下・reborn
百台に及ぶムネモシュネの失敗作が床とデスクに散らかっている。それを拾いもせず、黙々とマシンの開発を続けていた。
設計図を見ても、難しかった。バグを修正する必要はなく、ただただ設計図に従って作るだけのことができない。まるで、水に潜れない子どものように。
泳ぐ必要はない。僕は、設計図通りに作ればいいだけ。それ以上のことはしなくてよい。いや、してはいけない。最終目標はそこではないのだ。
「頑張っているのね」
失敗したマシンに埋もれたデスクは、端の部分だけが本来の表面を現している。ノアは部屋に入ってきて、そこにマグカップを置いた。
「やっぱり一人じゃ難しい。設計図通りに作っても、うまくいかない」
僕はキーボードを叩く手を休めて、コーヒーを啜った。熱が全身に染み渡るように広がっていく。
「でも、それが完成したらどこへでも行けるようになるんでしょう?」
ノアは嬉々として言った。
「ああ。楽しみにしていてよ」
僕はマグカップを置く。画面にはムネモシュネの本体部分─直方体が映っている。ノアにはテレポートマシンだよ、と説明していた。
あの日、研究所から設計図を盗み出した日から、僕は結婚のことばかり考えていた。いずれは子供を作って、その子にムネモシュネを接続すると決めていた。計画は順調に進み、二年前にノアと結婚した。すぐさま子供を作り、トモリと名付けた。今は寝室で眠っている。
記憶を植え付けられるようになるのは、七歳からだ。マシンの有無に関わらず、それ以前に接続することは不可能なので、ムネモシュネが今こうして未完成でいてくれるのはむしろ有り難かった。
僕の逸る気持ちはあの日からずっと止んでいない。もしも完成していたら、僕の計画はかえって失敗に終わっていただろう。
ノアは部屋を出ていった。僕はパソコンに向き直り、CGを回しつつ手元の物体を触る。
作業を進めていくうちに、手が震えていることに気づいた。妙にタイピングが合わないと思っていた。
ムネモシュネの本来の機能にノアが勘付く日に、僕は毎日怯えている。ノアにバレる可能性は日を追うごとに高まっているのだ。
あの日、研究所を出てから、博士から何通ものメールが届いた。すべて無視していると、電話がかかってきたので、僕は早々に引っ越しすることを決めて博士の連絡先を削除した。博士は恐らく、警察やテレビ局に助けを求めただろう。報道がなかったのは幸いだった。
ムネモシュネを早々に公表すれば、批判待ったなしだ。常識的な人間が生存しているからこそこの機械は発明され、それを阻止するためにまともな人間が存在している。ただ常識を守ることがまともなのか、ムネモシュネに反対することがまともなのか、今の僕にはその線引が曖昧だった。
だからこそムネモシュネは開発された。それを悪用しようと企んでいる自分は常識の枠から外れていると思う。
自分にとっての正義を、自分の中にある確かなものを守り抜くためなら、常識も秩序も薙ぎ払える。脇目も振らず走り続けられる。
「そろそろ一年か……」
その意味を認識した次の瞬間、動悸がした。呼吸が浅くなる。凄まじい不安感が僕を襲う。それこそ、バグを起こしたロボットのように、喃語ともうめき声ともつかない声を上げた。
ノアは助けにこない。隣の寝室から微かに子守唄が聞こえてくる。ノアの透き通った声が、彼女にバレるのではないかという恐れを加速させた。
*
「トモリ、誰かの記憶をもらうことは、怖いと思う?」
トモリは、ふっとこちらを振り向いた。七歳になった彼女の顔は、心做しか灯李に似ている。僕は部屋にあるムネモシュネを思い浮かべながら、返事を待った。
あれから三年。ムネモシュネはついに完成したのだ。
博士のほうも予定から数年遅れてバグの排除を終えたようだ。最近になってようやく、ムネモシュネの存在は世間に公表された。非常識な若者は気にも留めず、常識的な大人は国に反発した。結果として、実用化される日は見送られることとなった。
「幸せな記憶だったら、トモリは嬉しい」
トモリはそれだけ答えて、再びテレビに目を向けた。
幸せな、記憶。心の中で反芻する。
SDカードに詰まっている灯李の人生がどんなものだったか、もうはっきりとは思い出せない。鮮明に思い出せるのは就活に失敗したことと、デートで遭遇した印象的なイベントのことだけだ。無味な日常は無意味だ、と心のどこかで思っているようで、悲しくなった。僕は彼女のすべてを愛しているけれど、一分一秒を記憶することは叶わない。僕は監視カメラではないから。
「トモリ」
「何?」
「観終わったら、僕の部屋においで」
僕は階段を指さした。部屋は二階に位置している。
トモリは元気よく頷いて、テレビに集中する。
彼女の幸せの定義がわかったような気がした。
*
人格形成の真っ只中にいる子供でなければ、意味がない。ノアに灯李のデータを送り込んでも、別人の記憶は異物と判断されておしまいだ。だから、トモリでなければならない。
ベッドの上にトモリを寝かせた。少し緊張しているようだ。優しく手を握って、心配ないと囁いた。
ムネモシュネの吸盤をトモリに貼り付ける前に、ひとつ大事なことを伝えておくことにした。
「トモリ。君がどんな人間になろうと、それはトモリだ。僕と二人きりででかけたり、就活で失敗したり、そんな記憶が今後トモリを苛むかもしれない。でも、全部トモリの妄想に過ぎない」
トモリは小首を傾げる。後頭部がシーツと擦れて、乾いた音を立てた。
「トモリの幸せの定義が変わっても、受け入れなくちゃいけない」
トモリは眉一つ動かさなかった。大事な話をしていることは理解したのか、表情一つ変えず聞いてくれている。
「わかった!」
最後に、元気よく答えた。彼女の満面の笑みは、僕の企みを許している。そんな気がした。
トモリに睡眠薬入りのゼリーを食べさせて、完全に眠ったのを確認する。
額に吸盤を貼り付けた。直方体の側面にSDカードを差し込む。スイッチを上げる。直方体の表面で小さな青い光が点滅する。静止すると、記憶の転送を開始した。
「テレポートマシンの進捗はどう?」
ノアの声と共に、部屋のドアが開く。僕はそちらに目線が釘付けになり、トモリを隠すこともしなかった。
ただただ、呆然と立ち尽くす。
「何してるの? トモリがどうしてウツギくんの部屋で寝てるのよ?」
ノアが部屋にズカズカと上がり込んでくる。
ベッドの上のムネモシュネを見て、叫んだ。
「今すぐこれを外して!」
僕は動けなかった。壁際に追いやられる。呼吸を行うことで精一杯だった。
「なんで何も答えないの!」
「落ち着いてくれ……」
「これ、最近テレビで見た。ムネモシュネでしょう? どうして研究所をやめたあなたが持っているの?」
僕は押し黙った。
こうしている間にも、記憶と人格の転送は進行する。直方体の表面には、五十%と表示されている。
まるで花火のようだった。音が最初に聞こえた。数秒遅れて、自分の頬に熱を感じた。それは恥じらいから来るものではなく、明らかな痛みだった。目の前にノアの手があって、僕ははたかれたことを理解した。
「何も言わないなら、私が外す! トモリの未来を汚さないで」
ノアの手が吸盤に伸びる。剥がれる寸前で、彼女の手首を掴んだ。
必死に抵抗される。思いの外力が強くて、むしろノアのほうが僕に暴力を振るっているようだ。
ノアを床に押し倒す。両手首を掴んで、覆いかぶさる。
「離して!」
ノアは潤んだ瞳で僕を見る。彼女は溺れているみたいに手足をばたつかせたが、無謀だと悟ったのか、急に止めた。
「どうしてこんなことするの……!」
ノアの目尻に浮かんだ涙は、透明な線を描いて目元から耳の下のほうへ流れた。
「僕は初めからこのつもりだった。それに、これは不完全なムネモシュネだ。僕は国と同じことをする気は更々ない」
ピアノのような電子音が鳴り響く。
転送が終わった。
初めてノアに設計図を見せた。僕のムネモシュネが不完全である理由から、それを利用するに至った経緯まで、すべて話した。
「最低」
ノアは嗚咽といっしょにそんな台詞を吐き捨てて、「もう知らない」と付け加えて部屋を出ていった。
僕はことの重大さに数秒遅れて気づく。彼女を追いかけようと慌てて一階へ下りるも、窓の外の黄色い車は駐車場から姿を消していた。
灯李がいれば、ノアのことなんかどうでもよかった。僕は眠っている灯李の頬を手のひらで温めた。
*
トモリの顔の造形が灯李に寄り始めている。
「ウツギくん、今日は何作る?」
スーパーで買物をしている時、トモリは僕にべったりとくっついて離れない。初めは僕も引き離そうとしたが、トモリが聞かない(灯李と言うべきかもしれない)ので最近は諦めている。
外に出ると、太陽が傾いていた。空に白い月が浮かんでいる。薄く、まるで薬包紙みたいに透けていた。
「もう夏って、早すぎるよ」
トモリの口調と灯李の口調が重なる。紛れもなく、ムネモシュネの影響だ。灯李が死ぬよりも前の記憶だから、死んだ時の記憶を思い出すこともなく、平穏に暮らしていける。
「そういえば、春木博士は元気にしてる?」
トモリはそんなことを呟いた後、首を傾げた。「誰の話しだっけ?」
疑問を持たれたらまずい。ムネモシュネの開発日と、SDカードに記録されていた灯李の記憶は一部重なっている。
「ムネモシュネの開発は順調?」
トモリは足を止めて、僕のほうを見る。歩道の脇を自転車が通り過ぎる。風が吹いて、汗を冷やした。大型トラックがアスファルトの上を踏み潰すように走り、その轟音は耳を支配した。トラックが見えなくなると、炭酸が抜けるように耳元から轟音が消えていった。
「何のこと?」
「私も、何のことかわかんない」
灯李からトモリに戻ったようだ。僕は胸を撫で下ろすと同時に、寂しさを感じた。
「でも、なんだろ。ずっとあるんだ。七歳ぐらいのときから、十五歳の今まで、ずっと。自分の中に別人がいるみたいな感覚が」
「二重人格?」
「ううん。私とは生まれも育ちも違う別人が住んでて、その人が私の全てを乗っ取る……みたいな?」
それを二重人格と言うのではないだろうか。しかし、その人にしかわからない感覚ということもある。何より、トモリの感覚の原因は僕が一番知っている。
僕は再び歩き出した。レジ袋の中で野菜がカサカサと揺れる。後ろからトモリの足音が聞こえる。どこか虚ろで、空気を踏んでいるような音だ。
「ねえ、ウツギくん」
また、灯李に戻った。
立ち止まって、背中に灯李の声を受けた。
「こんなことしていいと思ってるの?」
昔の灯李が、今を見て話をしている。僕は存外冷静だった。僕はどこかでこういう展開を望んでいたのかも知れない。もう一度だけ、灯李とちゃんと話がしたかっただけなのかもしれない。
幼い声帯を使って声を出す灯李。僕が彼女のことを知るよりも前の、学生時代の灯李と話しているような錯覚に陥った。
「僕は救われたかったんだ」
「でも、悪いことじゃん?」
顔を見たくなかった。少しずつ歩を進める。電柱の影を踏む。
「ウツギくんは覚悟を持って研究所を辞めた。違う?」
「事情が変わったんだ。僕は灯李を救いたいと思った。僕も救われたかった」
自然と早足になる。
「私はこんなことじゃ救われない。感覚も気持ち悪いし。研究所時代からいきなりこの時代にタイムスリップしてきたみたいでさ」
「ちょっと待ってくれよ」
僕は足を止めて、ついに灯李を振り向いた。そこには等身大の灯李が立っている。
それが幻覚であることはこの僕が一番わかっている。
針に濡れた灯李の姿がフラッシュバックする。
様々な姿の灯李が眼前の灯李に重なり、化け物じみた姿に変貌した。
「そもそも、なんで自分が死んだってことがわかるんだ。だって灯李は、あの時の、まだムネモシュネが企画段階だった時代の─」
僕は戸惑う。
灯李は淡々とした声で言う。「普段のウツギくんなら自分の子供に他人の記憶を流し込むようなことしないし、何より、顔を見ればわかるわよ」
灯李は踵を返した。ずっと先に、駅のロータリーが見える。バスが停まっている。老人が数人降りて、バスは行ってしまった。
「待って、」
「春木博士に会いに行く」
灯李は声を張り上げた。まるで、宣言するように。
「トモリちゃんから、私の記憶を抜き出す」
遠ざかる背中に触れることすらできなかった。灯李が望まないのなら、コンピュータに帰りたいと言うのなら。甘んじて受け入れる。
揺らいでいた視界が安定し始め、現実に戻ってきたことを悟る。今まで、トモリの中に灯李を飼っていたのは全部夢だったのだ。紛れもない現実であるのと同時に、見てはいけない夢でもあった。叶いかけの、虫に食われたように欠けている夢だ。
僕はその場で博士に電話をかけた。車を持っていない僕が彼の研究所へ行くには、電車か、迎えに来てもらう必要があった。僕が博士の車を選んだのは、あえての選択だった。密室で、逃げられない状況で、博士の発する全ての言葉を受け入れたかった。きっと僕は電車に乗ると迷子になった振りをしてしまうから。
*
「よお、泥棒」
家の前に赤い車が停まる。博士は窓から手を出してひらひらと振った。
玄関ドアの鍵を施錠したのを確認してから乗り込む。タバコの匂いが車内に漂っている。強張っていた体が急速に弛緩した。
走り出した赤い車は、角を曲がって一直線に進んでいく。偶然にも、『転がる岩、君に朝が降る』が車内を満たしていた。朝を思わせるギターの高音が、僕の中に入り込む。イントロが心の中で鳴り続ける。ゆったりとした高音が僕の中に朝陽を通そうとして、音が僕を貫こうとしている。
「設計図、持ってんだろ」
博士は淡々と言った。
「……警察には言わなかったのか」
博士はタバコを咥えた。煙を一つ吐いて、乾いた声で言った。
「そんなことしなくたって、お前はどうせろくなことにならない。初めから知ってた。科学者の勘ってやつさ。未完成のマシンを使えば、未完成な未来しか訪れない」
車は高速道路に入る。景色が、流動食のように窓の表面を滑っていく。
「完成された未来の定義は?」
「死ぬまで理想の生活が続くことだよ」
トンネルに入って、スピーカーの発する音が霞んだ。三十秒ほど走ると、車は夜の下へと抜ける。
「ムネモシュネは完成した。実用化まで時間はかかるが、ようやくだな」
指にタバコを挟み、もう片方の手でハンドルを握る博士の目は、優しかった。
*
植え付けた記憶を、コンピュータへと逆流させる。
ベッドに横たわるトモリは安らかに眠っている。彼女が目覚めた時、ここにいる理由を説明したら、僕は嫌われるかも知れない。ノアにもトモリにも見放されて、僕は、どこへ向かえばいいのだろう?
「あとどれくらいかかる?」
逆流する記憶がコンピュータに表示されている。僕の覚えていない記憶まで、映像として流れている。
「さあ。戻し作業にそう時間はかからないよ。三分ぐらいで終わるんじゃないかな。けど、トモリちゃんはすぐには目覚めない」
トモリの髪に触れる。髪質が灯李のものと全く違った。僕が求めていたのは灯李ではなく、代用品だった。完璧な代物じゃなかった。今更悟ったところで、どうにもならないけれど。
僕は自分の子供のことを、心の底から灯李の容れ物としてしか見ていなかった。自分でも感じていたことだが、さっきのことでその感覚は確信に変わった。自分の子供の髪質すら、知らなかった。
記憶の流れが止まって、博士との会話も止まった。僕がここに来ることは二度とないだろう。
僕は最後に、博士にあるお願いをした。
*
私が次に目を覚ました時、そこは無機質で薄暗い部屋だった。光が届かず、目の前には鉄扉が立ちはだかっており、外に出られそうにはない。窓には鉄格子がついている。部屋の明かりはあえて消しているようだった。すぐそばにリモコンがあるのに、ウツギくんはそれを手に取ることなく、部屋をぼうっと眺めた後、静かに俯いた。三角座りをして、両膝の間に顔を埋める。床をずっと見ていると、吸い込まれそうだ。
「灯李、ごめんね。こんなところに連れてきてしまって」
「コンピュータの中に比べたら百倍マシよ」
僕は泣いていなかった。
だって、この独房には二人いる。寂しくなんかなかった。
灯李(ともり) 筆入優 @i_sunnyman
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