第2話 想いが弾ける
咳がひどいからと救急外来に連れて来られた二歳の男の子は、診察室のベッドの上に立って機嫌よくおもちゃで遊んでいた。咳も止まっていて、体調はそれほど悪くなさそうだ。脱水も起こしていなさそうだし。
「ちょっと、もしもしさせてくださいねー」
私が聴診器を胸に当てようとすると、その子は火が付いたように大泣きし始めた。連れて来た両親が抱きしめてあやしてくれるが、鳴き声はますます大きくなり、私から逃げるために体をくねらす。
「すみません、先生。ほら、ようちゃん。先生にお顔みせて」
「いえ、もう大丈夫です」
患者さんの前なのに、私はついうなだれた。
「私が子どもに慣れていないせいです。泣かせてしまってごめんなさい」
診察を終えた後しばらくして、待合室で待っている家族に処方薬を持って行くと、機嫌の良さそうだった子どもがたーっと走って私から逃げ出し、泣き始める。
ものすごく嫌われたらしい。
医局に戻ると、田中先生が水槽の熱帯魚に餌をやっていた。
「子ども、めちゃくちゃ泣かせちゃいました」
「そんなもんだ。気にするな」
いつもの淡々とした口調で、先生は励ましてくれた。
「でも私、小児科志望なんです。このままじゃダメだなぁと思って……」
仮眠用のソファーに沈み込み、腕で目を覆った。
「舞浜先生はあんまり、小児科って感じしないけど。子ども、好きそうじゃないし。なんか志望動機あるの」
大きく息を吐く。腕を下ろして、田中先生の猫背ぎみの背中を見た。
「昔、助けられなかった子がいたんです」
ふーん、と先生はうなると、それ以上突っ込んでこなかった。
昼間の病棟の廊下は、間延びしたもったりとした空気が流れている。入院患者のほとんどが高齢者だからかもしれない。デイルームに置かれた数台の車いすはテレビの方に向けられているが、乗っている患者さんたちはほとんど見ていないようだ。目をつむったり、ぼんやりと視線を落したりしている。
ふと、窓際に座っている患者さんの肩の所が光った。立ち止まり、目をこらす。夏の眩しい光の中、きらきらと無数の光の粒が立ち上がって、一匹の白いクラゲの形になった。それはぽわんぽわんと縦に揺れながら、糸のような触手を患者さんの耳や頬に伸ばしている。クーラーの風を浴びて、ふわりと触手が広がった。
私は目を閉じ、指で眉間を押さえた。再び目を開けたとき、彼女の肩の上には何もなく、ただ木漏れ日が踊っていた。
「ほら、見えるようになっただろ」
急に耳元で声がして、ぎょっとして数歩前によろめいた。振り返ると、そこにはコトリさんが立っていた。黒髪がねっとりと湿っており、腕に洗面器を抱えている。シャワーを浴びてきたようだ。
「僕に会いに来たんだろ。ちょうど良かった。歩きながら話そ」
「はい……」
コトリさんは、ゆっくりと歩く。私は彼女から少し遅れて、とぼとぼとついてゆく。
「しんどそうだね」
「当直明けなので。すみません、患者さんに心配させてしまうなんて医者失格ですね」
「君は何と言うか……」
コトリさんが立ち止まって私の方に振り向く。憂うような――ただ私の体調を心配しているのではない、何か地球が滅びるのを月から眺めているような不思議な視線を向けてくる。
「こうだからこうしなくちゃいけない、みたいな思考が強すぎるんじゃないかな。すごく無理してるように見える」
ドキリ、とする。私は良い医者になりたい。心を乱されず、正しい治療を淡々とできる医者でありたい。でも、本当は、自分の心が傷付くのが嫌なだけなのかもしれない。感情を殺して、見えないようにして――
「おいおい、泣くんじゃないよ」
「泣いてませんよ」
本当に、涙なんて一滴も出していなかった。私が苛立ったことに気付いているのかいないのか、コトリさんはけらけらと笑いながら歩き出す。
病室に戻ると、彼女はベッドの上で膝を抱えて、初めて会ったときと同じように空っぽの金魚鉢をじっと見つめる。今の私には、透明な水しか見えない。テーブルの上で、ガラスを通り過ぎた青みがかった光がゆらゆらと揺れている。
「光ちゃんが来てくれて、ホントに良かったなぁ。僕、すごく退屈してたんだ。今回は急な入院だったから、本とかゲームとか暇つぶしを持って来れなかったから」
「どんな本をお読みになるんですか」
「早川とか創元の、日本人作家の小説」
私が普段ほとんど手に取らない出版社の名前を、彼女は挙げた。どんな内容なのか想像もできないが、なんとなく硬派なんだろうなと思った。
ふふ、とコトリさんが楽しそうに笑い声を漏らす。
「興味なさそうだね。じゃ、僕からも聞いてあげよう。君はどんな本を読むの? 存分に語ってくれたまえ」
「医学書しか読みません」
「ふーん?」
濡れた前髪の向こうから、コトリさんの真っ黒な目が私を射抜く。
「それは、昔から?」
医局の自分の席に戻り、スマホを開く。豆腐に目をくっつけたようなシンプルなデザインのゆるキャラが、ホーム画面の中で歩き回っている。ふと、その子の頭の上に吹き出しが表示された。指でタップすると、スケジュールのアプリが起動する。
カレンダーの一週間後の日付のところに、プレゼントのアイコンが表示されている。その横に浮かんでいる丸文字。
はづきちゃんのお誕生日!
「なんでこんなの、私、まだ残して――」
「本好きの友だちへの誕生日プレゼント、本っていうのはやっぱりあんまり喜ばれないんですかね」
正午過ぎの病棟のデイルーム。窓に向かって置かれた椅子の上で、脚を組んで文庫本を開いていたコトリさんが、顔を上げる。隣に立っている私を、上目遣いで見た。
「まあ、既に持ってる本を贈られたら困るからね」
彼女の言葉で、私はハッと思いつく。
「あの子、お気に入りの本があるんです。小学生の頃からずっと持ち歩いていてボロボロになってて。その本の新しいのをプレゼントしようかな」
コトリさんは呆れたように口元をゆがめた。
「それはちょっと微妙じゃないかな。そのボロボロの本に愛着があるのかもしれないし。それより、ブックカバーとかの方が良いと思うけど」
「そうですか」
少し落ち込んだ私を励ますように、ぽんぽんと背中を叩いてくれる。
「雑貨屋に行くんなら、買ってきて欲しいものがあるんだけど」
「そういうのは医者の仕事ではありませんが」
「アドバイス料だよ」
「し、仕方ないですね」
コトリさんが、自分のスマホの画面を見せてくれる。表示されていたのは、線香だった。かすかに桜の香がするらしい。病院で要るものではないだろうと考え込んでいると、コトリさんが怪しく笑った。
「クラゲの餌になるんだ。ほら、あの人を見て」
彼女が指さした先には、車いすの上でうとうとしている高齢の女性患者さんがいた。眩しい感じがして、目を細める。すると、だんだんと彼女の肩に何かが浮き上がって来た。それは、大きなクラゲだった。彼女の頭と同じくらいの大きさがある。
「かなり育ってる。あれはもうすぐ、羽化するよ」
「くらげが、羽化?」
奇妙な言葉の組み合わせに首をかしげたとき、むくりとクラゲが膨らんだ。頭の三倍ほどの大きさになり、そして、ぱちんと弾けた。
「光ちゃん、気を付けて。自分をしっかり持つんだよ」
それが、私の耳に最後に届いた声だった。
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