⑬赤い狼

「咲良来てない!?」


 リズは息を切らして工房に飛び込んだ。

 中で大きな紙を広げて発表資料を作っていたアルが顔を上げる。


「咲良? 体調が悪くて部屋で寝てるんじゃなかったの?」


 アルの怪訝そうな表情を見てリズは青ざめた。


「部屋にいなかったの! トイレも談話室も探した! いそうなところはぜんぶ!」


 リズは咲良の様子を見に行ったのだが、彼女のベッドはもぬけの殻だった。


「鞄も制服もなかった。魔杖まで! 咲良、行ったのよ!」

「行ったって、どこに……?」

「この状況で咲良がすることなんて一つしかないでしょ! あの子……ホルホルの蔦を取りにいったのよ!」

「ホルホルの蔦を? 独りで? どうしてそんな……」

「どうして分かんないの!? あの子、自分のせいだと思ってるのよ! それで独りで何とかしようとして……っ!」


 リズの言葉にアルは目を見開く。


「だけど、照明が壊れたのは咲良のせいじゃ……」

「そうよ、咲良のせいじゃない! でも咲良はそういうの背負い込むタイプでしょ!」


 リズは両手で顔を覆った。


「ああ、私どうしてもっと早く気付かなかったんだろ。咲良ならそうしてもおかしくないって分かってたはずなのに……! どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう! 独りでホルホルの蔦を取りに行くなんて……!」


 リズの故郷では数年に一度はホルホルの蔦に襲われて大けがを負ったり、死んでしまう者がいた。特に厄介なのはホルホルの蔦を利用して狩りをするコルクスという魔物だ。奴らはずる賢く、自分たちは危険を冒すことなく獲物をホルホルの蔦の縄張りに追い込む。


「落ち着いた方がいい」


 アルがリズの肩に手を置く。


「落ち着いてられないわよ! だってもう夕方なのよ。咲良に何かあったら……っ!」

「まだ何かあるって決まったわけじゃない。もう採集し終わってこっちに帰るところかもしれない」

「でも……!」

「リズ」とアルが落ち着いた声で言う。「最悪の事態を想定するのは悪くないと思う。でも焦るのは悪手だ。想定できる最悪に対して、僕たちのできる最善の行動を取ろう」


 その冷静な声音にリズの頭が少しだけ冷えた。


「最善の、行動……」


 リズは焦る気持ちを必死で抑え、じっと考える。

 そして一つの結論に辿り着いた。


「私が森に行って咲良を助ける」


 その宣言にアルが目を見開く。


「何を言ってるんだ。リズが行ったって……」

「これが最善よ。アルはララ校長に報告して、それから照明に必要な他の材料を集めて、念のため資料作りも続けて」

「い、いや、今はそんなことしてる場合じゃ――」


 そのとき、リズの顔の変化を目の当たりにして、アルはあっと息を呑んだ。

 いつの間にか彼女の頭には尖った耳が現れ、口元に鋭い犬歯が覗いていた。


「リズ……君は……そうか、君はコトル自治区のあの一族の出身なのか」


 アルは数秒黙って考えて、小さく頷いた。


「……それなら、確かに君が森に向かうのが最善だ。でも、くれぐれも気をつけて」

「分かってる。必ず咲良を助けて帰ってくるから」


 リズは頷き、工房の中を突っ切っていき窓を開け放った。

 窓枠に足をかける。


「リ、リズ、ここは三階――」

「問題ないわ」


 眩しい西日に目を細めながら、リズは跳躍した。

 膝で衝撃を吸収し、芝生の上に静かに着地する。

 目を瞑り、大きく息をする。

 鼻腔に入ってくる空気の中に、ほんのわずかな咲良の痕跡を感じて目を開いた。

 周囲には何事かと驚く学園の生徒たちがいた。

 リズはそんな彼らに目もくれず、身体の内に秘めた本能を呼び起こす。

 全身が熱を帯びていく。

 肉体に活力が満ち、感覚が研ぎ澄まされていく。

 一秒にも満たない時間の後、そこには体長二メートルに達する巨大な狼がいた。

 ルビーのように赤い瞳と毛皮は、夕日の中で燃えるようだった。


「ひっ」


 近くで誰かの悲鳴が聞こえたが、気にならない。先ほど捉えたわずかな痕跡を逃さないことだけに集中する。

 狼に変容したリズは、その四肢で大地を蹴った。

 あっという間に学園の敷地の外に出る。


(咲良、今行くから)


 リズは広大な草原を疾走した。

 それはまるで赤い風が草の上を吹き抜けるかのような光景だった。


(今度は私が助ける番よ)

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