第7話


 キッチンは血の海と化した。なんということだろう。小宮さんは戦慄を覚えるほどに料理が下手なのであった。皿は割れ、食材は床に散らばり、血の滴る包丁が壁に突き刺さっている。事情を知らない人が見ればホラー映画の撮影現場か殺人事件の現場にしか見えないだろうし、事情を知っていても命の危険があった事は否定できない。


「えっと……お弁当のメニューは決まった事ですし、お片付けを始めましょうか」


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」


「ああ、顔を触らないでください。血がついてしまいますよ」


 小宮さんの手は絆創膏でぐるぐる巻きになっていた。もう肌が見えないくらい絆創膏で覆っているというのに血が溢れてくるから心配でならない。「私は料理なんてしない方がいいんだぁ……」と、すっかりしょぼくれてしまった。


「そんなことはありませんよ。ただ……ちょっと……手元がおろそかになってしまっただけですよ」


「そんな気休め言わなくていいよ……」


「気休めなんかではありませんよ」


 実際、ケガのほとんどは不注意と焦りによるものだった。ジャガイモが硬くて無理やり切ろうとしたら包丁が跳ねたとか、玉ねぎのみじん切りをしようとして雑に切ったら指を巻き込んだとか。料理が苦手な人が上手くやろうとして失敗する典型的なパターンを小宮さんはコンプリートしていた。


「慣れたらきっと大丈夫ですよ。私も料理し始めの頃はよくケガをしてました」


「気を遣わないで……余計に悲しくなるから………」


「本当に、私もはじめの頃は苦労したんです」


 私はアレコレ失敗話をして慰めてみた。あの人たちは味にうるさくてどんなに頑張っても褒めてもらえることはなかった。娘という肩書きをもらったはずなのに使用人のような扱い。不味ければ身体を打たれる。少しでも不手際があったらネチネチとつつかれる。思い出すだけでも腹が立つような人たちだったけど、最高のプレゼントをくれた人たちでもある。今の生活は彼らからの唯一の贈り物だ。


 もちろん痛い部分や胸が痛くなる部分はぼかして、思いつくかぎり話して聞かせた。油が飛んで火傷をしたとか、醤油の蓋が外れてキッチンが醤油まみれになったこととか、砂糖と塩を間違えたなんてベタな話もした。友達を励ますなんて経験は初めての事だったから少し調子に乗ってしまったかもしれない。話し過ぎたと気づいたときには小宮さんの顔が真っ赤になっていた。


「プクク……れんれんも、そんなときがあったんだね」と、小宮さんは笑いをこらえているせいで頬袋いっぱいにドングリをため込んだリスのような顔をしていた。これはたいへん屈辱である。


「まだ9歳とかの頃ですから、そりゃあ失敗もしますよ」


「そっかそっか、あのれんれんがねー」


「なんですか?」


「ねえねえ、他にはないの? れんれん可愛いエピソード!」


「な、ん、で、す、か?」


「……なんでもないデス」


 元気を取り戻した小宮さんは再び包丁を握りしめた。もう山のように料理が出来上がっているのにまだ作るつもりだろうか?


「いったいそのやる気はどこからくるんです」と訊ねると、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに小宮さんが振り返った。


「笠倉はね、あたしの初恋の人なんだよ! 出会いはそれはそれは衝撃的で、とってもかっこよかったんだぁ」


「笠倉くんが初恋の相手?」


 あの不愛想で生意気で人を食ったような笠倉くんが小宮さんの初恋の相手だって?


「あ、信じられないって顔してるね?」


「そりゃあ、まあ」


「ふ~~ん」と、小宮さんは拗ねたように顔をしかめたけれど、私の反応は当然だと思う。高校生で初恋というのも遅いと思うし、相手が笠倉くんならなおさらだ。「いったいどこを好きになったんです?」と訊ねると、小宮さんは衝撃の一言を放ってから、こんな話をした。


「あたしね、レイプされたんだ」


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