灯李(ともり)

筆入優

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 廊下に湿った空気が充満している。夏の夜の気温も手伝って、僕は全身に汗をかく。

 天井から水滴が滴り、床に水たまりを作っている。黒い虫がトイレから這い出てきた。カサカサと奇妙な音を立てて、僕と灯李の足元を通り過ぎていった。


 壁の落書きはぼやけたフォルムで、一つ一つの文字が太い。治安の悪い国らしい、スプレーを用いた落書きだ。


「これ……全部学生がやったのか」


 僕はむしろ感心したような声で言った。


「呆れちゃうよねぇ。ウツギくんはこんなことしないでね」


 灯李が笑いながら言った。肩が揺れて、傘の先から水滴が落ちる。


「……しないよ。傘、僕が持つよ」


 灯李の手から傘を引き抜こうとしたが、柄を握る手の力が強まり、奪い取れなかった。


「どうしてよ?」


 灯李は柄を大事そうに抱え、自分のほうに引き寄せた。奪おうとすると、足を滑らせて水たまりに倒れ込んだ。ただの水とはいえ、ゴキブリが入浴していたかもしれないと考えるとゾッとした。灯李の質問に答える気にもなれず、ハンカチで顔を拭いながら先へ進んだ。


「灯李……そういうところ」


「さっきのは私が悪かったよ」


「こういうときは素直だね」


 傘が僕の頭上を覆う。頑固な人間が時折見せる優しさに弱い。僕は礼を言った。

 灯李が照れくさそうに僕との間を詰めてきた。腕が触れそうになる距離感を保ちつつ歩く。灯李が油断している隙に傘を奪い取り、左手に持った。彼女を更に驚かせようと、空いている右手で彼女の手を握った。彼女はポーカーフェイスを貫いていたが、十秒もしないうちに顔を真っ赤に染めた。


 僕は、頑固な人間が時折見せる照れた顔に弱い。心臓の高鳴りを感じて、恋人同士だったことを思い出した。ここ数週間、互いに仕事で忙しくしていた。恋人らしいことをするのは久々だった。


「これも春木博士に報告しなきゃだめかしら?」


 灯李は握りあう手を見つめる。


 彼女の言葉で、本来の目的を思い出す。僕は博士の発明に反対していたが、研究所の一員である灯李に押し切られて、発明の資料収集のために古野大学に来ていた。

 依頼を断れば、灯李がどんな顔で迫ってくるかわからない。僕は貴重な休日を割いて、渋々ここに来ていた。


「僕はこういう報告ばかりがいい。正直、博士の発明には反対だね」


「そのセリフ、三千五十回目」


 若者の治安が悪化の一途を辿っているのは、一年前から社会問題としてメディアでも取り上げられていた。一方、僕は十年後には改善されるだろうと楽観視していた。


 しかし、春木清春博士は違った。一刻も早い治安の回復を望んでいた。理由はわからないが、とにかく強く望んでいた。


 常識的な人間の常識関連の記憶を採取し、コンピュータやSDカードに保存し、非常識な若者の脳に送り込む装置─ムネモシュネ。博士はそれを使って、新たに生まれてくる若者に早いうちから常識を教えてようと考えているのだ。博士はこのことをセットアップと呼んでいる。


「セットアップってさ、アホくさいと思わないか? だってさ、記憶を送り込むということは、」


「赤子の人格を歪めることになるかもしれない。はい、一言一句合ってる」


「人格と将来、ね」


 灯李の冗談を受け流す。彼女はあまりムネモシュネを問題視していないようだ。


 気づけば大学の出口まで来ていた。扉を開けると、地面に打ち付ける雨の音が鼓膜を揺らした。雨は針のようで、地面一帯に落ちた針が僕らを刺す機会を窺っている。そこら中に転がっている針を靴が受け止める。


 靴を殺しながら、はる博士の研究室に向かう。


 治安の悪さと雨降りが重なった日に車を運転するのは自殺行為に等しい。僕らは山奥の研究所まで歩かねばならなかった。


 街は針にまみれていて、気持ち悪い。コンビニもスーパーも居酒屋もラーメン屋も、針に濡れている。治安の悪い街どころではなく、終末世界のように目に映った。


「どうしたのよ、そんな顔して?」


 歩行者用信号が赤に変わる。


 僕は横断歩道の先にある猫の死体を捉える。今日もどこかで銃声が鳴っている。

「雨が嫌いって話、しなかったっけ?」


「彼氏は雨が嫌い、今覚えた。私の記憶を抜くときはこれも一緒にお願いね」


「変な冗談はよせ。それと、どうでもいい記憶はムネモシュネは吸わない、ようになる予定」


 僕の声は盛大なクラクションにかき消された。


 この公道は十字路だ。横断歩道は僕から見て左手にある道からまっすぐ進むと縦断できる。


 その道から、スポーツカーが突進してきた。暴れ狂う猛獣のような唸り声を上げながら。


 僕は立ちすくんでいた。信号は青色なのに、足が動かない。もう間に合わないと思った。


「さっきの言葉、ちゃんと覚えていてね」


 灯李に体を押されて、僕は横断歩道のど真ん中に飛び出した。針と地面が体を鈍く打った。灯李の名前を叫ぼうとした時には、もう、車は何かを殴るような音を立てて停止していた。車のダサい顔の前で、灯李は針に輸血をするかのように倒れていた。


  *


 針を思い出すと、リノリウムの床がやけにきれいに見えた。僕の目から針がこぼれ落ちて、汚す。スマホで時刻を確認する。夜中の十時。事故から三時間が経過していた。手術室の『手術中』のランプはまだ赤く光っている。成功したときは輝いてほしい。


「ウツギ、ウツギ、大丈夫か」


 頭上から渋い声が降ってきた。声の主は確認するまでもない。


 僕は床に目を落としたまま、「大丈夫に見える?」と尋ねた。


「研究できそうな質問じゃないか。ウツギは大丈夫か否か!」


 僕は博士の胸ぐらを掴んだ。拳にまで感情が伝わったのは、始めてのことだった。

拳は往く宛もなく、そこに静止していた。まるで、暴れ出したいと叫ぶ心臓が僕の胸にとどまり続けていてくれるように。


「叔父でも、言ってはいけないことぐらいわかるだろ」


 拳が震える。どこかに行きたいと、そう言っているようだ。


「悪かった。ウツギを元気づけようと思ってのことだったんだ。悪気はなかった」


「どっちだよ」


 手を離す。倒れ込むようにしてシートに座った。


 博士も隣に座った。彼の横顔は長い癖毛に遮られているため、髪と髪の切れ間から覗くばかりだった。いつもの探究心に満ちた瞳は、今、どんな形をしているのだろう。


「原因は俺にある。ウツギの反対を押し切ってまで、調査に行かせるんじゃなかった」


「たしかに、僕は行きたくなかった。でも、博士は悪くない。博士の言葉がまかり通るなら、通学中に死んだ人はみんな学校のせいになる」


「良い例えだ、ありがとう。それと、俺は君の叔父だ。博士はよしてくれ」


 博士は粒子のように小さな笑みを零した。


 手術室のほうから、音がした。ドアが開いたのだ。明かりが漏れ出て、廊下が仄かな白色に染まる。


 虚ろな目をした医者は、何も言わず僕らを見ている。


「灯李は」


 医者の表情を見るに、これが野暮な質問であることは明白だった。それでも、希望ではなく、せめてもの救いとして僕は『期待』をしていた。命だけでも助かっていれば、それで良かったのだ。


 医者はマスク越しに手術は失敗したと報告した。実際はもっと丁寧な言葉づかいだったけれど、今の僕にとっては直球も婉曲も同じだった。結局、灯李が死んだのは揺るぎない事実なのだから。


 不思議と、涙も鼻水も流れなかった。


 まるで体内の水分が奪い去られてしまったかのように、僕の体は何のアクションも起こさない。代わりに、心の一部が齧られる音が聞こえた。胸に虫が住んでいる。虫が一つ食べて、僕が一つ落ち込んだ。彼らが腹に行かないのは、僕が怒ることによって誰かを傷つけたくないからだ。胸の虫がおさまらなかった。僕が無理に怒ろうとすると、虫は僕の胸にしがみついた。


 意地でも腹に向かう気はないようだ。


「博士」


 医者ではなく、横に立つ博士に言う。博士は無言で続きを待った。


「僕を研究所へ連れて行ってくれ」


 博士は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で僕を見つめた。


 ムネモシュネを使う。口には出さないまま、僕は博士の車へ向かう。


  *


 針を弾き飛ばすように、車が駆け抜ける。博士は一言も発さなかった。これ以上何も言うまいと意識的に口を閉ざしているようだった。


 車は山間部に入る。濡れた木々の葉から針の一部が滴っている。道は針で濡れており、一瞬でも操作を誤ればスリップしてしまいそうだった。世界は刺されていた。


 十五分間、車は針の上を走り続けた。中腹辺りまで来たところで、停車した。フロントガラスの向こう側に、真っ白で無機質な建物が見える。正面の透明な扉の上で、監視カメラの目が光っている。


 僕は下車して、博士の後に続いた。彼は扉の前で立ち止まった。正面を向いたまま、僕に尋ねた。「もう一度聞く。何をする気だ?」


 僕は答えない。


 扉の横には手形の鉄板が取り付けられている。生体認証だ。答えなければ、中へは入れない。


 適当な誤魔化しを思いつけるほどの余裕は今の僕にはなかった。僕は高鳴る心臓と口を連動させないよう心がけながら、言葉を発した。


「ムネモシュネを使う」


 博士は固まり、困ったように目元を揉んだ。


「未完成だ」


 それだけ言うと、博士は生体認証に手をかざした。扉がスライドして、研究所内部の空気が外に流れてくる。研究員が残っているのか、それは冷たかった。


 廊下の照明は僕の服に染み込んだ針を浮き彫りにする。白くて明るい光が目を刺した。光も、針だ。


はるきよはる』の研究室に案内された。いつもここへ来ていた灯李の姿は、どこにもなかった。 


 奥の机の上に、小さなマシンがある。スマホほどの面積の直方体から線が伸びていて、先端に吸盤がついている。


 意識抽出マシン・ムネモシュネだ。博士はそれを撫でるように触る。


「あと三年もすれば完成するだろう。なかなか、バグが治らないんだ」


 博士は眉を下げた。バグのことは僕も知っている。すべての意識が抽出されてしまうという、このマシンにおいては致命的なバグだ。


 ムネモシュネは、常識とそれに関連する記憶のみを抽出するために作られたマシンだ。人格や抽出対象の人の思い出や性格まで、何もかも吸い上げてしまうのは致命的な欠陥と言える。


 そんなバグを治している暇があるなら、コンピュータで常識のテンプレートを作成して人の脳に挿入すればいいではないか、と思われるかもしれない。しかし、プログラムとは人間同士で言うところの教育であり、すなわち、現代の若者を統制するほどの力は持っていない。


 常識を守らなかった場合の記憶を植え付けると、植え付けられた人の体をリアルな恐怖感が包み込む。このマシンは、より効果的な教育を目的として作られたのだ。

 再現ビデオでもなければ、教育漫画でもない。人々が辿ってきた人生の一部を新たに生まれてくる若者に見せるのだ。


 僕は相変わらず反対派だけれど、博士が国に依頼されて作ったマシンを壊すような勇気は持ち合わせていなかった。


「さっきも言った通り、未完成だ。あと三年待ってくれ」


 博士は「コーヒーでも飲む?」とポットを指さした。僕は首を横に振った。


「灯李を蘇らせる」


 ポットのお湯をマグカップに注ぐ博士を見つめる。


 彼は呆けた声を出した。


「はぁ? 蘇らせるって……もう灯李は」


「わかっている。だから、やるんだ。擬似的に蘇らせるのは不可能じゃない」


 ムネモシュネに視線を移す。博士はそれに気づいて、「駄目だ」と呟いた。


「じゃあどうして中に入れてくれたんだ?」


「ウツギをこれ以上悲しませたくなかったんだ。要求は、できるだけ飲んでやりたい。でも、」


 目を閉じてコーヒーを啜る。


「さすがにムネモシュネを貸すことはできない。

 俺がムネモシュネの開発を始めた時、ウツギは何度も反対を訴えた。それを機にここを辞めた。それが今日になって研究所へ行くと言い出したから、俺はびっくりしたよ。あのときは理由を訊かないでやったけど、今聞いておいて正解だった」


 博士はマグカップを盛大に傾けて、飲み干した。飲み干す時のクセだ。


「ウツギのやろうとしていることこそ、」


「倫理観も常識もない。非常識だ。ひどい計画だ」


「わかっているなら、やめとけ。叔父からの忠告だ 」


 博士はPCデスクの前の回転椅子に座る。背中を曲げて、太ももに肘をついた。


「俺はな、絶対に完成させるんだよ。させなきゃならないんだ」


 博士は椅子を回転させ、デスクに飾られている写真立てを眺めた。今よりもシワの少ない博士が、女性の頬にキスをしている写真だ。


「博士がマシンの開発を諦めないのは、その人が理由か?」


 彼の横に立ち、写真立てを眺める。以前から気になっていたけれど、なかなか訊けずにいた。博士と仲の良さそうな彼女は何者なのだろう? 博士に結婚歴はないはずだ。


 博士はポツポツと語り始めた。


「今まで、誰にも話したことがなかった。彼女は俺の恋人だよ。もう死んでしまったけど」


「それが、ムネモシュネの開発を続ける理由? やっぱり、国に逆らうと不利益を被るから?」


「最後まで聞け。彼女は殺されたんだよ。ウツギは知らないだろうけど、昭和の時代から治安は悪化し続けている。彼女もまた、テロに殺されたんだ。笑っちまうよ」

 博士は口ではそう言いながら、目元も口元も笑っていなかった。笑っているように聞こえた台詞は、ただ震えていただけだった。


「俺とウツギは似ているよ。恋人を失ったんだ」


 僕には何が似ているのか、例を提示されたところでよくわからなかった。


「完全に失っちゃいない。僕は、二年前の灯李のデータを持っている」


 博士は、そういえばそうだったなぁと苦笑した。二年前、就活でヘロヘロになって倒れてしまった灯李にここを紹介したのは僕だった。灯李は危険の及ばない範囲内でなら、と人体実験を引き受けて、記憶を抽出した。バグはその時に発見された。ダメ元で僕にもデータを譲ってくれと博士に頼むと、「内緒な」と言ってコピーを渡してくれた。


「さて、俺はトイレに行く。ウツギはそろそろ家に」


「まだ話は終わっていない」


 立ち上がろうとする博士を呼び止める。


「悪いが、どんなに理屈をこねても、ムネモシュネは渡せない。それに、ウツギ。君は反対した時にこう言っていたじゃないか。人格や将来を歪める可能性のあるマシンなんか作るなって」


「愛に常識を押し付けないでくれ。あの時の僕とは、違う」


「いっしょだ。お前は灯李が死ぬまでムネモシュネのことを良く思っていなかった。それが急に手のひら返して、『使わせてほしい』だと? 甘ったれるなよ」


 博士は苛立ちを隠そうともせず、言い放った。


「そもそも、お前、子供いないだろ。誰をセットアップするつもりだ?」


 僕は黙り込む。策もないのに未完成なムネモシュネを利用しようと企んでいるわけではないが、博士に話すのははばかられる。


「……言えないようなことか」


 博士は部屋の奥へと消えていった。扉の閉まる音がして、メインルームには僕一人だけになる。


 僕は博士にバレないようにムネモシュネを盗み、この部屋から出る方法を考えた。

 研究室から外へ出るにも、生体認証が必要だ。ムネモシュネを盗むのは容易なことではない。


 セキュリティに彩られた研究室が忌々しく思えてくる。辺りを見回して、突破口を探す。


 と、ムネモシュネの設計図が床に落ちているのを見つけた。ぺらぺらな紙が五十枚以上。失敗した設計図も混在しているそれを、ズボンのポケットに折りたたんで仕舞った。


 僕は必ずやり遂げる。


 針を振り払うために。


 トイレから戻ってきた博士に、「帰る」と告げた。


 彼は微笑み、「わかってくれたならいいんだ」と優しい声で言った。

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