彼女がくらげをすくうとき
紫陽花 雨希
第1話 海にはまる
夢だったか現実だったかも分からないほどはるか遠い、昔の記憶だ。その頃私が住んでいた街のターミナル駅の構内には、大きな水槽があった。太い円柱状のガラスの中に熱帯のサンゴ礁が再現されていて、鮮やかな青や赤の魚たちが舞っていた。中学受験用の塾からの帰り道、私はよくその水槽を眺めながら親の迎えを待っていた。海が好きだった。魚が好きなのではない。水面に広がる波紋や、浮き上がってゆくあぶくや、水中に差した光がキラキラと輝く様子を見るのが好きだった。
夏だったと思う。お気に入りのピンク色のワンピースを着て、塾から支給されたリュックサックを背負い、髪の毛は友だちが遊びで結ってくれていた。少女漫画の主人公になった気分でスキップしながら改札を抜け、いつものように水槽に向かうと
――先客が、いた。
その人は、この辺りでは全く見かけない制服を着ていた。襟が淡い水色のセーラー服と、黒いスラックス。肩から、スポーツバッグを提げていた。
珍しいのでつい横目で見ながら、その人から少し離れた場所で水槽のガラスに手をつく。魚を目で追っているのかきょろきょろしていたその人の目が、不意に私の方に向いた。へにゃりと笑い、
「君は、お魚が好きなの?」
と問いかけてくる。満面の笑顔なのに、どこか空虚な感じのする表情だった。瞳孔と虹彩の区別がつかないほど真っ黒な目だったからかもしれない。
「別に……。魚になって海に住みたいって思うことはあるけど」
「そっか。それなら、僕と一緒に来る? 海の底で楽しく暮らそうよ」
その人が、右手を差し出して来る。細い指のしわの一つ一つが、くっきりと見えた。
その時自分がどんな感情を抱いたのか、今となってはもう思い出せない。怖さだったのかもしれないし、期待だったのかもしれない。ただ、その記憶が夢だったのではないかと疑う根拠がこの後にある。
「うん」
私はうなずいて、その人の手を取った。冷たい手だった。
「行こっか。××××に」
目を開ける。また、起きたまま夢を見ていたようだ。こぽこぽと熱帯魚の水槽のポンプが鳴っている。半分だけ開けられた窓から吹き込む初夏の風が、黄ばんだカーテンを揺らしている。電灯のついていない室内に斜めに差し込む日光。机に突っ伏していびきをかいている先輩。インスタントコーヒーの香り。のどかな昼下がり。いつもと変わらない穏やかな日常。
私はあの日、あの人の手を取った。そのはずだ。けれど当たり前のように家族と暮らし続け、受験に成功して私立の中高一貫校に入学し、今は医師になってこの病院に勤めている。医局と呼ばれる医師の詰め所の隅っこの席を与えられており、午後三時、つかの間の休息をとっている。午後五時十五分を過ぎると当直が始まり、救急外来で患者対応をしなければならなくなる。先輩医師も一緒に当直に入ってくれるが、研修医である私が全ての患者を最初に診ることが一応取り決められている。
椅子に座ったまま、大きく伸びをする。自動販売機に甘い飲み物でも買いに行こうかと立ち上がりかけたとき、医局に直属の上司である田中先生が入って来た。患者を含めた誰に対しても感情のこもらない一本調子で話す田中先生が、珍しく少し苛立っているように見えた。
「舞浜先生。僕の外来から一人、入院になったから先生も担当医にしといたよ」
「分かりました。カルテ、確認しときます」
明るく返事した私の肩を、田中先生がぽんと軽く叩いた。
「彼女はうちの常連だけど、ちょっと性格に癖がある。あんまり深入りしないように、気を付けて」
自分の頭からはてなマークが飛び出るところを想像をした。
「なんか、先生らしくないですね」
良くも悪くも割り切っていて、患者さんに対しての悪感情をあらわにするような人だとは思っていなかった。
「舞浜先生は引っ張られやすいから。心配してるだけ」
「……ありがとうございます」
普段の私は別に、患者さんに入れ込むようなタイプではない。診察のために最低限必要な会話しかしないし、病状にいちいち心を痛めたりしない。それなりに上手く、研修医として世渡りしているつもりだ。
引っ張られやすい。
その言葉の意味するところを、理解できずにいた。
新しい担当患者さんが入院したのは、最上階にある病棟だった。ナースステーションのパソコンでカルテを開く。
「天道コトリ。あまみち、ことり。珍しい名前……」
年齢は三十二歳。私より六歳年上だ。重い持病があり、入退院を繰り返しているらしい。一番古いカルテの日付は二十年前だった。十二歳のときに、発症したのだ。これまで、どんな生活を送って来たのだろう。私には想像することすらできない。
ハッとして、自分の頬をぱちんと両手で叩いた。らしくない、らしくない。私はただ淡々と仕事をするだけだ。気分を沈めてどうする!
個室の扉をノックすると、「はーい」と低い声が聞こえた。しばらく躊躇い、腹をくくって扉を開ける。
真っ先に目に飛び込んできたのは、窓際に置かれた金魚鉢だった。人間の頭ほどの大きさがある。中には透明な水以外、何も入っていない。
ベッドの上で膝を抱え、その人は金魚鉢を見つめていた。今にも折れそうなほど細い体は、黒いタートルネックのシャツと黒いズボンに包まれている。ゆるくまとめられた黒髪に刺さっているかんざしの先には、アカクラゲを模したガラス細工が揺れていた。白すぎる肌と黒ばかりの服装に、クラゲの毒々しい赤が際立っている。
「こんにちは……」
自分の喉から言葉が滑り落ちたことに気付いた。女の美しさに、我を忘れていた。
女がこちらを見る。へにゃり、と笑った。痩せているけれど丸顔で、年齢よりも少し若く見える。
「こんにちは、研修医さん。ずいぶんと緊張しているみたいだね」
少年のような、硬質な声だった。
「すみません、そう見えますか? まだ医者二年目なもので」
「田中先生に何か言われたんだろ。僕も釘を刺されたからさ。舞浜先生をたぶらかさないでくれって」
「田中先生がそんなことを?」
戸惑う私を見て、女は楽しそうにクスクスと笑った。
「田中先生が研修医だった頃からの付き合いだ。昔はあんな無表情じゃなかったんだよ、彼は」
「はあ……」
確かに、かなり癖のありそうな人だ。完全に調子を崩された私は、とりあえずいつもの決まり文句を口にする。
「天道さん、ご体調はいかが――」
「コトリさんって、呼んでよ。僕、下の名前で呼ばれる方が好き」
ダメだ、これは。もう立て直せない。医者としての仮面をかぶり続けることを諦めて、
「あなたのおっしゃることはなんだかよく分かりませんが、とりあえずこれからよろしくお願いします」
とうなだれるように頭を下げた。
「よろしくね、光(ひかる)ちゃん」
顔を上げる。いきなり下の名前で呼んでくるのか。手の甲で額の汗をぬぐった。
「それよりさ、光ちゃん。君はこの金魚鉢の中になにが見える?」
何も、と答えようとして目を凝らす。もしかしたら、カブトエビみたいな小さな生き物が入っているのかもしれない。
「ねえ、光ちゃん。目を閉じて」
真っ暗な世界。さらさらとガラスがこすれるような音がする。何か冷たいものが、私のまぶたに触れた。
「開いてみて」
暗闇の中に差した光のような声に導かれるまま、目を開ける。
ひゅっと喉が鳴った。
金魚鉢いっぱいに白い触手を広げた一匹のクラゲが、そこにいた。
「僕はクラゲを集めてるんだ。病院にはこいつに憑かれてる人が多いから助かる」
絶句する私を、女が真っ直ぐに見る。瞳孔と虹彩の区別がつかないほど真っ黒な目。
「これからは君にも、見えるようになるよ」
そうして私は、奇妙な世界に、海に、
はまった。
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