第43話


「私はもともとイギリスの貧しい家庭に生まれました。ずいぶん遠い昔の事なので忘れてしまったのですが……でも、山に囲まれた自然の美しい場所だったと記憶しています。私の家は本当に貧しくて、両親ともに働いてなお生活が困窮するほどです。働けども働けども暮らしぶりは楽にならず、爪に火をともすような生活がずっと続いていました。私が家族に捨てられたのは……たしか、三歳になった年の事だってでしょうか。美味しい物を食べさせてあげると言われて、生まれて初めての外食に行きました。あのとき何を食べたのかは覚えていませんが、とても美味しかった事を覚えています。両親が優しかった事。温かかった事。初めて感じた満腹にまぶたが重くなった事。………目が覚めたら、山の中に捨てられていた事」


「…………………」


「あの時は本当に怖かった。周りを見渡せば吸い込まれそうな暗闇。見えない石に足をとられながら、小枝に腕を引っ掻かれながら、私は精一杯両親の名を呼びました。呼べども呼べども返事は無い。幼かった私はこの暗闇が声を吸ってしまうのだと考えました。二人に会うには見つけるしかないと、愚かにもそう考えました。道なき道を行き、ときには滑落しながら夜の山道を歩きました。ですが、三歳の子供の体力なんてたかがしれています。歩き疲れた私は倒れ込むように気を失ってしまいました。冷たい山の中で、枯れた木の根元に……。そして、目が覚めたら知らない家の中にいて、ベッドの中に寝かされていたのです」


「知らない家の中。それが桃園家の別荘……とか、という事かい」


 僕の問いにアイツはこくりと頷いて話を続けた。


「桃園家の別荘は本当に広くて、豪華な家具があって、天国のようでした。私は本当に死んでしまったのかと思ったくらいです。別荘には同年代くらいの女の子がいました。その子は病を患っており、十歳を迎える事が難しいという事でした。頬が痩せて、眼に力が無いように見えました。でも、健常な私よりもずっと明るく朗らかな子でした。言葉は分からずとも子供同士ですから身振り手振りで言いたい事は伝わります。私たちはすぐに仲良くなりました。彼女は私を帰したくないと駄々をこねてあの人たちを困らせていました。私は両親の事が心配でしたから帰りたかったのですけど、でも、あの人たちは先の事を考えていたのでしょう。私をメイドとして日本に連れて帰ったのです」


「…………はぁ?」


 話がいきなり飛んだように思って僕は怪訝な顔をした。


「まあ、誰でもそういう反応になりますよね。私も意味が分かりませんでしたから」


「一個確認したいんだけど、本当に桃園家のやったことなんだよね? 立派な誘拐なんだけど?」


「両親が警察に通報してくれればそうだったでしょう。けれど私は……」


「……………………」


 アイツはこほんと咳払いしてから話を続けた。


「こうした桃園家の悪事……というのが正解なのでしょうか……それはすべて桃園花凛を生かしておくためのものでした。さきほども述べたように桃園花凜は10歳になる事ができません。いえ、できませんでした。桃園家の当主であり桃園製薬の代表取締役のあの人は桃園花凜に婿をとって会社を裏から牛耳るつもりです。そのために桃園花凜は生きていなければいけない」


「……………………」


「あの人は私を花凜さんの付き人にしました。生活習慣を学ばせて一挙手一投足に至るまでを完全にコピーした人形に仕立て上げるためです。本物の花凜さんが亡くなってしまうと知ったあの人は冷酷にも替え玉を用意することを考えたのです。言葉遣いも性格も思考も似通った替え玉を用意して、花凜さんが亡くなった後もこれまでどおり学校に通い変わらぬ生活が送れるように……その替え玉が、私です」


「……………………」


 まるで映画のあらすじでも聞いているような気分だった。興味がある映画ならまだ良かったけれど、あいにく僕は興味が無い。へえそうなんだ。それくらいにしか思わなかった。


「まあ、あんたが桃園花凜じゃない事は初めから分かってたけどね。で、そんな話をいまさらしてどうするの。緊急事態ってのは?」


「…………何も思わないんですか? 今の話を聞いて」


「別に。同情はしてやるけど、その過去を聞いて僕がどうこうできる事なんてないじゃないか」


「たしかに過去は変えられないかもしれない。でも、未来は変える事ができます。私は、あの人の操り人形のまま生きるつもりは無い」


「じゃあどうするの。まさか桃園花凜の復讐をするとか言い出さないよね」


 このおこちゃまに限ってそんなことはできないだろうと高をくくっていたが、コイツはニヤリと口元を吊り上げて笑った。「……フフ。さあ、どうでしょう?」


「………君が何をしようと君の勝手だけどさ。いいかげん緊急事態について話せ。僕だって暇ではないのだ」


 僕は肩をすくめてマグカップに手を伸ばした。すると、アイツも思い出したみたいにコーヒーを手に取った。一瞬見せた悪魔みたいな表情はすぐに掻き消えた。


「そうですね。私にもそれなりに目的というものはありますが、さしあたっては無事に高校生活を終える事が第一の目的です。緊急事態というのは、その高校生活が危うくなるという意味でして………つまり、あなたにしか頼めないというのはこういう所でして………」


「また煮え切らないな……どんだけ引っ張るつもりだ?」


「じゃあ、言いますけど………笠倉くん。私と旅行に行きませんか?」


「………は?」

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