第26話


『スピネル』から出るころには夕陽が沈み始めていた。これからどんどん暗くなるだろう。夏の夕暮れは短いのだ。


 帰りの電車の中で、笠倉くんはボソッと呟いた。


「あの火事は、本当は起こらずに済んだんだ。僕が阻止できなかったからあんなことになってしまった。あれは僕のせいだ」


「渡瀬さんの事ですか?」


「………………」


 彼はそれっきり口を開こうとはしなかった。


 それから十五分くらいで電車は駅に着いた。電車は人でいっぱいだったけれど、まだ人が入ってくる。これ以上入ったらパンクしてしまうのではないかと思われるほどだ。ここは都心の近くだから、当然だ。


「それでは、私はここで」


「そう。さようなら」


 私はお別れの挨拶をして降りた。人波に逆らって進み、電車を出たところで一息つく。夏の電車はムシムシするからあまり好きではない。


 後はこのまま帰ればよかったのだけど、私はふと振り返った。渡瀬さんの話を聞いたからだろうか。笠倉くんの沈んだ様子が気になって仕方がなかった。アレを放置して帰ったらきっと夢に出てくるだろう。いつもいつも変な夢を見ているのに、これ以上彼に汚染されるのは御免だ。笠倉くんは人混みに潰されてしまいそうなくらい消沈しているように見えた。私は笠倉くんの手を取って「一緒に来てください」と言って無理やり電車から引きずり出して、近くまで送ってくれと頼んだ。


「夜道は危険ですから、ボディーガードが欲しいなぁ」


「それ、僕かい? もっと適任なヤツがいると思うんだけど」


「でも、笠倉くんのおかげで帰るのが遅くなってしまったんです。これから夜になって辺りは暗くなるでしょう。私みたいなか弱い女の子が一人で帰るなんて、怖くて怖くてとてもできません。こんなときに頼りになる男の人がいてくれたらなぁ」


「……………」


     ☆ ☆ ☆


「で、なんでいきなり送ってくれなんて言い出した?」


「さっき変な事を呟いたでしょう?」


「昔を思い出しただけだよ。変な事とは失礼だな」


「あのときのあなたがあまりにも寂しそうだったので、これは話を聞いてあげる必要があるな~と思いましてね」


「余計なお世話だ。僕はもう割り切っている。いまさら聞いてもらう事も無いよ」


「そうでしょうか。ではなぜ、沈んだ顔をしているんです?」


「……………」


 笠倉くんは静かに顔をあげて空を見た。でも空を見ているとかじゃなくって、何か別のものが見えているような遠い目をしていた。


「いつだったか、彼女がいるって言った事がありますよね。あのとき笠倉くんは付き合えるようになったという言い方をしていました。さっきのオレンジジュースのことと併せて考えると、自分が大人になったから付き合えるようになったのだという意味で言ったのではないでしょうか」


「………だとしたら、どうするの」


「渡瀬さんが本当に好きだったんですね」


「……昔の話だよ」


 フンと鼻を鳴らして笠倉くんは歩き出した。


 私は、その背中が小動物みたいに小さく見えた。ついつい構ってしまいたくなる可愛さというか、手元に置いて愛でたくなるというか、とにかく、小動物的可愛さを笠倉くんに見出した私は、ギュっと、背中から抱きしめた。


 あらかじめ断っておくけれど、決して、恋愛感情があったわけではない。むしろ私自身が癒しを求めて抱き着いたのである。それだけは間違えないでいただきたい。


 笠倉くんは苦虫を噛み潰したような声で「うげっ」と言った。


「強がらなくってもいいんですよ。寂しいときは素直に言えばいいんです。お嬢様もすぐに強がる人でした」


「誰の事だい? お嬢様ってのは」


「さあ? 昔の話、ですよ」


「ふん」


 抵抗されなかった。警戒する子犬のようにジッと固まる笠倉くんが面白くて、私は、頭を撫でてみた。


 幼い頃の私にとってあの人は母親のようであり妹のようでもあった。私に家族と呼べる人がいるのなら、お嬢様こそ唯一の家族。私はお嬢様を慰めたときのように笠倉くんに優しくした。


「結婚してもいいよって言ってくれたんだ」と笠倉くんが呟いた。


「大人になったら結婚してもいいよって。でもさ、もう、無理なんだよね」


「………そうですね」


「亡くなった人は戻ってこない。それは分かってるんだけどね」


「………………」


 僕は一生コーヒーを飲めないままかもしれない。と、笠倉くんは寂しそうに言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る