第44話
「旅行ですよ。旅行」
「行かない」
僕が断ると、アイツは「でしょうね」と言ってため息をついた。「そう言うと思いました。でも、来ていただかないと非情に困るんです。桃園花凜の友人に私のことがバレたら、ちょっと面倒な事になるんですよ」
「それこそ僕の知った事じゃない。桃園花凜のご両親は助けてくれないのか?」
「助けようがないんですよ。旅行先は花凜さんの友人の実家が営む高級旅館で、たぶん、私は彼女に肌を見せる事になる……」
そう言って俯いて、腕をかばうような仕草をした。古傷や
僕は気の毒に思った。しかし、黒沢未亜の件を抱えた僕には旅行なんて望んだとしても行けないのが現状である。
「あんたが実は男だっていうなら確かにマズイかもだけど、別に、風呂くらい一緒に入ってやればいいじゃないか。タオルで隠すとかさ」
「それが出来ないから困ってるんでしょ! ……えっと、こほん」
「肌を見せられない理由があるって事でいいのか? それがきっかけで桃園製薬の取締役ならびにあんたが追い詰められるようになる理由が?」
「まあ、簡単に言うと、そういう事です」
ようやくアイツは頷いた。
「僕に何をさせるつもりだ?」
「簡単ですよ。私が香月さんとお風呂に入る段階になったら声をかけるだけです。あの人たちも私が肌を見せられない理由は知ってますから、良いように計らってくれるでしょう」
「なるほどな。僕に協力する気持ちがないことを除けばシンプルで簡単な話だ」
「だから……!」
そう言って彼女は衝動を押し殺すように俯いた。
意地の悪いやり取りを続けていくうちにだんだんとコイツの本性が表れてきた。彼女は今までイニシアチブをとる立場に立ったことがないのだろう。誰かに用意されることはあっても、自ら用意し自ら立った経験は無いように見える。今だってそうだ。顔を真っ赤にして握りこぶしを作って「どうして伝わらないんだ!」って顔をしている。
こんな幼児など手のひらで転がしてしまえる。
やっぱり僕の計画に彼女は不要だ。
僕は席を立ちあがると財布を取り出して言った。
「無理だって言ってるだろう? 申し訳ないが他をあたってくれ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「待たないね。隠し事はいつか暴かれる運命。人を巻き込めば巻き込むほど悲劇的に暴かれるものだよ。痛い目を見るなら独りで見てくれ」
「待ってください!」
アイツは何を考えているのか人前で手をつかんできた。品性の欠片もない鷲掴みでむんずと捕まえると「あなた以外にいないんですよ!」と、カフェ中に聞こえるような声を出す。「あなた以外に頼れる人なんていないんです……お願いです……」
「……………………」
「……………………」
「そんなにバレたくないんだ?」
「…………はい」
「……………………」
僕はソイツの顔をジッと見た。そこに彼女の弱さ、
人に見捨てられることを恐れる3歳の女の子がそこにいた。
秘密がバレるのが怖いなんて建前にすがって本音を認めようとしない小さな女の子だった。
肌を見られたくないとかの方は、結局コイツがどうにかするだろう。数日前に怪我したとか言えばいくらでも誤魔化せるし、それを思いつかないヤツじゃない。どんな困難だろうと、一人で解決できるものなら簡単に乗り越えてしまう強さがあると僕は思う。でも、人に捨てられたくないという思いは一人ではどうしようもできないものだ。
それはまるで氷が
小宮の一途で健気な思いにあてられたのか。中井さんの幼い強かさにあてられたのか。コイツはみるみる変わっていった。
融けていった。
人との触れ合いが生んだ光が同時に影を生んだのだ。
光は氷を融かしていった。ただ淡々と人の相談に答えていた頃は氷塊のようにぶ厚かった氷が、今では池に張る薄氷のように脆くなった。
コイツはいま、その薄氷が割れないように必死に繋ぎとめているのだろう。
これまで守ってきたものが流れ出してしまわないように。桃園花凜という氷で包み込んできた中身があふれ出さないように。脆くなった氷では
「…………………………」
正直、その氷を守りたいなら僕の手を取るべきではないと思う。氷を厚くするのは孤独だ。誰とも交わらない孤高の道を選んで、寂しく厳しい環境に身を置いてこそ氷は守られる。だというのにこの幼児はあべこべに行かないでくれという。
自分の要求が矛盾していることに気づいていないのか?
彼女のためを思うなら手を取るべきではない。高校生活を乗り切った後に始まるという目的のためにもコイツは一人で生きる術を身に着けるべきだと思う。
だけど、この状況………
……どうみたって別れ話を受け入れられない彼女と突っぱねる彼氏のような構図じゃないか。
「……わかったよ。できる限りのことはする。だが、無理なものは無理だからな」
そう言って席に戻ると(…………阿呆なのか?)コイツは顔をほころばせて「よかった………」とつぶやいた。
彼女は何がしたいのだろうか。僕には分からなかった。
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