第24話
「また、明日も来るからね」
母親は、明るく振舞った声で、父親と一緒に病室から出ていく。今年は年末にも帰っていなかったので、約一年以上ぶりに両親と会った。試合は、背後から来た相手に危険なタックルを受けて、その場で医療スタッフの続行不可の判断が下りた。すぐさま担架で運ばれ、救急車に乗り、協会の懇意にしている大学病院に移った。検査は思いのほか、短い時間で終わった。そして、両膝前十字靱帯断裂と宣告された。入れ替わりで医師や協会スタッフ、代理人。そして、試合を観戦しに来ていたチームスタッフや両親が病室を訪れてくれた。ただ、早く皆帰ってくれ。その気持ちが心を満たしていた。ようやく病室に人が居なくなったのは、日を跨いで数時間経った頃だった。病院の患者は寝静まっている。自分の病室の電気を消してから、数分経つと、病室の出入り口の扉がノックされた。どうぞ、と告げると、待ち人が入ってきた。
「夜分にすみません」
岡さんは、最初に会った時と同じスーツを着ている。相変わらず、ウェーブがかった長髪が、肩まで綺麗に下りている。
「大丈夫です。待ってました。ここに座ってください」
ベッドの隣に置かれていた丸椅子に視線をやる。岡さんは指示された場所に、ゆっくりと座った。何から話せばいいのか分からない。聞いたところで、岡さんは答えてくれるのか分からない。自分は考えがまとまらず、岡さんも話し出さないので、目も合わせることなく、ただ時間が流れた。このままでは埒が明かない。そう思い、一番気になっていることから質問してみることにした。
「零時を過ぎても眠くならない。元の時間にも、戻った気配はない。これは、今回のやり直しは、成功したってことですか」
「はい。そうです。本当に、お疲れさまでした」
岡さんは、落ち着いた表情と声色で返事をしてくる。
「岡さんの悲願は、叶いましたか」
「これからです。ただ、かなりの確率で達成できる、と予想しています」
岡さんの悲願が達成できる、らしい。そして、この数時間、自分の中で巡っていたある予想が、現実味を帯びてきていることを実感する。まだ予想だ。ここで口に出してしまったら、予想ではなくなる。現実になる。だから、聞きたくない。でも、目から零れだした涙が止められないように、岡さんの真意を知りたいという欲求が、走り出している。
「池江の代わりに...。俺が怪我をする。それが、やり直しの本当のゴール。岡さんは...。それを望んでたんですか...」
「はい。私は、池江選手の怪我を回避した、先の未来に到達したいのです」
「なぜ...。俺なんですか...」
「以前にも言いましたよ。この状況に到達できる可能性があったのが、望月さん。貴方だったんです」
「ここまで、勝手に巻き込んで、頑張らせて。結果、自分の願いが叶ったら、捨てるのか」
「望月さんに非難されることは、当然だと思います。どれほど恨まれても良い、と思っています。私の身勝手な願いに、望月さんを利用した。それは事実です。ただ、また頑張れば、怪我は治ります」
「池江は治らなかったんだろ!」
岡さんの言い分を聞いて、一気に感情が沸騰した。咄嗟に、身近にあったペットボトルを岡さんに向かって投げる。ペットボトルのふたは、完全に閉まっていなかったらしい。床にペットボトルが落ちると、中の水が飛び散った。
「元の時間で、池江はプロとして成功していない。なんで忘れていたのか、分からねぇけど、思い出した。この怪我だけじゃない...」
自分とは対照的に、岡さんは冷静な様子で床を拭き始めた。
「この怪我を直すのに、約一年かかる。その後、復帰したと思ったら、あと二回。連続して、靱帯と半月板を怪我する。そして、池江はまだ二十四か五で、現役を引退した。確か、引退を決断した理由は、うつ病だった。違うか?そうだろ」
岡さんはこちらに、顔を向けようともしない。
「やり直しで起こる出来事は、ほとんどは繰り返されている。池江じゃなくて、俺が怪我をした。人が違っても、出来事は再現される。それを俺が証明した。つまり...。このあとどれだけ俺が頑張っても、池江と同じ未来が再現される...」
言葉にならない嗚咽が、口から出る。開いた口に、涙と鼻水が混ざった液体が流れ込み、妙に塩気を感じる。自分のこれまでの努力は、自分が輝くためではなかった。人の代わりに、犠牲になるために、やっていたものだった。手で顔を覆う。ベッドの横で、岡さんが動くのを感じる。そして、岡さんは消えずに、病室の扉から出て行った。
チームスタッフも、代理人も、自分の憔悴しきった様子を見て判断したのかもしれない。彼らからの提案で、かれこれ二週間病院に引きこもっている。本当に手術はしないのか。何度も、医師や代理人に確認された。保存療法では、日常生活には戻れるけれども、選手として復帰するのはかなり難しいとも話して貰えた。それでもしない。直すから、もう一度怪我をする。復帰するから、離脱をする。未来に絶望が待っているのであれば、最初から希望を抱かない。そう決めた。
「ほら。文哉、ここの肉まん好きでしょ。わざわざお父さん、新幹線で大阪まで行って買ってきたのよ。呆れるでしょ」
母親は湯気が出ている肉まんをお皿に乗せて、机に置く。いくら一人部屋の病室といえども、こんなに匂いがするものを持ち込んで良いのかと心配になる。母親の隣に座っている父親は、自分のために買ってきたというのに、既に半分ほど食べきっている。味変のために醤油をかけたいという父親に、母親が塩分の取りすぎと怒る。二人とも、自分が落ち込みすぎないように、ほぼ毎日、笑顔で会いに来てくれている。そんな二人を見ると、頑張りたくない、という言葉をを口に出すのが憚られる。でも、いつかは言わなくてはいけない。
夕方になり二人が帰ると、病室には物音がしなくなる。部屋には秋の夕日が差し込んでいる。暖かいオレンジ色の中に、どこか寂しげな漆黒の影ができる。トイレに行こうと、ベッド横の松葉づえを掴む。病院からは、動く際は遠慮なく呼んでも良い、と言われている。しかし、面倒という感情が勝る。面白いことに、慎重に動けば、痛みも膝崩れも我慢できる。しかし、用を足し、ベッドに戻ろうとしたところで、右足に重心をかけすぎて、その場で崩れてしまった。トイレの天井が見える。なんてことは無い。なんてことはないはずなのに、体が自由に動かせないことに、発作的に悲しみが込み上げてきた。涙と、そして無性に大声を出したくなる。
「望月さん、今大きな音聞こえましたけど、大丈夫ですか?」
病室の出入り口の扉から、男性の声がする。扉を開けて、看護師が入ってくる。すぐにトイレで自分が倒れているのを見つけて、駆け寄ってきてくれる。
「来るなよ!あっち行けよ」
言っても仕方ないことは分かっている。でも倒れている姿を見られるのは、恥ずかしい。看護師が患者が倒れているのに、見過ごせるはずが無い。看護師は体を起こそうとしてくれる。しかし、それに抵抗するように、体を丸めて芋虫のような形を続ける。今の方が、よっぽど恥ずかしい姿である。自分でも何がしたいのか。なぜこんなに悲しいのか分からない。ただただ、反抗を続ける。大きい声を出していたからか、続けて数人が部屋に入ってくる物音を感じた。さっさと、起き上がりベッドに戻れば良い。そんな簡単なことなのに、心が落ち着いてくれない。すると、懐かしく、全てを包み込むような優しい声が耳に入ってきた。
「望月さん。大丈夫ですよ。落ち着いてください」
顔を上げる。涙で視界がぼやけているが、声のする方を見る。そこには、美穂がいた。美穂は目が合うと、にっこりと笑顔を作ってくれた。
「望月さん。一度、体を起こしましょう」
自分の体を起こそうとしてくれた看護師が離れ、代わりに美穂がしゃがみ、体を支えようとしてくれる。美穂の手が、自分の手に触れる。紛れもない、美穂の手だ。言われたとおりに、体を起こす。
「ありがとうございます。じゃあ、ベッドの方に移動しましょう」
「美穂...」
美穂が仕事をしようとするのを遮って、手を握り続ける。知らない男性から名前を呼ばれたら、普通は動揺の一つでもするはずである。しかし美穂は、穏やかな様子で目を合わせてくれた。
「俺、ずっと、ずっと頑張ってきたんだよ」
「うん」
「俺、ずっと...」
すると美穂は、床に膝をつけて、自分を抱きしめてくれた。
「俺、ずっと...。美穂に会いたかったよ」
とんでもなく情けない告白と泣き声が、病室内に響いた。
次回、最終回
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