第13話
部屋の出入り口の扉が叩かれ、コンコンという乾いた音が室内に広がった。対面に座っている強化部長が、どうぞと声をかける。すると、扉の向こうからトップチームのドイツ人監督とその通訳、そしてクラブの代表取締役の顔が見える。素早く椅子から立ち上がり、二人を迎える準備をする。
「フミヤ。久シブリだね。会いタカッタヨ」
ドイツ人監督は、とびきりの笑顔と片言の日本語で握手を求めてきた。
「監督、お久しぶりです。こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」
強化部長は二人が席についたのを確認して、話を切り出した。
「さっそくですが、契約書類の内容はいかがでしたでしょうか」
「はい、こちらとしては、契約内容に不満はありません」
自分の隣に座っている代理人が返答する。代理人からは、名指しで質問された場合以外は、話さなくて良いと言われてるため、静かにしているつもりだ。
「そうですか。こちらとしても、不備が無く安心しています。では改めて、弊社と望月文哉さんとの間で、プロC契約を締結することになりますが、異存はありませんでしょうか」
まず、強化部長は監督と代表取締役の方を向いた。二人とも、笑顔で首を縦に振る。次に、強化部長は自分を見る。本当にyesと言って良いのかと不安になる。代理人の顔を見ると、代理人も静かに頷いた。
「はい。異存はありません」
「では、サインをお願いします」
再度、二枚の契約書を確認する。ここにサインしたら、来年からは夢にまで見たプロサッカー選手となる。本来、もっと浮足立っても良い状況なのだが、区役所で働いていた頃の遠い記憶が蘇ってきて、妙に冷静になってしまう。契約というのは、締結するまでが物凄く大変で、とてもない労力を費やす。しかし、いざ締結という時は、ハンコやサインの一つ、二つで完了してしまう。丁寧に自分の名前を書き終えると、代理人と強化部長が拍手をする。
「よく戻ってきてくれた。ありがとう。望月君のこれまでの努力は知っている。お互いに良い契約になるよう、頑張っていこう」
代表取締役が大きな手を差し出してきた。
「こちらこそ。大学に行ってからも、ずーっと気にかけてくれて、ありがとうございました」そう言って、代表取締役の手を握り返す。
「いやいや、U18の時から、君の評価はクラブ内で高かった。大学に行かせてしまい、もし他のクラブに取られたらどうするんだ、って怒っていた人もいるぐらいだ」
一瞬、だったらその時に契約してくれよ、と言いかけた。その気配を察知したのか、代理人は自分が余計なことを言わないように、いかに自分がクラブ愛を持っているかを、語りだしてくれた。
その後は、広報部隊が待機している場所に移動して、プレス用の写真やインタビューが行われた。下部組織の時から、トップチームと同じユニフォームを着て、写真を取ってもらったことはある。しかし、今回は本当のトップチームの選手として、ユニフォームを着ている。契約書にサインするよりも、なんだかこちらの方が本当にプロになったんだと実感して、興奮してくる。
「そうだ。望月君も、今日の日本代表の親善試合、観戦していく?」
一通りやるべきことをやった後、小腹が空いたのでクラブの食堂で軽食を食べていると、強化部長から提案された。
「いいんですか」
「もちろん。森田と池江が選ばれている関係で、関係者席で見れるよ」
「じゃあお言葉に甘えたいです」
「OK。では、あと少ししたらTAXIで移動しよう」
正直、試合内容は知っているから、試合観戦自体にはあまり気乗りはしない。しかし、関係者席と聞いて、好奇心が勝ってしまった。
国立競技場に移動して、初めて関係者席エリアに入ると、興奮がMAXになる。そんな自分を見て、強化部長は笑う。
「そんなに嬉しそうにしてくれると、こっちも誘った甲斐があったよ。でも、望月君は国立競技場でプレーしたことあるだろ」
「はい。ありますよ。去年の全日本大学選抜の韓国戦はここでしたね。一番最初にプレーしたのは、SUPER CAPの前座の、高校選抜との試合ですかね」
「ああ、確かにそうだったな」
「でもここの席に来たのは初めてです。テレビでよく選手が映るところなので、憧れてました」
そういうと、強化部長は自分の後方を指差す。丁度、イタリアでプレーしている人気選手が、人に囲まれて入ってきた。そういえば、怪我の治療で一時帰国しているニュースを見た記憶がある。改めて、オーラがヤバい。
「あそこだけ、輝いていますね」
「そうだな。望月君も是非、あのくらいなれるように輝いてくれよ」
「頑張ります」
強化部長に軽く背中を二度叩かれて、席に座った。
池江の名前が呼ばれると、国立競技場の空気は一気に盛り上がった。多くのサポーターが、次のスター選手のデビュー戦を目に焼き付けようと、足を運んできたのだ。当の本人の池江も、自分が期待されていることを理解したように、精悍な顔つきで入場してくる。
「望月君って、池江のこと、どう思っているの」
「え?どうしてですか」
「今も結構熱心に見つめているから。それに望月君がトップチーム昇格できなかった理由が、池江の獲得が原因という噂。U18で流れていたのは知っている」
「まぁ。正直俺も、そう思っていますよ。一方で、クラブとして、高卒よりも大卒の方がいいという強化方針だから、関係ないとも思っています。でも、」
「でも?」
「個人的には、池江と張り合っても仕方ないと思っています。なんで、ある意味、眼中に無いです」
「池江を眼中に無いって、凄いな」
「だって、俺ら世代だけでなく、10年単位で見ても、数人しかいない天才の分類じゃないですか。そんな奴と張り合っても、メンタルやられるだけですよ。それに、今回俺を取ってくれた理由の一つが、池江がスペインに行って、若手のレギュラー候補のボランチが居なくなったから。ですよね?」
強化部長は、自分の質問を肯定も否定もしなかった。
試合が始まる。記憶の通り、格下の相手に日本はボールを支配する。前半十分を回ったところで、右サイドの上手い連携から、サイドバックの選手が上がってくる。速度の早い、低めのクロスが、エリア内に放り込まれる。相手の背後から上手く飛び出したファーの選手が、ダイレクトでゴールを決める。
「俺、トイレ行ってきますね」
先制点が決まり、国立競技場にいるサポーターは飛び跳ねて喜んでいる。その歓喜に混ざらず、トイレに向かった。関係者エリアの廊下に出ると、そこには岡さんがいた。
「お久しぶりです。相変わらず、どこにでも出現できるんですね」
岡さんも、久しぶりです、と返してくれた。どこか暗い雰囲気を纏っている。
「どうしたんですか。また今日も元気ないですよ。今日はめでたい日なのに」
「めでたい日?」
「はい。俺、今日プロ契約しました。来年から、正真正銘のJリーガーになります」
岡さんに報告すると、嬉しいという気持ちが爆発してしまい、柄にもなく岡さんにハグをする。
「嬉しいのは分かりました。でも、男同士で抱き合うのは趣味ではないので、離れてください」
「すみません。本当に岡さんには感謝してます。何度も、プロになるチャンスをくれて。本当にありがとうございます」
「そうですね…。でも、それはこちらからお願いしていることなので、気にしないでください。それよりも、試合は見ないでいいんですか」
「ああ、まぁ、恐らく以前も観た試合内容なので、大丈夫です。それに、そろそろ…。池江の怪我する時間帯だろうし、あの惨事をまた観たいとは思わないんですよね」
「そうですか…」
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
「なんですか」
「岡さんの希望通り、プロになりました。あとは、日本代表を目指せば良いと思っているんですけど、合ってますよね?」
「そうですね」
肯定しているにもかかわらず、なぜか岡さんは悲しげな表情になった。その時、国立競技場全体に、歓喜とは逆のサポーターの声が響いた。そちらに気を取られた瞬間に、岡さんは目の前から姿を消した。
試合終了後、プロ契約が済んだことを報告するために、実家に戻った。一度、小学校近くの公園に寄ってみたが、岡さんは居なかった。実家に戻ると、笑顔の両親と弟が待っていた。そして、リビングの机には、好物のうな重が準備されていた。
「ごめん。待たせたよね。早く食べよう」
「待て待て。うな重より大切なことがあるだろ」
「そっか。父さん、母さん。ご報告があります」
はい、と母親は嬉しそうに返事をする。
「今日、無事に。サッカー選手として、クラブと契約してきました!」
「おめでとう‼‼‼」
家族全員が、隠し持っていたクラッカーを鳴らしてくれた。
「父さん、母さん。ここまで支えてくれてありがとう」
「ああ、よく頑張った。でも、これからはプロのサッカー選手として、今まで以上に頑張らなくちゃいけない」
「うん。分かってる」
「分かっているなら宜しい。これからも、応援しているぞ」
その後、家族全員でご機嫌に鰻を食べた。明日も大学の練習があるため、一緒にお酒を飲めないことを伝えると、父親はひどく落ち込んだ。シャワーを浴びて、実家の自分の部屋に戻ると、ベッドは既に寝られる体制になっていた。立った状態から、体の力を抜いてベッドに倒れこむ。今回のやり直しでは、中学からクラブの寮に入り、大学でも寮生活を継続したため、ほとんど実家には居なかった。それでも、実家の匂いや空気感は懐かしい。部屋には、世代別の代表に選ばれた時のユニフォームや、雑誌や新聞の記事、集合写真など、今回のやり直しで自分が辿った歴史が飾られている。どれも、両親が記念だからと、丁寧に額縁に入れたり、専用のスペースを作ってくれた。そして、それは今回だけでない。今までのやり直しでも、両親は自分のサッカーへの取り組みを喜んで応援してくれた。ここには飾ってないが、これまでの三回のやり直しで多くの品が飾られてきた。
「遂に、プロになるんだ」
自分が成し遂げたことに対する誇らしさと、実家の安心感ですぐに眠りにつけた。
「文哉、ほら早く起きなさい」
母親が枕元で話しかけてくる。いつ寝たのか分からないほど、昨日はすぐに寝てしまった。母親に、起きると返事をする。昨日の夜、雑に枕元に放った眼鏡を取ろうと手を伸ばすと、柔らかい感触の物を掴んだ。
「なんだ、これ」
柔らかい物体を、顔の前に引き寄せて注視する。不思議なことに、眼鏡をかけていなくても、それはハッキリと見えた。足だ。そして、足と分かった瞬間に、体全体に寒気が走った。勢いよくベッドから、這い出る。ベッドで、気持ちよさそうに寝ている弟。昨日とは比べ物にならないくらい、低い視点。そして、十年前のアニメキャラクターのカレンダーが貼ってある部屋。
「おい。話が違うだろ…」
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