第20話
3月末。昨日、桜の開花宣言がなされた。寮の入口に植えられた桜も、満開になっている。田中は配られた寮の部屋割り表を見て、興奮していた。田中の名前は、301号室に書かれている。サッカー部のOBでもある兄から、301号室は出世部屋と聞いていた。実際に、同室となる二人の先輩は、ともにレギュラーを確保している。さらに、二年生の先輩は、ひっそりと田中が憧れている人物だった。
重いスーツケースを持って、三階まで上がる。301号室は、階段のすぐ隣にあった。緊張しつつ、扉を叩く。
「はーい。どうぞ入って」
扉の向こうから先輩の声がする。そして、ゆっくり扉を開ける。狭い部屋の中には、左右に二段ベッドが配置されている。中央の隙間を抜けると窓があり、その近くに学習机が3つ並んでいる。返事をしてくれた先輩は、入って右のベッドで寝ていた。
「いらっしゃい。俺、三年の斎藤。よろしく」
「よろしくお願いします。神奈川から来た田中です」
「まぁ、最初のうちは慣れなくて大変だと思うけど、頑張って。何か、困ったことがあれば言って。助けるから」
「はい、ありがとうございます」
「えっと、基本、一二年生は、部屋に入って左側のベッドと机。あと、クローゼットもそっち側を使う。それで、ベッドは下使って」
「はい。でも、俺一年ですけど、下使っても良いんですか」
「良いよ。望月は、上の方が好きだから。下だと、上の人が寝返りした時に、音が鳴るのが嫌なんだって」
「あの、望月さんは今どこに?」
「多分、トレーニング室か、グラウンドだろな」
「今日って、全体オフですよね」
「そうだよ」
「そんな日でも、練習しているんですか?」
「望月はするな」
斎藤は窓からグラウンドを見にいく。そして、どうやら誰もいなかったらしく、望月はトレーニング室だろうと言う。
「俺、この後、彼女とデートに行くから。まぁ好きにしておいて」
「はい。あの、部屋毎にルールあるって聞いているんですけど、何かありますか。例えば、先輩の分の洗濯物も、後輩がやるとか」
「あー。そういうのは、俺たちは無い。もしかして、兄弟いる?」
「はい、五つ上に兄が。一応、サッカー部の卒業生です」
「田中...田中...。大輔さん?それとも、優紀さん?」
「大輔です」
「大さんの弟か。俺、中学から居るから、知っているわ。確かに、大さんの世代は、まだそういうのあっただろうな。でも、大丈夫。俺と望月は、後輩をパシリにするの反対派だから」
「そうなんですね」
「ただ注意点としては、二つ。一つは、普通の日の就寝時間は二十一時」
「全体の就寝時間って、二十二時半ですよね?」
「そう。だけど、朝練の準備の為に、五時半に起きるから。睡眠時間を8時間程取ろうと思うと、二十一時には完全消灯」
「シャワーの時間どうすればいいですか。一年は二十二時からなんですけど」
「三年の時間に入っていいよ」
「いや、怖いっすよ」
「あはは、そりゃそっか。でも、望月と同部屋です、って言えば。先輩たちも仕方ないか…、って言ってくれるよ。本当に難しければ、俺と一緒に行こう」
「それで、通じるんですか」
「通じる」
斎藤は笑顔で、多分と付け加えた。
「あともう一つは、部活が出来なくなるようなことをしないこと。部活・寮のルールを破る。一般常識的なルールを破るなどなど」
「はい」
「特に、酒とタバコ。もし見たり、そういう話を聞いたら、すぐ俺に言うこと。そして、絶対に、田中は先輩や同級生から誘われてもするなよ。したら、望月にボコボコにされるぞ」
「そうなんですか」
「うん。あいつ、先輩たちが遊びで持っていた酒とタバコを、去年寮監督にチクってるから。その中に、プロからスカウトが来ていた人もいたけど、容赦無かった。笑えるだろ」
「あの、さっきから話を聞いて思ったんですけど。もしかして、望月先輩ってヤバいんですか。正直、そうイメージ無かったんですけど」
「ああ、望月は…。ある意味、病的だからな」
「病的って…」
「そのうち分かると思うけど。望月、病的な練習マシーンだから。とにかく、上手くなるために人生全振りしてる感じ。しっかりリカバリーしたいから、睡眠時間のために就寝時間を早めるのも、望月の希望だし。チームや寮部屋の連帯責任で、練習時間が削られるのを、めっちゃ嫌がる。だから、あいつが練習するのを邪魔しないようにだけ、気を付けて」
「斎藤先輩は、望月さんと仲良いんですか」
「仲は良いよ。上級生の中には毛嫌いしている奴らもいるけど、俺は尊敬している。誰よりも真剣に練習して、チームの勝利。プロになるって目標に真っすぐ向かっている感じ。あれは凄いよ」
田中は嬉しくなった。もしかしたら、プレーしている時と違い、普段は傍若無人なのかもしれないと心配していた。しかし、どうやらそれは杞憂だった。
「こんな感じでいいかな?彼女との待ち合わせ時間、遅れそうなんだけど」
「はい。大丈夫です。むしろ、丁寧に教えてくれて、ありがとうございました」
斎藤は田中の肩を優しく叩く。そして、せっかくなら仲良くしような、と言い部屋を出た。その後、田中は望月の帰りを、そわそわしながら待っていた。しかし、結局望月は、一度も部屋には帰ってこなかった。そして、田中が望月と初めて言葉を交わしたのは、寝る直前だった。
田中が高校に入学してから一か月。高校初めてのGWに、運よくオフの日が出来た。先輩たちは、各々遊びに出かけている。一年生も、皆でボーリングに行こうと話をしていた。しかし、田中は普段の疲れが残っていて、起きたのが十時過ぎだった。他の生徒も同様な状況だったため、遊びに行く話は白紙となった。食堂での朝ごはんの提供は終わっている。仕方なく、徒歩で二十分のところにあるコンビニで、サンドウィッチを買って帰ってきた。寮に入る際に、トレーニング室に望月が居るのが目に入った。そのまま、トレーニング室に向かうと望月が汗だくになりながら、筋トレをしている。
「お疲れ様です」
「お疲れ」望月は田中に気づくと、持ち上げていた重りを床に置こうとする。
「大丈夫です。続けてください。単に、見ていただけなんで」
「いや。俺も、一度休憩しようと思っていたところだから、大丈夫」
望月は、タオルで汗を拭く。そして、水と一緒に、スティックプロテインを一口で飲む。そして、こちら側を向いてストレッチを始める。
「今日何時から、トレーニング室いるんですか」
「七時半には、来たよ」
田中は部屋の時計を見る。時計は、十一時を少し回っている。
「相変わらず、トレーニング好きですね」田中は、気軽に言う。
「好きじゃないよ」
望月は田中の方を見る。望月の声は、怒っている訳では無いが、冗談を言っているようなトーンでも無い。
「でも、オフの日もこうやって。一人で黙々と、トレーニングしているじゃないですか」
「そうだけど。できるなら、トレーニングなんてやりたくない。俺、元々筋トレ嫌いなんだよね。興津は今日、彼女と映画見に行くって言ってたし。羨ましい」
「そうなんですか。知らなかった。望月先輩って、トレーニング好きで好きで仕方ないタイプだと思ってました。斎藤君も、マシーンって言ってるぐらいですし」
「本当に斎藤君も、適当なこと言うよね。誰が、マシーンだよ。これでも、毎日苦しいって思っていても、ギリギリで踏ん張って、やっているのに」
「そこまで、どうして自分を追い込めるんですか」
田中は、望月の眼光がより鋭くなったよう感じた。
「やらなくちゃいけないから、やってる。それをしないと、プロになって日本代表に選ばれない。だから、やる。単純だろ」
望月は、冗談を言うように、少し誇張した手振りを付けて話す。しかし、田中は望月が冗談を言っていないことを知っている。まだ、たった一か月しか一緒にいない。それでも、チームで誰よりも、望月がサッカーが上手くなることを求めている。それこそ、病的な程に。
夏のインターハイ準優勝の打ち上げが終わり、白井は顧問と一緒にタクシーに乗った。打ち上げ会場から白井の自宅まで、だいたい三十分程かかる。白井は子供たちと接する時間が多いため、普段はなるべくお酒を口にするのを控えている。しかし、チームの後援会の役員や校長達に乗せられて、少し飲みすぎてしまった。
「明日の予定って、何があるんだっけ」
白井は、隣にいた素面の顧問に問いかける。
「明日は、十三時に池江と望月との面談だけですよ」
「そっか。U17のW杯のメンバーに選ばれたことと、Jの複数のチームから、練習参加のオファー来ていること伝えないとな。全部行くとなったら、池江と望月二人で約一か月行動か…。大丈夫かな、それ」
「少し心配ですね。二人はあんまり仲良くないですからね…」
「なんでなんだろうな。二人とも、人を嫌うタイプでないのに。望月だって、先輩からしてみたら鬱陶しいけど、同級生や後輩からはかなり慕われているだろ」
「そうですね。一年の田中
「なんて」
「池江曰く、望月が露骨にライバル視してくるのが鬱陶しいそうです。池江はずっと特別扱いされてきていたので。同級生で、あそこまで態度に出してこられると、困惑するらしいですよ」
「なるほどな。そう考えると、本当に池江は望月が居てくれて良かったよな。もちろん池江が天狗になるとは思わないが。隣にずーっとその椅子を狙ってくる奴がいる。そのお蔭で、油断せずに順調に成長している。いい関係性だ」
「だからこそ。もう少し仲良くして欲しいですね」
「まぁ、これまで通り、殴り合いの喧嘩でもしない限り、放置でいいだろ。ピッチ上での補完関係は完璧なんだ」
白井は決勝の一戦を思い出す。最終的にはPKで負けたとはいえ、中盤の支配は圧倒的に自分たちが握った。望月が相手の攻撃の芽を潰し、池江が攻撃を組み立てる。足りなかったのは、最後の仕上げだけ。決定力のあるFWのスカウティングが上手くいかなかったツケが、ここで現れてしまった。しかし、初のインターハイ準優勝。これで、今年は有望な中学生の入学確率がきっと上がる。白井は思わず頬が緩んだ。
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