第25話
駅前から商店街方向に向かい、裏路地に入って少し歩いたところに笠倉くん行きつけのお店はあった。『スピネル』という隠れ家的な雰囲気のステキなお店だった。レンガ敷きの裏路地の雰囲気にあう木造の外観で、薄い黄土色の壁に黒くて太い木が張り巡らされている。中世ヨーロッパを思わせる外観だった。カウンターでコップを拭いていた初老の男性が頭を下げて無言で挨拶をしてくれたのでお辞儀をする。
「あの人は店長の横山さんだよ」と笠倉くんが教えてくれた。
店内は少し狭い。七人掛けくらいのカウンター席と四人掛けテーブル席が3つ。二人掛けのテーブル席が1つあるだけだった。笠倉くんはまっすぐ店の隅にある二人掛けの席に向かった。照明は暗めだけれど温かいランタンの光。コーヒーの良い匂いが漂う店内は物語の世界に迷い込んだようである。
「マスター。いつもの頂戴」
「あれ、メニュー見ないんですか?」
「ここには何回も来てるからね。頼むのも同じものだけだから」
「ふぅん……私はブラックコーヒーをお願いします」
横山さんは静かに頷くと豆を選び始めた。
「いつものって注文しましたよね。よくここへ来るんですか?」
「まあ、常連ってほどじゃないけどね。何かあった時はここへ来るようにしてる」
「ふぅん、今日はどうして?」
私が問いかけると小説を取り出した手を止めて、笠倉くんは少し考えるような仕草をした。そうしてぽつりとこう呟いた。
「あの人の事を思い出したから」
どこか遠くを見つめるような目をしていた。彼の顔に初めて表情が現れたように私は感じた。
ほどなくしてコーヒーが運ばれてきた。白いカップの中でまるで宝石みたいに輝いているコーヒーから芳醇な匂いが立ち昇っている。一口飲んでみると、コクのある味わいの中にかすかに酸味が感じられる。舌の上で踊るように混ざり合うコクと酸味が味に厚みを増していて、たった一口でチョコレートを食べたような充足感を覚えた。
「美味しい……」
「そりゃそうだよ。横山さんは本場イタリアの大会で優勝するような人だもの」
「それはすごいですね。……でも、笠倉くんのそれは、コーヒーなんですか?」
「まあ、オレンジジュースだよね、どう見ても」
「ええ、オレンジジュースに見えますね」
私たちの会話が聞こえたのか横山さんがジュースのボトルを掲げてみせた。果汁百パーセントのちょっと高いヤツだった。いつものを頼んでどうしてジュースが出てくるのだろう? 私はとうぜん訊ねたけれど、笠倉くんはさも当たり前みたいに「だってコーヒーが飲めないんだもの」と肩をすくめた。
「ここ、いきつけなんですよね?」
「そうだよ。悪い?」
そう言って笠倉くんは小説を読み始めたではないか。なんなんだコイツは。
ショッピングモールで書店を出た時に笠倉くんに嫌味を言われた事を思い出した私は、あのときの仕返しを思いついた。「お店にとっては、それこそ営業妨害なのではないでしょうか?」
コーヒー専門店に来ていつもジュースを頼むなんて空気を読めないにもほどがある。我ながら会心の一言だと感心したけれど、意外にも店長の横山さんが擁護したではないか。
「笠倉くんのは特別なんですよ」
「特別、ですか?」
私がカウンターの方を振り返ると横山さんが席の近くまで来て、一枚の写真を見せてくれた。
「ここに映っている女性。
写真には『スピネル』の店内と二人の男女が映っていた。横山さんは黒髪で鼻の下にヒゲをたくわえていた。隣の女性は20代くらいだろうか。短く切りそろえた茶色い髪が毛先のところでカールしている。優しそうな笑顔を浮かべていた。この人が渡瀬さんだろうか。
「でも驚いたよ。君がこの席に友達を連れてくるなんて思わなかったな」
「友達というか……まあ、たまたま一緒にいただけです」
「そうかいそうかい」
二人の話を聞きながら写真を眺めていた私は、ふと違和感を抱いた。「この店内……内装が少し違うようですけれど」
横山さんは「うん」と頷いて、ここは二店目なのだと教えてくれた。
「前の店で火事が起きちゃってね、立て直すには新築と同じくらいかかるって言われたからアッサリ引っ越すことにしたんだ」
「そう、だったんですか。それはお気の毒に」
「でも、一番辛かったのは彼だと思うよ」
横山さんはちらりと笠倉くんを見た。「彼、渡瀬さんの事をとても好いていたからね」
「へえ、笠倉くんが?」
笠倉くんが顔をしかめたけれど横山さんは気づいていないように話し続けた。
「うん。いつもお母さんと一緒にうちに来ていたよ。お母さんがコーヒーを飲む横で笠倉くんはオレンジジュースを飲んでいた。もう十年も前になるかな。あの頃はまだ苗字が変わる前だったかな。彼は渡瀬さんにとても懐いていてね、自分もコーヒーが飲みたいと言い出したんだ。お母さんが飲んでる物を飲んでみたくなったんだろうね。それを彼女は分かったと答えて、いつものオレンジジュースを出した。あなたが大人になったら私がコーヒーを淹れてあげるね。なんて言ってね。懐かしい。本当に懐かしい」
「笠倉くんて、意外とマセた子だったんですね」
「そうだよ。彼はずいぶんと生意気だった」
「……否定はしませんけど」と笠倉くんが不服そうに口を挟んだ。私は無視した。
「昔の笠倉くんってどんな子だったんですか?」
「んー、そうだねぇ。今よりは表情が豊かだったかな。いつも何かを欲しがっていたよ。自分も大人の一員だみたいな顔をして、僕にもズケズケ物を言う子だった。渡瀬さんに向かって結婚してくれなんて言ったこともあったかな。スピネルのマスコットみたいだったよ」
「母のお出かけに付いて行っただけです」
「口は、昔の方が良かったね」
「…………」笠倉くんは閉口した。これ以上墓穴を掘る前に白旗をあげるつもりらしい。
横山さんはクスクスと笑って天井を仰いだ。「もし彼女が生きていたら、きっと素敵な大人になっただろうな」
「………………」
渡瀬さんは火事で命を落としたのだと、笠倉くんが帰り際に教えてくれた。
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