⑭入学試験の日の記憶

 あれは魔法学園ララスフィアの入学試験の日だった。

 コトル自治区出身の人狼の少女リズは、一族の期待を背負って試験を受けていた。

 十年に一度の魔法の才を持つ――そんなふうに言われ、最新の知識と技術を身につけることを望まれて。ゆくゆくは人狼の一族を背負って立つことを期待されて。


(気持ち悪い……)


 何とか午前の試験を乗り切ったリズはトイレに駆け込んで、洗面台でうずくまった。

 顔は狼のそれに変貌し、頭からは耳が生えている。

 腕からは赤い毛が生え、鋭い犬歯が覗いている。

 予期せず人から狼の姿へ変化しそうになっていた。

 大きなプレッシャーに押しつぶされそうになっていたのと、満月の翌日だったのもよくなかった。そして狼の姿を見られてはいけないという緊張感もあった。


(いけない。早く戻さなきゃ……)


 人狼は差別の対象だから。

 入学することになれば六年も在学することになる。その間ずっと蔑まれたり笑いものにされたりするのは嫌だった。だからリズは人狼であることを隠すつもりだった。

 なのに――


「きゃっ、あなた何よそれ!」


 トイレに女の子の悲鳴が響いた。


「あなた人狼!? 気持ち悪いわね!」


 リズは女の子の言葉を無視してトイレを出ていこうとした。けれど、彼女の横を通り過ぎようとしたとき、彼女の周りにいた取り巻きの子たちの一人に足を引っかけられて転んでしまった。くすくすと笑い声が響く。


「ちょっと、クレアさんを無視してどこに行くつもりよ」

「あなたたちに関係ないでしょ」


 リズはくぐもった声で言い、起き上がろうとした。


「あるわ。獣が由緒ある学園に入ろうとするなんて、考えただけで吐き気がするの!」


 クレアはそう言って洗面台にあった花瓶を取って、その中の水をリズにかけた。


「試験を辞退しなさい」


 リズは歯噛みした。自然と喉の奥からうなり声が出た。


「あら、野蛮ね。やっぱりこの学園にはふさわしくないわ」


 普段であればクレアなんか押しのけてその場を去っていただろう。けれど、そのときは狼化を抑えるので必死で、思うように動けなかった。さらに想像以上の仕打ちに頭が真っ白になっていた。


「ちょっと、あなた縄を持ってきてくれない? 犬は犬らしく、首輪を付けて縛っておきましょう」


 クレアがそんなふうに取り巻きの子に言った。

「いい考えですね」「さすがクレアさん」なんて笑い混じりの声が聞こえてくる。

 リズは怒りに震えた。

 もう狼化を抑えるのを止めてしまおうか。

 そうすれば楽になるし、こんな奴ら、簡単に蹴散らせる。

 でもそんなことをしたら、これから六年間、自分は白い目で見られることになるかもしれない。いや、そもそも暴力沙汰なんて起こしたら入学できなくなるかもしれない。故郷のみんなの期待を背負ってるのに……。

 そのときだった。


「ちょっと、何してるの!?」


 女の子の声が響いた。

 あまり見慣れない黒髪の子が、目を丸くしてトイレの入り口に立っていた。

 その子はクレアと取り巻きの子たちを押しのけてリズのところまで駆け寄ってくる。

 そして、狼化したリズの顔を見てはっと息を呑む。

 リズは思わず顔を逸らした。けれど、


「びしょびしょじゃない! 大丈夫!?」


 かけられた言葉は思っていたのと違って、リズを心配するものだった。

 その子はハンカチを取り出して、水に濡れたリズの頭を拭き始める。

 必死になって自分を拭うその子の顔を、リズは呆然と見つめた。


「うわ、獣に触ってるわ~!」

「気持ち悪~い」

「きったなーい」


 馬鹿にする声が響いて、リズを拭いていた女の子はクレアたちを睨んだ。

 しかしすぐに視線を戻してリズの獣毛の生えた手を取る。


「行こう。先生に言って替えの服とかもらおう」

「う、うん」


 リズは混乱したまま彼女の手に引かれて立ち上がった。


「お待ちなさい」


 クレアがリズの手を引く女の子に声をかける。


「あなた、そんな汚らわしい狼になんて関わったら学園のみんなから避けられるわよ?」

「みんなって、あなたたちのこと?」

「ええ。私の親はラース共和国の有力者だから、私と友達になればいい目が見れるわよ」


 女の子はしばらく黙ってクレアを見つめてから首を振った。


「大勢で寄ってたかって一人をいじめる卑怯者と友達になんかなりたくない」

「な……」クレアの顔が怒りに歪む。

 女の子はリズを見て「行こう」と手を引いた。


「後悔するわよ」


 そんなクレアの言葉が虚しく響いた。

 その後、女の子はリズを養護教諭に任せて笑顔で「またね」と去っていった。

 リズは知っている。クレアに言い返したとき、彼女の手が震えていたことを。

 よく知らない場所で、大勢に立ち向かって、彼女も怖かったに違いない。

 それでも彼女は――咲良はリズの手を離さなかった。

 あのときの咲良の手の温かさを、リズはきっと生涯忘れない。

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