第9話


 小宮さんの家を出るころには空が薄く黄色がかっていた。薄い水色のことを空色なんて言ったりするけれど、私は夕方の空の方がよっぽど空色に近いのではないかと思う。西日が溶け込んだ白に近い空の色はなんとも言えない解放感を与えてくれる。きっと雷鳴なんかがとどろくと爽快だろう。


 私は駅に向かった。


 今日は色々な事があって疲れてしまった。1日小宮さんと二人っきりになるなんてことは今まで無かったから心身ともに疲れ切っている。あの息を吸うように切り替わる話題の嵐に付いて行くだけでも大変なのに、さらに料理の指南までやらされるとは……。でも不思議と嫌な気分ではなかった。台風一過で晴れ間がのぞくような。お祭りの後のような満足と寂寞を私は感じていた。


「お礼が上手くいくと良いんですけれど……小宮さん、大丈夫でしょうか。本番は自分で作りたいって………心配。でもまぁ、失敗しても笠倉くんが食べるんだから、別に気にしなくてもいいか」


 帰り道に公園を見つけたので立ち寄ってみる事にした。その公園は小さな野原を切り取ったかのようにのどかで、短く切りそろえられた芝生が一面に生い茂っている。二階建ての家くらい大きいすべり台と奥の方でぼよんぼよんうごめいている白い地面(たぶんトランポリンだろう)の他は、遊具は見当たらなかった。もうすぐ夕飯時ということもあってか、家族に手を引かれて帰る子供の姿が目立つ。


 私はすべり台に登ると街を見渡してみた。色とりどりの屋根が日の光に照らされて飴玉のように光っている。私のマンションから見える夜景よりもずっと綺麗だ。この街に住めたらどれほど素敵だろうか。美味しそうなお家に住んで美味しいお菓子を作るのである。そうして小宮さんに振る舞ってあげるのだ。


 ……そんな未来もあったかもしれないけれど、私にはなすべき事がある。


 使命を捨てて逃げるほどの魅力は感じなかった。


「おや、珍しいのがいる」


 ふいに背後から声が聞こえてきた。


 振り返ると笠倉くんがいた。


「あなたこそ珍しい所で会いますね。ここにお住まいなんですか?」


「まさか。ひいらぎくんの家に行ってたんだよ」


「柊……? ああ、あの変な頭の」


 ひいらぎ裕也ゆうやは同じクラスの男子生徒だったと記憶している。野球少年のような坊主刈りの頭に幾何学的な図形の剃りこみを入れた、特徴しか見当たらない男だ。彼も陰キャであるけれど人当たりは良い方で、笠倉くんを陰の陰キャとするなら柊は陽の陰キャと言えるだろう。


 正直あまり良い印象はないけれど、笠倉くんより扱いやすいから嫌いではない。


 笠倉くんは柱にもたれかかって「それで、桃園さんはここで何を?」とこちらを見た。


 私もどこかに落ち着こうと思って、すべり台の降り口(という表現が正しいのかは分からないけれど)に座って街を眺める事にした。


「それは秘密です。あなたに教えてしまうともったいないですから」


「あっそう。まぁ、興味はないんだけどさ」


「ならどうして話しかけてきたんです」


「習慣だから。ここに来るのが」


「習慣?」


 また変な事を言う。一人で公園に来る習慣なんて不審者以外の何者でもないではないか。


「柊くんの家に行ったあとにね、ここに来て街を眺めるんだよ。そうすると自然と心が落ち着いてきて帰ろうって思えるようになるから」


「心を落ち着ける必要があるんですか? 楽しいならそのまま帰ればいいのに」


「一人暮らしをしているとね、楽しい気分のまま家に帰るわけにはいかないのだ。ほら、家の中って誰もいないと暗いだろう? あんたは自分で電気を点ける寂しさを味わった事なんて無いだろうけど、それは楽しい気分を吸い取ってしまう悲しい習慣なんだよ」


 と言って、笠倉くんは街に目をやった。「この街は楽しいね。電気が点いている家がいくつもある」


「一人暮らしなんですか? 高校生なのに」


「うん。一度心を落ち着けてから寂しくなる方が落差が少なくて済むだろう? だからここに来ることにしている」


「へえ……」


 驚いた。まさか笠倉くんも一人暮らしだとは。思わぬところで仲間が見つかった嬉しさから、つい、共通点を探ろうとした私は「家族はいらっしゃらないんですか?」と訊いてしまった。


 それがまずい事だと悟ったのは、笠倉くんが「家族か」と吐き捨てるように言った後だった。


「いないよ」


「そう、なんですか」


「うん」


 それっきり会話が途絶えてしまった。


 笠倉くんは話したくなさそうに俯いているし、私も傷口を広げるつもりはなかったから黙って街に目を戻した。


 そのまましばらく無言のまま過ごした。


 私は小宮さんの事を考える事にした。


 小宮さんは笠倉くんに恩返しがしたいと考えている。恋はしていないと言うが、しかしあの様子は間違いなく笠倉くんに恋をしている。笠倉くんはきっと家族の温かさを求めているから、その優しさに心打たれるに違いない。この間の好きなものの件もそうだ。彼は寂しいのだ。だから交友関係を増やそうとしないのだろうし、私にもツンケンするのであろう。そんな彼の心を溶かすのは一途な優しさしかないと私は考える。


 事によっては、私の恋愛相談のレパートリーが増えるかもしれない。実例があればより中身のある相談ができるであろう。そうしてその評判は私の信頼を確固たるものにするに違いない。


(これは小宮さんに頑張ってもらう必要が出てきたぞ……)


「なにか、良からぬことを考えてない?」


「えっ!?」


 いきなりそんなことを言われてビックリした。


「悪い笑いが浮かんでるけど、僕に家族がいないのがそんなに面白いのか」笠倉くんが怖い顔で睨んでくる。


 私は慌てて弁明した。


「いえ、違います。私も一人で暮らしているから、少し共感できるなと思っただけです。私も、その……捨てられたも同然ですから」


 慌てすぎたせいか、およそ私らしくない弁明になってしまった。もっとスマートに言えたはずだし、私の境遇を明かす必要さえなかったはずだ。こんなことではもっと詰められてしまう。事によっては弱みを握った笠倉くんがゆすりたかりをしないとも限らない。またやってしまった。


 私は後悔したが、意外にも笠倉くんはこんな事を訊いてきた。


「両親に新しい家族は?」


「いない……と思いますけど」


「そっか、なら、まだいいね」


「まだ。って、どういうことです?」


 笠倉くんは私の質問には答えず、ただ寂しそうに鼻を鳴らした。

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