第3話 人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては偉大な一歩だ
「結局この時間かよ……」
慎二は少し苛立ちを込めて、ぼそりと呟く。視界の隅に映るARグラスのデジタル時計が、22:00を示している。予定よりかなり遅れてしまったが、それも仕方がないことだった。品出しがようやく半ばに差しかかった頃、何人もの客から声をかけられてしまったのだ。「すみません、この商品はどこですか?」と尋ねられるたびに、慎二は表向きは笑顔で丁寧に応対していたが、心の中では「少しは自分で探してくれればいいのに」とつい思ってしまう。しかし、口に出してしまうほど無粋なことはしない。慎二は客に対しての対応は最後まで貫く。
結果として1時間半の残業をする羽目になり、ようやく終えた後もどっと疲れが押し寄せる。苦笑しつつも、自分の仕事ぶりを振り返り、どんなに疲れていても作り笑顔で接客し続ける自分に、達成感とわずかな皮肉が入り混じったような感情が湧いてきた。
駅に到着すると、ちょうどタイミングよく電車が到着した。運が良かったと思いながら、慎二は二駅分の短い距離だが、空いている座席に腰を下ろした。背中に感じる心地よい硬さに、一瞬意識が遠のきそうになる。アルバイトで溜まった疲れが重くのしかかり、うたた寝したくなるのを必死にこらえ、ぼんやりとしたまま駅の景色が流れていくのを見つめていた。
ふと、降りる駅に着いたことに気づき、慎二は重たい体を引きずるように電車を降りた。改札を抜けると、夜道には慎二と同じようにアルバイト帰りで疲れた表情の学生や、仕事帰りのサラリーマンたちがぽつぽつと歩いている。駅近くの居酒屋から出てきた若者たちが、酒の勢いもあってか楽しそうに大声で笑い合っているのが耳に届き、慎二は自然とその声から距離を置くように歩みを速めた。
そのとき、不意に若者集団の一人が慎二に気づいて声をかけてきた。
「おい、慎二! 今日もバイトか?」
声の方に目を向けると、そこには高校で同じクラスだった
蒼人は軽く酔っているのか、ほんのり赤くなった頬でにこにこと笑い、慎二に近づいてきた。
「やっぱりお前、相変わらずバイトばっかだな! もうちょい息抜きしろよ!」
その言葉に慎二は肩をすくめながら苦笑いを浮かべた。「まあな、今日はちょっと予定より遅くなっちまってさ」と、少し疲れの滲む声で返す。
蒼人はそれを聞いて、「そりゃ大変だな。でも、無理しすぎんなよ?」と気軽に肩を叩いて励ました。その軽い一言と、なんでもないような笑顔に、慎二はほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「そうだ、蒼人。そういえば、色々コミュニティ広いよな?」
「もちろん! お前よりは明らかに広いだろうね!」
「相変わらず、一言余計だよ……」
慎二は軽く苦笑いしながら、バイト先で林山さんから見せられたあの奇妙な植物の画像を思い出していた。あの、どこか不気味な雰囲気を漂わせる植物と、それを囲む見慣れない文字の羅列。その記憶が頭をよぎり、慎二は一瞬ためらいを感じたが、結局は蒼人のARグラスへと画像データを送信した。
蒼人のARグラスに通知が届き、彼は表示された画像をじっと見つめた。眉をひそめながら不思議そうに口を開く。
「なんだ? この画像……変な植物だな。見たことないけど」
慎二は小さくため息をつき、改めて事情を説明する。
「実はさ、バイト先の林山さんっていうおじちゃんがさ、息子から急にこれを送られてきたらしいんだよ。メッセージもなしで、ただこの画像だけって、気味悪いよな。コミュニティ広いお前なら、何か知ってるんじゃないかと思ってさ」
蒼人は画面をじっくり見つめながら、少し考え込むように目を細めた。
「うーん、明らかにお前より博識で、コミュニティの広い俺だけど、さすがにこればっかりはちょっと分からないな……でも、こういうのに詳しい奴のことは知ってるぞ!」
「だから一言余計だって……」
慎二はまたも苦笑し、蒼人のそういうところが少し苦手だなと思うものの、博識かどうかについては議論の余地があるものの、確かに蒼人は知り合いが多く、慎二とは違った人脈を持っていることは認めざるを得なかった。慎二は気を取り直し、蒼人に期待を込めて尋ねる。
「それで、その詳しい奴に連絡できる?」
蒼人は待ってましたと言わんばかりにニヤリと笑う。
「任せとけ。俺に繋がらない奴なんていないからな」
そう言って蒼人はドンと胸を叩く。頼もしげな蒼人の様子に、慎二はわずかながらの安心を感じた。
「ありがとな。なんかわかったらすぐ教えてくれ」
「了解! 面白そうだし、俺も興味湧いてきたわ。また連絡するよ」
そう言って、蒼人は軽く手を振り、仲間の元へと戻っていった。慎二も軽く手を振り返し、再び夜道を歩き始める。暗い道を進みながら、胸の奥でわずかに残る不安が、冷たい夜風に溶けていくような気がしていた。
♢♢♢
慎二はまだ眠い目を擦りながら、ゆっくりとベッドから起き上がった。昨夜は予想外の残業で帰りが遅くなったせいか、体全体にじんわりと疲れが残っており、どことなく怠いような感覚が続いている。朝の柔らかな光がカーテン越しに差し込んでいるが、その明るさがかえって目にしみ、眠気が抜けないままだった。
「昨日はほんと、遅くまでやっちまったな……」
慎二はため息交じりに呟きながら、体を軽く伸ばしてみるものの、体の重さがどことなく消えない。体の疲れが取れない朝に、これからまた一日が始まると思うと、少し憂鬱な気持ちが心に広がる。
大きなあくびを一つして、慎二はベッドの隅に充電しておいたARグラスに手を伸ばした。顔にかけて電源を入れると、薄暗い視界にパッとディスプレイが浮かび、右上にはチャットアプリの通知が表示されている。慎二がアプリを開くと、蒼人からのメッセージが届いていた。
「昨日聞いたばかりなのに、相変わらず早いな……」
慎二は思わず苦笑いを浮かべた。蒼人の行動力の早さには毎回驚かされるが、そのフットワークの軽さには心底感謝していた。蒼人は昨夜話した奇妙な画像について知っていそうな人物を、すぐにリストアップしてくれたらしい。スクロールすると、何人かの名前が記載されており、それぞれの特徴や連絡先も簡単にまとめられている。それに加え、すでに何人かには話がついており、すぐにでも聞けるようにしてくれていた。
「これならすぐに聞けそうだな……蒼人にはほんと頭が上がらない」
慎二は半ば感心しつつも、蒼人のフットワークの軽さに驚きながら、改めて感謝のメッセージを打ち込んだ。そして、昨日からくすぶっている不安が、少しだけ軽くなった気がして、慎二は肩をすくめながら朝の準備に取りかかった。
慎二は蒼人に感謝のメッセージを送信すると、軽く体を伸ばしながらベッドを離れ、朝の準備を始めた。まだぼんやりとする頭をシャワーでさっぱりとさせ、冷たい水が全身に染み渡るたびに、ようやく眠気が抜けていくのを感じる。
慎二は着替えを終え、簡単な朝食をとりながら、ARグラスの通知を確認した。蒼人からのメッセージのリストを眺めていると、特に気になる名前が目に留まった——『
「こんな不思議な話には慣れてるかもな…」
慎二は少し躊躇したものの、誰かに相談したい気持ちが勝り、三宅にメッセージを送ってみることに決めた。
>>『初めまして、蒼人から紹介してもらった設楽です。ちょっと不思議な画像について相談したいことがあって……』
メッセージを送信し、返信を待ちながら、慎二は急いで朝食の片付けを済ませ、出かける準備を整えた。ふと、ARグラスに再び通知が表示され、三宅からの返信が早くも届いているのが見えた。
>>『設楽くんだね、よろしく。蒼人から聞いてるよ。不思議な画像って、どんなもの? ちょっと興味が湧くな』
その返事に慎二はほっとし、件の植物と奇妙な文字が写った画像を三宅に送信した。まさかこんなにすぐに返事が来るとは思わなかったが、意外にも彼の好奇心が引き出されたようだ。数分も経たないうちに、またもや三宅からの返信が届く。
>>『設楽くん、君はこれをどこで誰からもらったのかい?』
その問いかけには少しぞっとするような気配が漂っていた。慎二は直感的に何か不穏なものを感じ取ったが、蒼人から少し変わり者だと聞かされていたこともあり、気にしないようにした。しかし、なぜか言葉を選ばなければいけない気がしてならなかった。
慎二は林山のためにも何か情報が欲しかったことを思い出し、意を決して返信した。
>>『バイト先の人からです。どうやら息子さんからその画像をもらったらしいのですが、文書もなく突然送られてきたそうで、それで気味悪がって僕に相談してきました』
メッセージを送り終えると、すぐに通知が表示された。返信は驚くほど迅速で、慎二の胸にどこかざわつくような不安が広がった。
>>『悪いことは言わない。この件にはあまり関わらない方がいい。私もあまり関わりたくない』
慎二はその言葉に息を呑んだ。まるで遠ざけるような冷たい響きが、画面越しに伝わってくるようだった。頼りになると思った矢先の突き放すような一言に、慎二は混乱と戸惑いを隠せない。言いようのない不安が胸を締めつけ、心の奥に小さな疑念が湧き上がってくる。
慎二は「関わらない方がいいって…そんなにまずい話なのか?」と呟いた自分の声が、ひと気のない朝の部屋にひそりと響きわたるのを感じた。今までの日常と切り離されたような、異質な何かに触れてしまったような感覚が胸の奥でざわつく。知らず知らずのうちに、慎二は何か見えない『《闇》』に足を踏み入れてしまっているのではないかという考えが頭をよぎり、ひどく不安を募らせた。
だが、人間の本能なのだろうか——「関わるな」「知らない方がいい」と言われると、かえって知りたくなるものだ。林山のためにという本来の目的から少しずつ逸れていき、慎二の中には純粋な好奇心が膨らんできていた。その気持ちに突き動かされるように、慎二は三宅にメッセージを再び送る。
>>『お願いします、教えてください。一体、この画像はなんですか?』
メッセージを送信し、慎二はしばらくの間、画面をじっと見つめたまま返事を待ったが、三宅からの返事は返ってこなかった。その沈黙が慎二の胸に重くのしかかり、期待が裏切られたような失望と、三宅がわざと黙っているのではないかという疑念が入り混じる。気味の悪さがふと胸に湧き、慎二は改めてこの話がただの好奇心だけで済むものではないのかもしれないと考えた。
それでも林山のためにと気を取り直して、蒼人が教えてくれた他の人たちにもメッセージを送ってみたが、返ってきたのは「奇妙な画像だな」という感想程度で、手がかりとなる情報は得られなかった。慎二は深いため息をつき、もどかしさと少しの諦めの気持ちを抱えながら、グラスを外してテーブルに置いた。
「林山さんのためにも、何か手がかりが見つかればよかったんだけど……」
駅に到着し、慎二はいつものようにスクールバスに乗り込んだ。今日は一也の姿が見えず、バス内はどこか静かで、慎二は窓の外の景色をぼんやりと眺めながら、昨日のやり取りが頭をよぎるのを振り払おうとする。バスの揺れに身を任せるうちに、少しずつ大学が近づいてきた。
大学に到着すると、ちょうど昼時が終わり、学生たちが学生食堂からぞろぞろと出てきていた。ふと目を凝らすと、一也と彼の友人たちが数人集まり、笑顔で談笑しながら講義棟へと戻っていく姿が見える。慎二も自然とその話の輪に引き寄せられ、足を速めて近づいた。
「おはよ!」
慎二が明るく声をかけると、彼らは気さくに返事を返してくれた。そこにいたのは、一也の他にも共通の友人たちで、顔見知りが多い安心感が慎二の心に少し広がる。
「おお、慎二! 今日も珍しく講義が始まる前にいるじゃん!」
一也が少しイタズラっぽく口元をゆるめて言うと、周りの友人たちもクスクスと笑い声を漏らした。慎二は照れくさそうに肩をすくめ、少し苦笑しながら返事をする。
「まあ、さすがに数週間連続で遅刻するのはまずいと思ってな」
それを聞いた一也は、軽く肩を叩きながら「お前、毎回それ言ってないか?」と茶化す。友人たちも微笑ましそうに頷き、慎二のいつもの調子に親しみを感じている様子だった。軽口を叩き合い、和やかな空気が流れる中、慎二はふと、楽しい団らんで忘れかけていたあの奇妙な画像のことを思い出した。
慎二は少しの躊躇を感じながらも、友人たちにダメ元で聞いてみることにした。これだけ人数がいれば、誰かが心当たりを持っているかもしれない。
「実はさ……こんなの見たことあるやついる?」
慎二はARグラスを操作して友人たちのARグラスにあの画像を共有する。友人たちはそれぞれのグラスに表示された画像を見て、思わず顔をしかめた。慎二が送ったのは、あの奇妙な植物のイラストと、それを取り囲むように並んだ見たこともない文字の羅列。まるで謎めいた暗号のような、不穏さを漂わせるものだった。
「うわ……なんだこれ、気味悪いな」
一人の友人が眉をひそめて呟き、他の友人たちも顔を見合わせてざわつく。周囲のざわめきが一瞬静まり、いつもの軽い話題が切り替わる。慎二もその場の空気が変わるのを感じながら、どこか落ち着かない気持ちで彼らの反応を待っていた。
「これ、どこで見つけたんだよ? ちょっと普通じゃないよな」
友人の一人が不安げに尋ねると、慎二は苦笑いしながら説明を始めた。
「いや、バイト先の林山さんっていうおじちゃんが、息子さんから急に送られてきたらしいんだ。メッセージも何もなく、ただこの画像だけ……なんか気味が悪くてさ。もしかして、誰か何か知ってるかなと思って聞いてみたんだよね」
慎二が説明すると、友人たちはそれぞれ眉をひそめながら再びグラス越しに奇妙な画像を見つめた。どこか怪しげな植物のイラストと、文字とも記号ともつかない不可解な羅列。その異質な雰囲気に誰もが戸惑っているようで、まばらに「なんだこれ」「気持ち悪いな」といった声が漏れた。
すると突然、一人の友人が何かを呟いた。
「ここまでたどり着いたのならば、あと一歩だ」
慎二と友人たちは思わず顔を見合わせ、驚きのまなざしを言葉の主に向けた。そこに立っていたのは、真面目で控えめな性格の遠藤健児だった。彼は普段からどこか一歩引いた姿勢で、静かに物事を見つめるような人だ。しかし、趣味に関しては少しオタク気質があり、たまにアニメやマンガの台詞を不意に引用することがある。だが、今日の遠藤の雰囲気はいつもとは異なり、ARグラス越しに見えるその瞳には鋭い光が宿り、慎二たちを冷静な目で見返しているようにさえ見えた。
「健児、お前、何言ってるんだよ?」
慎二が半ば困惑し、戸惑いを隠せないまま尋ねると、遠藤はじっと慎二を見据えたまま言葉を続けた。
「人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩だ」
その台詞に、慎二たちは息を呑んだ。遠藤の声には、冗談とも本気とも取れない不思議な響きがあり、まるで彼が何か大きな秘密を知っているかのようにさえ感じられた。普段はどちらかというとおっとりしている彼の突然の変化に、周囲には微妙な緊張感が漂い、慎二は自分の胸が少し速く鼓動するのを感じた。
「……健児、本気で何か知ってるのか?」
慎二が思わず問うと、遠藤は一瞬じっと考え込むように視線を落とし、そして静かに微笑んだ。その笑顔が普段の飄々としたものに戻った瞬間、慎二たちの緊張も解けたように、場が少しだけ和んだ。
「なんてね! ただの冗談さ。びっくりしたか? こういう場で『実は知ってます』みたいな顔してみたかっただけだよ」
遠藤は肩をすくめて、照れくさそうに笑った。さっきまでの真剣な様子がまるで嘘だったかのように、普段通りの健児に戻っている。その姿に、慎二や他の友人たちは微妙な安堵とともに困惑した表情を浮かべていた。
「なんかいつもより雰囲気あったな」
一也が笑い混じりに言うと、他の友人も肩を揺らして笑い出す。
「ここまできたら嘘でもなんかすごいこと言えよ!」
別の友人も軽く肘で遠藤を小突く。
「ちょっと期待しちゃった俺がバカだったかもな」
慎二も苦笑しながら、胸の中に広がったなんとも言えない安心感を噛みしめていた。先ほどまで感じていた微妙な緊張が解け、再び和やかな雰囲気が戻ってくるのを感じた。
それぞれが軽口を叩きながら、講義棟へと足を向けていく中で、ふと遠藤が慎二の肩を軽く叩きながら寄り添ってきた。そして、周囲を気にするようにしてから、慎二の耳元に顔を寄せて囁いた。
「それは、『《僕たちの手紙》』だ。君が手に入れた経緯は非合法だが、歓迎しよう。だが、その一歩が僕たちに届いたらの話だがね」
「えっ……?」
突然の言葉に慎二の目が見開かれ、心臓が一瞬だけ止まったような気がした。遠藤の声にはさっきの軽妙さとはまったく違う冷たい響きが含まれていて、まるで冗談ではないことを暗示するかのようだった。慎二が戸惑いながら遠藤の顔を見つめ返すと、彼は何事もなかったかのように穏やかな笑顔に戻っていた。その様子に、慎二はますます言葉を失い、奇妙な寒気が背筋を走るのを感じた。
慎二は一瞬立ち尽くし、遠藤の背中を見送ることしかできなかった。さっきまでの笑顔とは違う、あの不気味な囁きが耳にこびりついて離れない。
「……遠藤、一体なにを知ってる?」
ぼそりとつぶやきながら、慎二は不安を拭いきれないまま、遠藤を含む友人たちの背中を追って講義棟へと向かう。秋の冷たい風が吹き抜け、慎二は身震いしながら急ぎ足でその場を離れる。冷静に考えれば、ただのいたずらや冗談かもしれない。けれど、遠藤のあの目つきと言葉が、慎二の中に小さな恐怖を残していた。気持ちを無理に切り替えるように、慎二は講義棟のドアをくぐり、友人たちに続いて足を踏み入れた。
三限目は一也たちと一緒に受けたが、遠藤の不気味な囁きが頭から離れず、慎二は講義に集中できなかった。遠藤の『僕たちの手紙』という言葉、そしてあの視線の鋭さが脳裏に残り、ぼんやりとその意味を考えていた。遠藤の普段の冗談とは違う、まるで別人のような真剣さだった。何か重要な意味が込められていたのか、それともただの気まぐれなのか——そうした思いが巡り、講義内容はほとんど耳に入ってこなかった。
三限目が終わると、一也たちは次の授業がないため講義棟を後にし、慎二は一人で四限目の講義に向かった。だが、四限目も同様に集中できず、ただひたすら遠藤の言葉が頭の中を駆け巡る。教室の時計の針が進むたびに、次第に自分がどこにいるのかさえ曖昧に感じるほど、遠藤の言葉に心が囚われていた。
授業が終わり、ようやくその空間から解放された慎二は、気分転換を求めるように教室を後にし、スクールバスに乗り込んだ。バスの窓から外を見ると、秋の夕日が沈み、街並みが少しずつ薄暗く染まり始めていた。最寄り駅に着く頃には、空はすっかり夜の帳に包まれていた。
駅近くのスーパーに立ち寄り、夕食用のお惣菜と、冷凍食品をいくつかカゴに入れる。店内には平日の夕方特有の賑わいがあり、どこかホッとする一方で、自分だけが別の現実にいるような感覚も拭えない。買い物を済ませ、家に帰る頃には街灯がアスファルトを淡く照らし、夜の静けさが周囲に広がっていた。
♢♢♢
慎二は自宅へと続く夜道を歩きながら、遠藤の奇妙な言葉を頭から振り払おうと、いつものようにARグラスを通してネットサーフィンに没頭していた。視界にはSNSやニュースサイトの最新情報が次々と浮かび上がり、心を落ち着けるために無意識にそれらをスクロールしていた。
話題の中心はやはりNASAの『火星移住プロジェクト』のニュースだった。昨日の当選発表以来、SNSのトレンドは火星の話題で持ちきりで、喜びや落胆、さまざまな人々の感想が投稿されている。慎二は最新の情報を追いながらも、自分がこのプロジェクトの一員になるかもしれないという現実が、遠い夢のように感じられていた。
「こんなことを考えられるのも、普段通りの生活があるからだよな……」
少し気持ちが軽くなり、慎二は手に持つ冷凍食品の袋の重さを確かめるように握り直しながら、のんびりと秋の冷たい夜風を感じていた。しかし、ふと鼻にかすかな鉄の匂いが漂ってきた。その匂いがじわじわと濃くなるにつれ、慎二の胸の奥に小さな不安が広がっていく。
「……何だ、この匂い?」
慎二は一瞬立ち止まり、ARグラスの表示を消して周囲を見渡した。周りは見慣れた街並みのはずだが、いつもと違う異様な静けさが夜の空気を重くしている。心臓が早鐘を打つように脈打ち、足が地面に吸い付くように動かなくなる。
慎二の視線が前方の歩道に向かうと、数メートル先、街灯の淡い光に照らされた影が浮かび上がった。冷たいアスファルトの上に、仰向けに倒れた人影。その頭部は不自然に歪み、赤黒い血がじわりと広がり、あたり一面に染み出していた。
「う、嘘……」
慎二の手から冷凍食品の袋が滑り落ち、アスファルトに鈍い音を立てて散らばった。驚愕と恐怖が全身を貫き、一瞬その場に釘付けになる。冷や汗が頬を伝い、心臓が激しく脈打つのがはっきりと感じられた。目の前の光景が信じられず、息をするのさえ忘れるほどの衝撃に、慎二は言葉を失った。
「――――――ッ!!」
声にならない声が喉を震わせた。目の前に横たわる遺体の頭部には大きな銃創があり、鮮血が周囲に飛び散っている。見開かれた目は、何かを叫びながら命を奪われた瞬間の恐怖が固定されているようで、半開きの口には絶望の表情が残っていた。体は無理に捻じれ、片腕が無造作に伸びたまま、服は乱れて血で赤黒く染まっている。息を詰めながらその姿を見つめる慎二の胸に、静かなはずの夜が重苦しいものへと変わっていく感覚が押し寄せていた。
「一体……ここで何が……!?」
慎二は自分でも気づかないほどのかすれた声で呟いた。辺りを見回すが、通りには他に人影もなく、遠くの車の音すら聞こえないほどの静寂に包まれていた。その静まり返った夜の空気が、目の前の現実をさらに冷たく際立たせているように思えた。
慎二は震える手でARグラスの通信モードを起動し、警察に通報しようとしたが、焦りのあまり操作がうまくいかない。胸の奥で何かが詰まり、深呼吸をしようにも息が浅くなるばかりだ。なんとか手を落ち着かせて操作を進め、ようやく緊急通報ボタンに指が触れた。
通報を終えると、慎二は再び視線を遺体に向けた。視線を逸らしたいのに、どうしても目が離せない。あまりに現実離れした光景に、胃がひっくり返るような吐き気が込み上げてきた。これは映画やニュースの中の出来事ではなく、自分が目の当たりにしている現実なのだという認識が、じわじわと慎二の意識に浸透していく。
震えが全身を駆け巡り、冷たい夜風が肌に刺さるように感じられる。慎二は自然と腕を組み、体を抱きしめるようにしながら、その場で立ち尽くしていた。目の前の異様な光景から逃れたい気持ちと、引き寄せられるように何かを確かめたい気持ちが入り交じっている。
ふと、地面に広がる血だまりの中に、不規則な模様のような文字が浮かんでいることに気づいた。慎二の心臓は激しく鼓動し、恐怖で体が震える中、一歩、また一歩と恐る恐るその文字に近づいていった。足元の血に触れないよう注意を払いながら慎重に進むと、かすかにその文字の輪郭が見える。まるでアルファベットのくずし字のようにも見えるが、読めるようなものではない。
「……これは、もしかして……あの画像にあった文字……?」
慎二は息を詰めて身をかがめ、文字をもっとよく見ようとした。手が小刻みに震え、恐怖と興味が交錯する中、慎二は手を文字の上にかざし、じっとその形を見つめる。林山から見せられたあの奇妙な画像の中の文字――そうだ、これはあの時の画像にあった文字に似ている。
なぜここに、この殺人現場に、同じような文字が刻まれているのか。慎二の頭は混乱し、必死に状況を理解しようとするが、答えは見つからない。ただ、朧げに浮かぶ考えが一つあった。
「……この人は、この文字で何かを伝えようとしたのか?」
慎二はその文字をじっと見つめ考え込んだが、意味を理解することはできなかった。冷や汗が背中を伝い、心臓の鼓動がますます早くなる。不安と恐怖が再び彼を包み込み、この場を離れたいという衝動がこみ上げてくる。
遠くからかすかに聞こえていたサイレンの音が、徐々に大きくなり慎二の耳に迫ってくる。それが現実のものだと理解した瞬間、慎二はハッとして体を起こし、遺体から少し距離を取って、近くの路地に移動して待つことにした。やがてパトカーが到着し、青白いライトが辺りを照らし始めると、警察官が手際よく現場を封鎖し、慎二の方へ近づいてきた。
緊張に飲み込まれながらも、慎二は現場にいた警察官に発見した状況を説明し始める。話している間も、頭の中はまだ混乱しており、何度も目の前にあの恐ろしい光景が蘇ってくる。
「――ということで、見つけたときにはもう…すぐに通報しました」
慎二が一連の経緯を説明すると、数人の警察官がメモを取りながら彼の話を丁寧に聞いてくれた。警察の一人が慎二に優しい声で話しかける。
「なるほど……ありがとうね、教えてくれて。いくつか質問があるんだけど、大丈夫かな?」
「はい、もちろんです」
「ありがとう。じゃあ、まず最初に――」
慎二は事件に遭遇した衝撃でぼんやりとした頭をなんとか働かせ、警察の質問にひとつずつ答えていく。しかし、次第に緊張と疲労から顔色が悪くなり、体調が悪化しているのを警察官も察したのか、質問を一旦切り上げることになった。
「今日はこれで大丈夫。ごめんね、協力してもらって。明日の朝イチにもう少しだけお話を伺いたいんだけど、警察署に来れるかな? もちろん、無理はしなくていいから、体調が悪いときは休んでもらってかまわないよ」
「はい、ありがとうございます」
慎二は深くお辞儀をし、その場を後にした。振り返ると、警察官たちは周囲で聞き込みを行ったり、現場の写真を慎重に撮影したりして、事件の詳細を調査している。その姿を背にし、慎二はまだ激しく鼓動する心臓を感じながら、急いで自宅へ向かった。
冷たい夜風が容赦なく頬を刺すたびに、慎二の背中にはじっとりと冷や汗が滲んでいた。頭の中では、あの血の池に沈むように倒れた死体の光景が何度もフラッシュバックし、恐怖がじわじわと心の奥深くまで染み渡っていく。深呼吸をして気持ちを落ち着けようとするが、背筋に張り付いた不気味な寒気は一向に消えない。まるでその恐ろしい記憶が心に爪を立てて離れないかのようだった。
ようやく自宅のドアを開けた瞬間、慎二は小さな安心感を覚えるが、胸の奥にはまだ動揺が残っていた。キッチンに向かい、水を一杯飲んで喉を潤した後、バスルームで顔を洗い、鏡に映る自分の顔をじっと見つめる。そこには青白くこわばった表情が映り、今日の異常な出来事の余韻がまだ慎二の中に根付いていることを物語っていた。
「夢ならよかったんだけど……」
冷えた手で顔を押さえ、少しの間そのまま動かずに立っていた慎二は、ようやく体を動かし、ベッドに向かう。今日のことを頭から追い出すようにゆっくりと息を吐き、疲れた体をベッドに沈み込ませた。
「明日になれば……少しは気持ちも落ち着いていれば……」
そう呟きながら、慎二の意識は徐々に遠のいていく。今日の恐怖が再び夢となって追いかけてくるかもしれない不安がよぎるが、体の限界に抗うことはできず、静かに眠りの中へと引き込まれていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます