瞬間、信じられないほどの力で振り払われた。軽々と振り飛ばされた慎二の体は、無様に地に崩れた。その光景を見た一也が怒りを込めて立ち上がり、遠藤に向かおうとする。


 だが、そんな状況下に割って入るように、『ナホビア』が静かに手を上げた。その動作は決して威圧的ではなく、むしろ落ち着きと品位を感じさせるものだった。『ナホビア』はゆっくりとジェスチャーを交えながら、何かを語り始めた。


「◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️」


 慎二たちには相変わらず理解できない言語だったが、その低く深みのある声がホール全体に響き渡ると、荒れていた遠藤の動きが一気に止まった。まるでその声に力を吸い取られたかのように、遠藤は深く頭を垂れた。


 そこへ、別の男が静かに歩み寄ってきた。ホールの他の信者たちとは明らかに異なり、ビジネスマンのようにきっちりとスーツを着こなした姿が際立っている。彼の態度には威厳があり、その場の空気を支配しているようだった。


「『ナホビア』様は争いに悲しんでおられる。遠藤、気持ちは分かるが控えろ」


 その言葉に、遠藤はハッとしたように顔を上げ、急いで頭を下げた。


「申し訳ございません、中村さん」


 遠藤の声には、先ほどまでの激昂が嘘のように消え去っていた。スーツ姿の男――中村と呼ばれた人物は、冷ややかな目で遠藤を見つめた後、慎二と一也の方にゆっくりと視線を向けた。


「――さて、こいつら、どうするか……」


 その言葉には、冷たさと計算された圧力が滲んでいた。慎二と一也の視線が絡み合い、一瞬の間が生まれる。中村の目は獲物を見定めるように冷酷で、ホール内の空気がさらに重く淀んだ。


「◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️」


『ナホビア』が再び異質な言葉を発した。その声がホール内に響いた瞬間、空気が一層張り詰め、中村は即座に深々と頭を下げた。


「『ナホビア』様はお優しい……」


 一呼吸置いてから、中村は冷たく命じた。


「おい、こいつらを摘み出せ」


 その言葉を合図に、ホール内の信者たちが一斉に動き出した。慎二と一也に向かって、無言で近寄ってくる信者たちの目には、一切の感情が宿っていなかった。


「おい、やめろ!」


 一也が抵抗の声を上げるが、それは完全に無視された。信者たちは二人の体を押さえ込み、まるで荷物を運ぶように担ぎ上げた。その無表情の信者たちの中には、蒼人と三宅の姿もあった。二人とも視線はどこか虚ろで、慎二たちの抵抗にはまるで反応を示さない。


「蒼人! 三宅! おい、聞こえてるだろ!?」


 慎二が必死に声をかけるが、彼らは何も答えない。信者たちは黙々と二人を建物の外へと運び出し、容赦なくその場へ放り投げた。


「ぐっ……!」


 外の冷たい地面に叩きつけられ、慎二は思わず呻いた。一也もすぐ隣に転がり、怒りに満ちた目で建物の入り口を睨みつけた。


「なんだよ、あいつら……!」


 信者たちは振り返ることもなく、再び扉の中へと姿を消していった。その扉が閉ざされる音が響き、静寂が訪れる。慎二は地面に転がったまま、ぼんやりとその扉を見つめていた。蒼人と三宅――二人の無表情な姿が、今も目に焼き付いて離れない。


「蒼人……三宅……」


 慎二は立ち上がると、扉に向かって駆け寄った。冷たい金属の取っ手に手をかけ、力いっぱい押したり引いたりする。しかし、扉はまるで壁のように動かない。何度も試みるが、結果は同じだった。


「開けろよ! おい、聞こえてるんだろ!? 蒼人! 三宅!」


 慎二の叫びは虚しく夜空に吸い込まれるだけだった。ホールの中からは何の音も反応も返ってこない。慎二はさらに強く扉を叩き続けたが、手の痛みだけが増していった。


「……慎二、もうやめろ」


 後ろから一也の声が冷静に響いた。振り返った慎二の目は、焦りと怒り、そして不安で揺れていた。


「一也……でも、蒼人も三宅も……置いていけるわけないだろ!」


 慎二の言葉には震えが混じっていた。一也は慎二に歩み寄り、彼の肩を強く掴む。


「お前だって分かってるだろ。この扉、絶対に開かない。これ以上ここにいたら、何されるか分かんねえぞ。帰ろう」


「でも……」


 慎二はまだ扉に視線を向けていた。だが、その頑丈さと自分の無力さを前に、徐々に力が抜けていくのを感じた。扉の向こうに残された二人を思うと、胸が締め付けられるようだった。


「くそっ……」


 慎二は拳を握りしめ、無力感と悔しさに耐えるように唇を噛んだ。一也は慎二の様子を見て、少しだけ声のトーンを落として続けた。


「とにかく、一旦ここを離れよう。蒼人と三宅のことは……後で考えればいい。今はまず、俺たちが無事でいることが先決だろ」


 一也の言葉に、慎二はようやく小さく頷いた。仕方なくその場を離れる決意をするも、扉の前を離れる足取りは重かった。慎二たちは振り返ることもなく、夜道を歩き始めた。


 冷たい夜風が慎二たちの頬を刺す。舗装された細い道を、二人は無言で歩いていた。遠くで車の走る音が微かに聞こえる以外、この場所はやけに静かだった。


 慎二は俯き、ただ一歩ずつ足を前に出すことしかできなかった。握りしめた拳の中で手のひらが汗ばんでいることに気づき、無意識に手を開いて拭った。何度も繰り返し頭に浮かぶのは、蒼人と三宅の無表情な顔。自分の声は届かなかった。彼らは、もう自分の知っている蒼人と三宅ではないのかもしれない――そんな考えが慎二を苛んでいた。


「……蒼人と三宅、どうして……」


 慎二がようやく口を開くと、一也はポケットに手を突っ込みながら小さく息を吐いた。


「俺にも分からねえよ。ただ……」


 一也は慎重に言葉を選ぶようにして続けた。


「ただ、あの『ナホビア』ってやつの存在がデカすぎる。あいつの声とか動きとか、何か……普通じゃなかった。蒼人も三宅も……多分、あいつにやられてるんだと思う」


 慎二は黙ったまま一也の言葉を聞いていたが、心の中にはどうしようもない苛立ちが渦巻いていた。どうすれば二人を救えるのか、何をすればいいのか――答えは見つからない。


「お前はどうするつもりだ?」


 一也がふと問いかける。慎二は立ち止まり、前方の薄暗い街灯を見つめた。


「……分からない。でも、このまま何もしないわけにはいかないだろ。蒼人も三宅も、あのままにしておけるわけがない……」


 慎二の声は震えていた。そんな慎二を一也はじっと見つめた後、再び歩き始めた。


「だったら、まずは落ち着こう。お前、今は疲れすぎてる。無理して動いたら逆に何もできなくなるぞ」


 慎二は一也の言葉に答えず、ただ後を追った。彼の言う通りだった。体も頭も、もう限界に近い。


 やがて、慎二たちは人通りの多い大通りへと出た。街灯に照らされた駅前のビル群が、どこか現実感を失わせる。慎二はふと立ち止まり、一也の方を見た。


「……一也、ありがとうな」


「何がだよ」


 一也は少し照れたように言いながら、慎二を促して歩き始めた。寒い夜風の中、二人はやがてそれぞれの帰路へと歩みを進めていった。



 ♢♢♢



 一方、信者たちが姿を消したホールでは、中村が『ナホビア』に向き直り、恭しく問いかけた。


「よろしかったのですか? 。特に片方の設楽慎二は、『火星移住プロジェクト』の参加者ですよ。それに強い力の気配がしました」


『ナホビア』は静かに頷き、再び言葉を発する。


「◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️」


 その言葉を聞いた中村の表情に、わずかに笑みが浮かんだ。


「なるほど……そういうことでしたか。彼の存在の重要さをNASAが気づくことができたならば、必ず奴らが囲い込む。そして、一網打尽にする……というわけですね」


 中村の言葉に、『ナホビア』は不敵な笑みを浮かべた。その笑みには、人間離れした冷酷さが宿っていた。

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