第4話 未解読の手稿

 目覚ましのアラームが鳴り響くと、設楽慎二は反射的に目を覚ました。脳裏には、昨夜の出来事があまりにも鮮明に焼き付いており、まるで悪夢から覚めたような感覚に襲われる。まだぼんやりとした視界の中で目をこすり、ベッドから起き上がってアラームを止めると、心臓が激しく鼓動しているのがわかった。部屋は薄暗く、朝の静寂が広がっている。カーテンの隙間から差し込む朝日が、まるで慎二を現実へと引き戻そうとしているようだった。


 慎二はふと立ち上がり、深呼吸をして気を落ち着けようとする。しかし、昨夜の衝撃的な光景が脳裏から離れない。頭部に大きな銃創、飛び散った赤黒い鮮血、血だまりの中に不気味に浮かんでいた奇妙な文字。その記憶がふとした瞬間によみがえり、心に冷たい恐怖が走る。


 考えることから逃れようとするかのように、慎二は洗面所へと向かった。冷たい水を顔に当てると、一瞬だけ現実の感覚が戻るような気がしたが、鏡に映る自分の顔には疲労と困惑がはっきりと浮かび、普段の自分とは違う、どこか遠い場所にいるような不安感が漂っている。鏡越しに見つめる自分の顔が、昨夜の出来事の異常さを改めて感じさせた。


「あれは……夢だった? いや、それとも今も夢の中にいる?」


 冷たい水の感触も、目の前の鏡に映る自分も、現実のはずなのに、昨夜の光景があまりに異様で、現実から切り離された気がしてならない。慎二は頭を抱え、夢と現実の境目がわからなくなりそうな感覚に揺さぶられた。


「何が本当なんだ……」


 誰にともなく問いかけるが、当然答えは返ってこない。記憶が鮮明であればあるほど、現実がぼやけて感じられ、彼の心はどこまでも混乱していく。


 ふと、洗面台に置かれた時計に目を向ける。時計の針は着実に進んでおり、もうすぐ警察署に行く時間が迫っていた。昨夜の事件の目撃者として、事情聴取を受けることになっているのだ。ぼんやりしている暇はないと気づき、慎二は急いで身支度を整え始めた。


 シャワーを浴び、気だるい体を覚醒させる。髪を整え、シンプルなシャツとジーンズに着替えるが、寝不足のせいか、鏡に映る顔はどこか疲れ果てている。目の下には青黒いクマができ、事件の影響がはっきりと表れているようだった。気にする時間も気力もなく、口元に軽く水を含ませると、玄関へと向かう。


 靴を履き、鍵をかけて家を出ると、冷たい朝の空気が一気に肺に染み渡る。昨夜の動揺がまだ胸の奥に残っているが、昼間の暑さが和らいだ朝の涼しさが、少しだけその緊張を和らげてくれる気がした。慎二は深く息を吸い込み、意識してゆっくりと吐き出す。心臓の鼓動がわずかに落ち着き、体の力が少しだけ戻ってくるのを感じながら、警察署へと歩みを進めた。


 警察署は自宅から少し距離がある。街中を歩くと、昨夜の事件が嘘のように、周囲はいつもと変わらない日常を過ごしている。車が行き交う音、すれ違う人々の話し声、遠くで響く救急車のサイレンの音が混ざり合い、街の朝が動き始めている様子を伝えている。しかし、慎二の心にはまだ不安と恐怖がくすぶり続け、視界に映る景色もどこかぼんやりと歪んで見える気がした。昨夜見たあの光景が幻であってほしいと、無意識に何度も願う。


「また……何か事件に巻き込まれたりして……」


 慎二の胸にぽつりと浮かんだ考えは、冷たい手が心臓をきゅっと締め付けるような感覚を残していった。犯人が近くに潜んでいるのではないか、次は自分が狙われるのではないかという、ぼんやりした恐怖が波のように押し寄せてくる。それでも前に進まなければならないという思いが、重い足取りを少しずつ前へと導いていく。


 やがて、警察署の前に到着した。高くそびえる重厚な建物が、まるで事件の重大さを静かに語っているようで、慎二は一瞬足がすくむのを感じた。緊張と覚悟を胸に抱き、彼は意を決して足を踏み出す。ガラスの自動ドアが静かに開き、警察署特有の厳粛な空気が慎二を迎え入れる。冷やりとした空気が肌を撫で、どこか緊張感に満ちた雰囲気が全身に染み渡ってきた。その張り詰めた空気は、逆に彼の不安を和らげ、ここに来た意味を少しずつ実感させてくれた。


 慎二はカウンターで受付を済ませると、窓口の女性職員が穏やかな笑顔で言葉を添えた。


「終わりましたら、もう一度窓口の方に寄ってくださいね。」


 その言葉に慎二は軽く頷いたが、胸の中に緊張感が走るのを抑えきれなかった。職員の柔らかな対応に救われたような気もしたが、これから向かう取調室での時間を考えると、心がざわついて仕方がない。まるで地に足がついていない感覚に襲われながらも、慎二は言われるがまま、奥へと案内されていった。


「設楽慎二さん、こちらへどうぞ」


 若い警察官が慎二の名前を呼び、慎二を捜査室へと導く。廊下を進むと、壁には事件の進展状況を示す写真や地図が貼り出され、犯人の痕跡を追うために必死で捜査が進行しているのが一目で伝わってきた。刑事たちはファイルを手にし、低く真剣な声で情報を交換し合っている。廊下の先からは、捜査主任の怒号が響いてきた。


「現場から回収した弾丸の解析結果は出たのか?」


「目撃情報と監視カメラの解析はどうなってる?」


 廊下に響き渡る鋭い声が、警察署全体に緊張感を一層漂わせている。慎二は、その声に一瞬身が引き締まる思いだった。冷や汗が背中を伝い、足取りも自然と重くなる。事件の重圧が壁一面に貼られた捜査資料や写真からも伝わってきた。


 しばらく歩いた先、案内された取調室に入ると、部屋の片隅にいた中年の刑事が鋭い眼光を慎二に向けた。まるで慎二の内面を見透かそうとするかのようなその視線に、一瞬息が詰まりそうになる。刑事ドラマにも出てきそうな中年の男の刑事が一人、ゆっくりと手を挙げ、静かに座るよう促した。


「設楽さん、よく来てくれました。おかけください」


 慎二は緊張を隠しきれないまま、言われるがまま机を挟んで中年の刑事、新島の正面に腰を下ろす。手は汗ばみ、無意識のうちに軽く握りしめていた。新島のどこか冷徹な目つきに、慎二は飲み込むように息を吸い、気持ちを奮い立たせた。


「設楽慎二君、私は新島です。昨夜の事件について、思い出せる限り詳しく教えてください」


 新島の冷静な声が部屋に響き渡り、その一言一言が慎二の中にズシリと響いた。慎二は頭の中に浮かんでくる昨夜の凄惨な光景を、できるだけありのままに伝えようとした。だが、記憶のあいまいさと恐怖でうまく言葉がまとまらず、焦りが込み上げてくる。


「昨夜、何か不審なことに気づきましたか?」


 新島の問いに、慎二は少し戸惑いながら口を開いた。


「いえ、特に何も……ただ、何か嫌な予感というか……変な匂いがして……その方向を見たときには、もう遺体が……」


 慎二の声は震え、緊張で乾いた喉がつかえているようだった。慎二の様子に、刑事の目は動じることなく冷静に慎二を観察しているようだった。新島は慎二の言葉一つ一つに耳を傾け、表情を崩さずにメモを取っていく。その真剣な顔から、事件の深刻さがひしひしと伝わってきた。


 さらに、新島は慎二が目撃した細かい部分についても次々と質問を投げかける。慎二は全力で記憶を辿り、質問に応えるが、ぼんやりと残る光景が何度も言葉を詰まらせた。まるで頭の中に霧がかかったようで、何度も言い直し、言葉を探しながら答え続けた。


 全ての質問に答え終わると、慎二はまるで長い坂道を登りきったかのように力が抜け、椅子の背に体を預けた。取調室の冷ややかな空気が肌にまとわりつく中、全身にずっしりとした疲労感が押し寄せてきた。息をつくごとに肩が重く、まぶたもゆっくりと閉じそうになる。


「ありがとう。これからも必要があれば、またお話を伺うことがあるかもしれません。その時はご協力お願いします。」


 新島は慎二にやわらかく微笑みかけるが、その目には探るような視線が宿っていた。本当はさらに聞き込みを続けたかったのだろうが、慎二の顔色がみるみる悪くなっていくのを見て、取り調べを早めに切り上げることにしたようだった。


「はい、わかりました……」


 慎二は深く頭を下げて部屋を後にした。足取りは重く、取調室の厳粛な空気がまだ背中に張り付いているように感じる。警察署の出口に向かう途中も、頭の中で昨日の光景が幾度となくフラッシュバックし、何度も息を詰まらせながら歩いた。


 廊下を進むと窓口が見えてきた。ここで最後の手続きをする必要があることを思い出し、慎二は立ち止まる。窓口の担当者は事務的ながらも穏やかな声で、慎二に必要な書類を確認し、簡単な説明を始めた。


「設楽さん、この用紙は事件現場に遭遇した方のためのカウンセリングサービスについての案内です。もし少しでも辛いと感じることがあれば、ぜひご利用ください」


 淡々とした言葉で差し出されたその紙を、慎二は無言で受け取った。見ると、心理カウンセリングの連絡先や、時間帯が記載されている。慎二は感謝を述べる代わりに軽く頷くだけで、そっとその紙をポケットにしまった。


 外に出ると、朝の冷たさを含んだ風が慎二の頬をかすめ、現実の世界が広がっていることを感じさせてくれた。だが、それが返って虚ろに思える。事件の重みがまだ胸に残っている中で、行き交う人々はいつもと変わらず、街には平穏な空気が流れていた。それが慎二にとって、どこか皮肉に感じられた。


「なんだったんだ、あれは……」


 慎二は一人つぶやきながら、歩き始める。帰り道、ふと顔を上げると、真っ青な空がどこまでも広がり、雲一つない空が広がっていた。昨日の出来事が嘘であったかのように穏やかな景色だったが、それでも彼の心の中には重い雲が消えずに漂い続けていた。


 家に着くと、慎二は玄関で靴を脱いだまま、しばらく立ち尽くした。何も考えたくないという気持ちが押し寄せ、ワンルームの端に置かれたベットに身を投げ出すように座り込む。窓の外から差し込む日差しが部屋を柔らかく照らしているが、その光も慎二にはどこか遠く感じられた。心の中では、事件の凄惨な記憶が脈打つように甦り、胸の奥で小さな不安が絶え間なく騒ぎ続けていた。


 しばらくの間、慎二はぼんやりと窓の外を眺め、深呼吸を何度も繰り返した。頭を振ってみても、まだ胸のざわつきは消えない。火星移住という夢に胸を躍らせていたはずが、現実の厳しさと重さを思い知らされたように、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。



 ♢♢♢



 取調室の扉が静かに閉まると、部屋には重い静寂が戻り、新島は慎二の背中が遠ざかっていくのを見送りながら、心の中でため息をついた。


「まだ若いのに、こんな恐ろしい経験をさせてしまって……」


 彼はそう呟くと、目の前の机に広げられた証拠写真に視線を戻した。慎二が目撃した現場、その残酷な光景が記録されている写真が並んでいる。凄惨な姿の遺体が写し出され、頭部には大きな銃創、四方に飛び散る鮮血が写真越しにも冷ややかな迫力を伝えてくる。開かれたままの目には絶望が浮かび、体は不自然な角度でねじれている。片腕が無造作に伸び、衣服は血で赤黒く染まっている。新島は写真から目を離せず、ふと、慎二が感じただろう恐怖と混乱を想像し、胸の内が重く沈むのを感じた。


 静かに深呼吸をし、気持ちを切り替えるように、彼は証拠の一つひとつに改めて目を通した。机上には現場に落ちていた弾丸のカートリッジ、被害者のスマートフォン履歴、監視カメラ映像の一部が並んでいる。しかし、これらはどれも断片的な情報にすぎず、まだ事件の全貌には程遠い。被害者の解剖結果も出ていない今、進展は遅々としている。


 新島は、最後に残された一枚の写真に目を留めた。それは、遺体のそばに不気味に残された『血の模様』だ。言葉で説明しがたいその模様は、文字のようにも見えるが、どこかこの世のものではない異様な印象を放っている。DNA鑑定がまだだが、現場の状況から被害者の血で書かれたものである可能性が高いと考えていた。


「そして、これか……」


 新島は写真にじっと視線を注ぎ、指先をそっと伸ばして模様の輪郭をなぞるように触れた。その模様には意味があるのか、それとも犯人が残したただの痕跡にすぎないのか。どちらにせよ、この謎を解き明かすことが事件の鍵を握っているのは明らかだった。


「一体、何を伝えようとしている……?」


 新島は手元の写真を見つめ、胸の中で言葉を呟いた。事件の背後に潜む何かが、手を伸ばせば届きそうな距離にあるようで、かえって遠ざかっていくように感じられた。謎の模様が見せる断片的なヒントに近づこうとするたび、まるで深い霧がその先を覆い隠すような、掴みきれないもどかしさが胸を締め付ける。じわじわと湧き上がる焦燥感と、どこか不安げな胸騒ぎが彼の思考をかき乱していた。


 取調室の扉が静かに開き、若い刑事が入ってきた。慌ただしさに満ちた署内の空気を背負いながら、彼は新島の表情を見て、一瞬気まずそうに目を伏せた。


「なんだ、佐藤か。どうした?」


 新島は疲労を隠しきれない声で尋ねた。連日の取り調べと、何もかもが不透明な事件の進展に心身ともに疲れが染み出している。


「すみません、新島さん。取り調べが終わってもなかなか戻ってこられなかったので、気になって様子を見に来たんです」


 佐藤は少しばつが悪そうに言いながらも、新島を心配しているのが伝わってきた。その気遣いに、新島は少しばかり笑みを浮かべ、佐藤に頷いた。


「気を遣わせたな。ありがとう」


 新島は苦笑しつつ、再び手元の写真へ視線を戻した。複数の証拠が並べられた中、特に気になるのは遺体のそばに残された不気味な模様。ある種のメッセージにも見えるその形状が、彼を引き込むように感じられた。


「それにしても、この模様が厄介だ。まるで俺たちに何かを告げようとしているようだが、全く手掛かりが見つからん」


 新島は苛立ちを隠せず、椅子の背もたれに寄りかかりながら、首をゆっくり左右に振った。頭を抱えたくなるような思いが、彼の心に重くのしかかっている。


「本当にそうですね……この事件、何か普通じゃないというか、どこか背筋が凍るような不気味さを感じます」


 佐藤は顔をしかめ、机に並べられた写真に目をやった。彼の眉間には深い皺が寄り、事件に潜む不可解さに、思わず口を噤んでしまう。事件が明らかになるどころか、手掛かりが増えるたびに謎が深まるという異様な状況が、二人の心に重く影を落としていた。


「遺体は9mmの拳銃で撃たれたことが分かったが、周囲の住民は誰も物音を聞いていない……それに加えて不審者の目撃情報も皆無。あり得ないことばかりだ」


 新島は苦々しく呟き、写真に再び視線を落とした。彼の声には苛立ちと困惑が滲み出ている。


「ええ、事件当夜もまだ人や車の往来があったはずですからね。それなのに、周囲の住民は揃ってと証言している。どれだけ夜が更けていたとはいえ、あまりにも静かすぎます」


 佐藤もその異常さに気づき、言葉を噛みしめるように答えると、二人の間に重い沈黙が広がった。事件の謎が押し寄せるように、取調室の中は一層静まり返り、空気が冷たく張り詰めている。


 すると突然、佐藤が「ん?」と小さく声をあげ、血の模様の写真をじっと見つめた。興味を引かれたように写真を持ち上げたその様子を見て、新島は声をかけた。


「おい、佐藤。何か気になることでもあったか?」


「はい……初めて見たときはわかりませんでしたが、どこかで見たことがある気がして……」


 新島は佐藤の言葉に目を細め、手を顎に当てながら朧げな記憶をたどろうとした。ふと、佐藤の頭の中に何かが閃き、「あっ……」と小さな声を漏らし、ポケットからスマートフォンを取り出して何かを検索し始めた。


 新島は佐藤の手元に目をやり、少し驚いたように尋ねる。


「若いのに、今時スマホなんて使ってるのか?最近の若者はみんなARゴーグルを使ってるものだと思ってたが」


 佐藤は苦笑いしながらスマホの画面をタップし続ける。


「確かに周りはほとんどARゴーグルですね。でも、僕はあれに目が慣れなくて……AR酔いしやすい体質なんです」


 2030年に登場したARゴーグルは瞬く間に普及し、スマートフォンの代わりとして多くの人々に受け入れられていた。メガネ型のARゴーグルは高性能な視線トラッキング機能と仮想キーボードによって、現実と仮想世界をシームレスに結びつける。しかし、そのトラッキング技術も完璧とは言えず、コンマ数秒のズレが一部の人には不快感をもたらし、佐藤もその影響で使用を避けていた。


「早く目のトラッキング機能がもう少し改善されるといいんですけどね。まだまだスマホが手放せません」


 佐藤は自嘲気味に笑いながら、スマホの画面を指で滑らせ、記憶の片隅にある手がかりを探しているようだった。


 しばらくして、佐藤は何かを見つけた様子で「ありました、これです!」と画面を新島に見せた。そこには、古びた写本の画像と共に『ヴォイニッチ手稿』と書かれている。


「『ヴォイニッチ手稿』?なんだ、それは……」


 新島は眉をひそめ、佐藤のスマートフォンの画面をのぞき込んだ。そこには不思議な文字や奇妙な植物の図形が描かれたページが映し出されており、その異様さに思わず息を飲む。文字は曲線が多く、どこか人を惑わせるような流れで書かれている。その雰囲気は、現場の血文字と酷似していた。


 佐藤は、そんな新島の表情を確認しながら説明を始めた。「『ヴォイニッチ手稿』は未解読の古代文書です。ページには不明な文字や奇怪な図、そして普通じゃ見られない植物の絵が描かれていますが、いまだに何が書かれているのか解明されていません。この図、そしてこの文字……」


 佐藤は興奮を隠せない様子で、画面に表示された手稿の一部を新島に指差す。「これを見てください。この文字の形が、現場の血文字と驚くほど似ているんです!」


 新島はその指摘に目を見開いた。佐藤が示す箇所と、現場に残されていた血の模様が頭の中で重なり合う。鳥肌が立つ感覚とともに、新島は思わず呟いた。「確かに……これはただの偶然ではなさそうだな。でも、なんでお前はそんなものを知ってるんだ?」


 佐藤は照れくさそうに微笑みながら答えた。「実は学生時代、都市伝説や未解明の謎に興味があって、その流れで『ヴォイニッチ手稿』のことを知ったんです。当時は、何が書いてあるのか分からないって話に妙にワクワクしていました」


 その意外な一面を聞いて、新島は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに微笑んだ。真面目な佐藤にも、好奇心で心が躍る時期があったのだと考えると、妙に親しみを感じた。


「そうか……じゃあ、その『ヴォイニッチ手稿』について、もう少し詳しく教えてくれないか?もしかすると、現場の手がかりに結びつくかもしれない」


 佐藤は頷き、再び画面を操作しながら『ヴォイニッチ手稿』についての説明を続けた。


「『ヴォイニッチ手稿』は、15世紀頃に書かれたとされていますが、その内容は誰にも解読できていません。どの言語にも属さない文字や図が並んでいて、いまだに専門家たちにとっては大きな謎なんです。まるで、この世のどの文明とも関わりがない、孤立した暗号のようなものなんです」


 新島は静かに頷きながらも、険しい表情を崩さずにいた。目の前の証拠写真に残された謎の血文字が、まさか遠い過去の解読不能な文書と関連しているのだとしたら――そこに何が隠されているのかと思考を巡らせる。


「だが、仮にこの血文字が『ヴォイニッチ手稿』の文字と一致しても、内容がわからなければ大きな進展にはならないというわけか……」


 新島の呟きには、もどかしさがにじんでいた。佐藤も悔しそうに眉をひそめながら頷く。


「はい、まさにその通りです。未解読の手稿である以上、今のところは手がかりが少なすぎます。ただ……」


 佐藤は言葉を切り、血文字の写真に目を落として話を続ける。


「気になるのは、今回の事件が『例の連続殺人』と繋がっているのかどうか……そこですよね」


 新島は一瞬視線を遠くへ向け、無言のまま思案するような表情を浮かべた。やがて、低い声で答えた。


「ない、とは言い切れない……殺害方法は同じ9mm拳銃。それだけなら偶然の一致と言えるが、今回は被害者の血で謎文字を残すという明確な手がかりを残している。それに、現場の異様な静けさも引っかかる。周囲の住人は誰一人として物音を聞いていない。車の音一つ聞こえない、全くの無音だ」


 佐藤の背筋に冷たいものが走った。自分の立っている現実の床が、少しずつ崩れていくような不安に襲われる。


「……え? でも、この血文字って被害者が書き残したものじゃ……」


 新島の言葉に疑問を持った佐藤が、少し躊躇いがちに尋ねる。新島は目を閉じ、ゆっくりと首を横に振った。


「あり得ない。被害者は9mm拳銃で頭を撃ち抜かれていて、即死のはずだ。血文字を書く余裕なんて、あるはずがない」


 新島の冷静な分析に、佐藤は再び戦慄を覚えた。事件があまりにも非現実的であることが、じわじわと彼の意識に浸透していく。新島の視線は再び写真に戻り、血文字に宿る謎めいた意図が胸の内で重く渦巻く。


「つまり、犯人がわざわざ現場にこの文字を残していった……何か目的があるということですね」


 新島は黙って頷いたが、その表情はますます険しく沈んでいく。二人の間に重苦しい沈黙が流れる中、新島はふと、言葉にならない不安と焦燥感が自分の内で増幅しているのを感じていた。


「ここに残されたこの血の文字は、単なる衝動や偶然ではない。犯人は意図的にメッセージを残している……恐らく、我々への挑戦か、それとも――」


 新島の言葉が途切れる。佐藤も、ただ無言のまま息を飲んでその言葉を待っていた。


「何か、我々に知られたくないものを隠しているのかもしれない」


 その言葉に、佐藤は一層の寒気を感じた。この事件の背後に、まだ姿を現さない巨大な闇が潜んでいる――そんな予感が彼らの間に立ち込めていた。

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