第23話

 試合前のウォーミングアップを終えて、ロッカールームに戻る。自分に割り当てられたロッカーには、真新しい青いユニフォームがハンガーに掛かっている。背中に「MOCHIZUKI」とプリントされている。改めて見ると独特なフォントだと思い、指でなぞってみた。すると、隣のロッカーに池江が座る。初めてのことに浮かれていると思われたくなかったので、自分もゆっくりと座る。そして、スパイクが少し汚れてることに気づき、タオルで軽く拭く。

 「オレンジのスパイクに、ピンクの靴ひもってどうなの。それオシャレでやっている?」

 自分から見て、池江と反対側の隣のロッカーに座っている八代やしろさんが、足元を覗いてくる。

 「流石に、オシャレではやってないっすよ」

 「違うのかよ。願掛け?」

 「願掛けっすね。J2のデビュー戦の時に、試合前に元々の靴ひもが切れて。代わりに、スタッフの人に用意してもらったのが、ピンク色だったんですよ。結果、その試合で活躍できたので。スパイクを変えても、靴ひもだけはピンクにしてます」

 「だったら、全体的にピンク色でも違和感ないカラーリングにしてもらえよ」

 「俺、まだどこともスパイク契約してないんですよ」

 「まじで。そんなことあるの。じゃあ、俺の担当さんに話しておいてやるよ」

 「あざっす」

 八代さんの足元には、八代さん専用のスパイクが輝いている。確か、日本代表の個人スパイクの中では、一番売れているモデルと聞いたことがある。日本代表に長年選ばれていて、イングランドでプレーしているスター選手は違うな、と感心したことを思い出した。密かな野望として、メーカーと契約して自分のモデルを出してもらう。そんなことを自分でも考えている。

 「緊張はどう?」

 八代さんは、試合前にもかかわらず、リラックスした様子で聞いてくる。

 「そこそこしてますね。八代さんは、どこで試合のスイッチ入れるんですか」

 「俺はフィールドに出た瞬間かな。そこで、バチ!って入るタイプ。望月は?」

 「俺は、結構早めからスイッチ入れて、徐々に上げてくタイプですね」

 「そのタイプ、いつも思うけど、疲れない?」

 「多少疲れますよ」

 「まぁ、人それぞれだから、とやかくは言わないけど。力入りすぎて、空回りだけは気をつけろよ」

 「うい」

 「池江も何かアドバイスしてやれよ。同級生だろ。自分が代表デビューの時はどうだったとか、こうやって緊張解いたとか」

 ゼッケンを着て、どこか行こうとしている池江を八代さんが呼び止める。池江は、表情一つ変えずに、こちらを振り返る。何か考えているのか、無言のまま少し上を向く。

 「そうですね...。まぁ、親善試合だから、望月を試す。それ以上でも、以下でも無いかな。公式戦だったら、スタメンは俺が選ばれていた思う」

 そう言い残して、池江は部屋から出て行った。八代さん含めて、周りにいた先輩方が池江を呆れたように見ている。

 「本当に、お前らって仲良くないんだな」

 「そうですか、仲良しですよ。中高、ポジションも一緒で。プロになってからも代表で一緒。きっと、来年あたり、俺もスペイン行くんじゃないですか」

 「まじでそうなったら、ウケるな」

 あえてボケをかましたことで、自分の周りの空気が柔らかくなる。

 「俺、最後にトイレ行ってきます」

 「おう。すぐ戻って来いよ」

 


 部屋を出てトイレに向かうと、案の定、廊下には岡さんが立っていた。

 「お疲れ様です」

 「望月さんも、お疲れ様です」

 お互いに目を合わせ、そして笑顔になる。

 「遂にここまで来てくれましたね」

 「いやー。本当にここまで来てしまいましたよ。まじで、会見で名前呼ばれた時に、大声で叫びましたもん」

 「おめでとうございます」

 「ありがとうございます」

 「しかし、私の記憶の望月さんからしてみると、体がだいぶ大きいですね」

 「そうなんですよ。今回、身長いつもより、5㎝も伸びてるんです」

 大人の姿で岡さんと話す際は、いつも目線は並行だった。しかし、今はスパイクの高さも加味されているので、岡さんを少し見下ろす形になっている。

 「どうですか。そのユニフォームの着心地は」

 「最っ、高ですね。もう緊張よりも、興奮の方がずっと勝ってます」

 子供のように体を一回転して、岡さんに名前入りのユニフォームを見せる。

 「良かったです」

 「あの、今回のやり直しは成功だと思って良いですか」

 改めて、成功条件を満たしているか、岡さんに問いただす。ここで、新たな条件なんか出てきたら、堪ったもんじゃない。

 「そうですね。大体は、成功だと思います」

 「大体って怖いんですけど」

 「だってまだ、試合に出られていないじゃないですか。私の願いは、この試合にボランチでスタメン出場して下さい、ですよ」

 「そっか。ここにきて、ハットトリックしてください、とかは無いですよね?」

 「ありませんよ」

 岡さんは、軽く噴き出すように笑う。

 「大丈夫です。試合に出場していただければ、自ずと私の想定通りになると思います」

 「想定って。そういえば、悲願って何か教えてくださいよ」

 「焦らないでください。試合が終わったら、教えますから」

 「絶対ですよ」

 「絶対です」

 すると、岡さんは自分に抱擁をしてきた。確か以前、岡さんは男性に抱擁される趣味は無い、と言っていたはずである。

 「どうしたんですか。岡さんらしくない」

 「ここまで本当にお疲れさまでした。望月さんのこれからに、幸運が訪れるよう、私は願っています」

 岡さんは腕の力を抜く。体が離れ、岡さんの顔を覗くと、涙目になっている。あの岡さんが泣く。それだけ、喜んで貰えているのだろう。岡さんの悲願は相変わらず分からない。でも、他人をこんな意味不明な状況に追いやるだけのことをしているので、それだけ叶えたい事なのだろう。それが、もうすぐ達成する。そう考えたら、涙が一つや二つ出るのは、不思議ではない。岡さんに優しく肩を叩かれる。

 「それではまた後で」

 目の前から、岡さんが消えた。



 入場口で、スタメンの選手が一列に並ぶ。ルーキーは一番後ろの方が目立つから良い、と八代さんに言われ。その通りに、最後尾に並ぶ。国立競技場にFIFA AMTHEMが流れる。その音を聞いた瞬間に、鳥肌が立った。そして、列が前に進み、明るく照らされた鮮やかな緑色のフィールドに出ていく。多くのカメラマンがシャッターを押す音。観客の声援。そして、国歌斉唱。これまでも、世代別で何度も同じ場面に立ち会っている。それでも、今この瞬間は特別だった。やっと、やっと。このやり直しの終わりに到達する。ここまでくるのに、延べ五十年もかかってしまった。その五十年の努力の結果が、今この場で、誇りを持って立っていることに繋がっている。泣きそうになるが、決して泣かない。まだ、自分の人生はこれからだ。そう自然と思えた。



 主審の笛で試合が始まる。一度、中盤に下がったボールが自分の足元に来る。顔を上げると、快速FWが前線で手を上げている。勢いよく走りだす瞬間を感じ、ボールを前線に飛ばした。

 試合は、序盤から日本がボールを支配する。何度も自分の元にボールが来ては、相手の守備陣を崩せないかと運びと散らしを繰り返す。試合開始十分を過ぎたところ、目の前に好機が転がり込んできた。左サイドでのドリブル突破が上手く行かず、攻撃の組み立て直しのために、中央右寄りにいた自分にボールが来る。相手FWのプレッシングは無い。相手の守備陣形も左に寄ったまま。必然的に、ペナルティエリア前のスペースが空く。一歩、二歩とドリブルで持ち上がる。相手が急いで寄ってきた時には、更に右の外のスペースに八代さんが駆け上がっており、そこにパスを出す。八代さんはダイレクトで、低く速いクロスを入れる。相手CBとGKの絶妙な間を通り、ファーにいるFWの選手が左足ワンタッチで、ボールをゴールに流した。国立競技場は興奮の渦に巻き込まれた。多くの選手がゴールを決めたFWを祝福しに向かう。一方、八代さんは真っ先に自分の元に走ってきてくれた。

 「願掛け、効果あるな。冷静に、よく俺の上がり感じてくれた!」

 そして、一緒に肩を組み、ゴールを祝福する。

 ボールがフィールド中央に戻され、主審の笛で試合が再開される。キャプテンマークを巻く選手から、落ち着いて前半のうちにもう一点加えよう、と指示が飛ぶ。再開してすぐに、相手はロングボールを放り込んで、こちら側に攻め入る。競り合いのこぼれ球が、目の前の相手選手に転がっていく。相手がボールをタッチする、僅かに足がボールと離れる瞬間を狙って、ボールを奪い取った。相手にユニフォームを引っ張られ、態勢を崩しそうにりながらも、右足で踏ん張り、仲間にパスする。再びこちらの攻撃のターン。攻撃的なワイドの選手が、右サイドで持ち上がる。相手選手が三人マークに入ったので、急いでフォローに入る。流石に、一人でドリブル突破は出来なさそうと感じたのか、ボールが自分の元に戻ってくる。その時だった。



 「望月、後ろ!」

 八代さんの声が届いた。そして、死角になっていた左後方から、何かが突っ込んできた。ボールに触ろうとするが、足が動かない。がっちりと何かで固定されている。態勢を崩しながら後方を確認すると、相手チームの選手の体が見えた。同時に、相手の足が、自分の足に絡まっていることも確認する。ゆっくりと、顔から地面に落ちていく。そして、今の自分の状況を俯瞰して見ている映像が、不思議と頭の中を駆け巡った。よく見ると、倒れかけているのは、自分ではない。池江だった。そして、思い出した。これまでのやり直しで、何度も見たシーン。今の自分と同じように、池江が倒れていく場面を。

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