第2話
現実離れした目の前の状況を、どう受け入れれば良いかと考えている内に、両親に促されるまま食卓についた。父親の前には白米と味噌汁、目玉焼きに小鉢に入った漬物が並んでいる。一方で、自分の前には、チョコレートのコーンフレークの箱と牛乳、そして丸底の皿が置いてある。美穂と暮らすようになってから、朝食はほとんど和食だった。それまでは、パンやコーンフレークで軽く済ませることが多かった。特に小学生の上級生の頃は、頑なにコーンフレークしかたべないという、変なこだわりがあった。しかし今は中身がおっさんだ。正直、朝から甘いものなんて食べれないという思いがある。ただ食べだしてしまうと、体が子供のなので案外さくっと食べきれてしまった。食器を台所に運び、持て余した時間を潰すようにテレビを眺める。将来は超がつくほど人気者で、冠番組を複数持っているお笑い芸人が、ネクストブレイク芸人として紹介されている。
「文哉、もう七時四五分過ぎたよ」と母親に注意されて、小学校に行く準備を始めた。A4の大き目な教科書とノートをランドセルに詰め込む。それを背負うとかなりの重さを感じてしまう。文部科学省で小学生のランドセル重すぎる問題が話合っていると聞いていたが、確かにこれはキツイと、問題の重要性を身をもって体験する。
両親に見送られ、弟と一緒に学校に向かう。途中で弟は同級生と合流して、自分より前を歩いている。ボー、と弟の後ろ姿を見ながら進んでいると、小学生の時に友人とよく集まっていた公園の中に、見覚えのある人物を見つけた。ランドセルの肩ひもをしっかりと掴み、駆け足でブランコに向かう。ブランコの目の前にまでくると、その人物は顔を上げる。駆け寄ってきたのが自分だと分かると、微笑んだ。
「こんにちは、望月さん。可愛らしいお姿ですね」
「何が、可愛らしお姿ですね、ですか。どういうことか説明してください。これは現実なんですか」
「はい、現実ですよ」
マジか、という気持ちが顔に出ていたのであろう。再度その男性は、本当ですよ、と念を押した。
「あなた、何者なんですか」
「私が何者であるかなんて重要ではありません。あと、どうやって子供の頃に戻ったのかなども、どうでもよいことです。気になさらないでください」
「じゃあ、なんで俺は…」と言いかけて、男性の以前の言葉を思い出した。
「もしかして、本当にプロのサッカー選手を目指せ、なんて言わないですよね」
「いえ、その、もしかして、です」
「第一、なんで俺なんですか。自分でいうのは情けないけれど、とてもプロになれるほど、サッカーの才能は無いですよ」
男性は鼻から空気を抜くように笑う。
「望月さんのサッカーの才能の有無は関係ありません。私の悲願を達成するために、望月さんがプロになり、日本代表でプレーする必要があるのです」
「日本代表って…。馬鹿言わないでください」
「馬鹿言っていません」
「あと、悲願ってなんだよ」
「それは今は教えられません」
「馬鹿言うなよ」
「馬鹿言っていません」
一秒程お互いに目をあわせていると、男性はよいしょとブランコから立ち上がった。
「とりあえず、この後も何度かはお会いすると思いますが、よろしくお願いします」
「何度かって…」そう言いかけていると、目の前にいたはずの男性が忽然と消えた。周りを見渡しても、それらしき人物は見当たらない。突然のことすぎて、頭も体も動かず、ただその場でじーと固まってしまう。11歳に戻ったことも、今目の前で起こったことも、全く説明がつかない。理解ができないことが多すぎて、恐怖にも似た寒気を感じる。とりあえずブランコに腰をかけた。ブランコは生暖かい。その温かさは、先程まで誰かが座っていたことを、まぎれもなく証明している。何も考えられずに、地面の一点を見つめる。どのくらい時間がたったかわからず、なんならこのまま元に戻って欲しいと無意識に祈り続けた。
「モッチー!」声のする方を見ると、同級生が公園の入口からこちらに手を振っているのが見える。
「モッチー! どうしたの? 早くしないと遅刻するよ」
公園内の時計を見ると、八時十分を回っている。登校は八時二十分までだったはずである。
「あいつの言葉をどこまで真に受けるかは置いておいて。これが本当に現実であれば、さすがに学校には行かないと」
そう自分に言い聞かせて、体が動くのに任せて学校に向かった。
朝の混乱が嘘のように、小学六年生の一日は順調に進んだ。
「いや、むしろ。めちゃくちゃ楽しい!」
五限目が終わり、友人と分かれて帰宅している道半ばで、つい声に出してしまった。よくよく考えれば、中身は三一歳のおっさんである。多少、漢字の書き順などは忘れているとはいえ、小学六年生の授業など全く難しくない。給食も記憶よりもおいしい。休み時間はひたすらボール遊びやおにごっこなど、体を動かし続けて疲れるが、午後三時には学校が終わる。毎日のように二一時まで残業していたことを考えると、天国にきたようなスケジュールだ。帰宅すると、眠気を感じたのでそのままベッドに横たわる。昼寝なんて、いつぶりぐらいだろうか。寝落ち直前の心地よい浮遊感を感じていると、部屋の扉が開いて母親が入ってきた。
「文哉、調子悪いの?」
「いや、全然。むしろ絶好調」
「そう。ならいいんだけど、サッカーは行かないの?」
母親に言われて、記憶がフラッシュバックする。
「そっか、今日は水曜日。水曜日は一六時から多摩川グラウンドか」
「そうよ。行くなら早く準備する。行かないなら、コーチに連絡するから」
正直、行かないと言って昼寝を楽しみたい。しかし、体は11歳だ。サッカーの日と分かった途端に、体はベッドから起き上がっていた。それを行くという意志表示として受け取ったのか、母親は終わったらすぐに帰ってきなさいよ、と言って部屋を出ていく。急いでクローゼットを開けて、中からバックや練習着などを取り出す。
「改めてみると、チームのロゴっていいデザインだよな」
チームで統一されているバックや練習着などには、全て中央に【TOTO】というロゴが入っている。チーム名の東十FCの東十をもじって「トートー」なり、TOTOになったと聞いたことがある。某水まわり住宅総合機器メーカーが連想されてしまい、他のチームから揶揄されることもあるが、子供たち含めてチーム関係者や保護者からもシンプルで良いと評価されている。
急いで家を飛び出し、家から自転車で十分程走った場所にあるグランドへ向かう。到着すると既にチームメイトやコーチが集まっている。
「望月! そろそろ練習始めるぞ!」
大きな声で柴崎コーチに呼ばれる。改めて見ると、柴崎コーチが若い。当時は優しいけれども怒ったら怖くて、まさに大人という認識であったが、今見るとどこからどうみても、入職2・3年目の若手である。
「柴崎コーチって、今何歳ですか?」
「25歳だよ」
やっぱりかと、納得する。そして、いかに本当の自分がおじさんになっているかを実感する。
十六時になり、一度全員で集合してコーチの話を聞く。親への連絡事項だったり、今日の練習内容や週末の試合の話など。一通り話が終わると、ウォーミングアップに入る。二人一組に分かれて、短いパス交換をする。たったこれだけであるが、久しぶりにボールを蹴るので楽しい。楽しいが…
「ねぇ、
体の右側に逸れたボールを止めた神戸は、困ったような顔でこちらを見た。
「えー。うーん。モッチーがってわけじゃなくて、僕たちBチームは、Aチームと比べたら上手ではないんじゃないかな」
自分でも大人げない質問をしたと思ってはいたが、神戸が記憶よりも大人だった。どうやら、小学六年生にもかかわらず、人を傷つけないように配慮して話すことができてる。そのことにまず感心してしまった。
続けて、長いパス交換やリフティング、シュート練習と少しずつ難易度が上がり、実践に近い形になっている。久しぶりにゴールにシュートを打つので、またテンションがあがる。しかし、三本連続で枠内には飛ばず、ゴール裏の草原に自分でボールを拾いに行くことになった。
「流石に俺下手くそ過ぎないか。記憶よりも一段と何も出来ていない。あれ、こんなだっけ?」
一人でぶつくさと言いながらボールを持って、シュート練習の列に戻ってくる。
「まぁ、一生懸命練習すれば上手になるよ」
上手くいかずに不貞腐れているように見えたのか、柴崎コーチがそう慰めてくれた。いや、どう具体的に一生懸命すれば上手になるんだよ。二十年後であれば、コーチングの重要性が高まり、町クラブでもコーチがもう少し具体的にアドバイスをしてくれるのかもしれない。しかしこのチームは強くもなく、コーチもボランティアだったはず。なのでそこまでは、高望みかと思い列で待った。再び自分の番が回ってきた。ポスト役のコーチにボールを落としてもらい、右足でニアのゴール下を狙う。勢いのないボールはドテドテと転がり、簡単にキーパーに拾われた。自分の下手さにテンションが下がる。救いなのは、体はまだまだ、まだまだ、元気で走り回れるということだ。
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