第3話


「嫌だって!」と小宮さんが手を払った。強い拒絶を示されたことで虫の居所が悪くなったのか、男子は一歩踏み込んで腕を掴み取ろうとしたが、小宮さんが身をよじるよりも早く「んぎゃ!」と汚い悲鳴をあげて転んでしまったではないか。


「おい、僕の消しゴムを蹴飛ばすなよ」


 見れば、笠倉くんが不機嫌な顔をしていた。


 何が起こったのか瞬時に理解する事は出来なかったけれど、教壇の方に転がって行った消しゴムを見て、なんとなく察しはついた。ガラにもなく私たちを助けてくれたのだろう。あの笠倉くんが。


「あなたの消しゴム……あそこに転がっていきましたけど」


「サイアク……上履きの跡付いてんだけど」


 私が指をさすと彼はぶつぶつと呟きながら消しゴムを拾いに行った。


 小宮さんは何が起こったのか分からないのか目をぱちくりさせていた。


「もしかして、助けてくれた……?」


「さあ、もしかしたら助けてくれたのかもしれません」


「え、もしかして良いヤツ……?」


 私たちは揃って笠倉くんの方を見た。すると彼と目が合った。


「……なに。僕なんかした?」


 いつも通り、不愛想だった。


「いえ、別に」


「そう。なんでもいいけど騒がしいのは嫌だからさ。次から気を付けてよね」


「ごめんなさい……って、私が謝ることなんですか?」


「小宮さんも、付き合う人間は選んだほうが良いよ」


「あ、うん……」


 それだけ言うと彼は席に着いた。ちょうどホームルームが始まる時間だった。教師が入って来たことでちょっかいをかけて来た男子も帰らざるをえなくなり、遠巻きに見ていた他の生徒たちも安心した様子だった。


   ☆ ☆ ☆


 1時限目は数学だった。私は聡明なので予習はバッチリしてある。山藤やまふじが教科書の話しかしない給料泥棒だから、予習をする事によって授業時間がまるまる自由時間になるという寸法だ。


「……というのが微分方程式の解き方です。それでは教科書の例題1を解いてみましょう。解けた人は前に出てきて、黒板に答えと式を書いてください」


 教室中の視線が黒板からノートに移る。それに合わせて私も視線を移し、ノートの端にパラパラ漫画を描いた。だってもう解いてあるんだもの。今日は、キャッチボールをしていると球が隕石のように大きくなって相手にぶつかる漫画を描こう。何をしても誰にも怒られない自由な時間。なんて素晴らしいんだろう。


「ふんふふ〜んっ」


 ところが鼻歌を歌いながら、投げた玉が巨大化する様子を10ページにわたって描いていると、ふいに紙屑が飛んできたではないか。ぐしゃぐしゃに丸めてあるノートの切れ端だ。開いてみると女の子の筆跡で『笠倉と仲良くなりたい。何でもいいから好きなものを聞いて』と書いてある。


 前の方から飛んできたように思い顔を上げると、小宮さんと目が合った。彼女は惚れやすい所があるからさっきの一件で彼に興味が湧いたのだろう。パチッと音がするようなウィンクをされても、困る。


「なんで私が……面倒くさい」


 しかし私には恋愛相談役としての立場があるので断るのは不自然だ。


「仕方ないですね」


 足を伸ばして椅子の底面をコツンと叩いて、笠倉くんが心底迷惑そうに振り向いたところにさっきの切れ端を見せた。


「ちょっとなに……はぁ、好きなもの?」


「らしいですよ。教えてあげたらいかがです」と私は言って、小宮さんの方に目配せした。


 これで私が聞きたがっていると勘違いされることは無いだろう。私が好意を抱いているのではなく、小宮さんのために手伝っているだけだと伝わったはずだ。彼はきっと恋愛の経験が無いだろうから小さなことでもフォローしないといけない。勘違いされたら大変だ。


 笠倉くんはメモを一瞥いちべつするとすぐに顔を戻して何かを書き殴った。そうしてビリリと破り取るとクシャクシャに丸めて、こっそり放り投げてきて……おでこに当たった。「痛いっ」わざとらしく呟いてみたけど無視された。


 なんだコイツ。


「……これくらい自分で渡せばいいじゃないですか。なんで私がかすがいにならなきゃいけないんです?」


 陰キャの使いっぱしりになるのはしゃくだけどいつまでも怒っているわけにもいかない。私はクールなのだから。


 教室に目を向ければ、顔を上げてぼんやりしている顔、手遊びをしている顔、例題が解けずに苦悩している顔など様々である。大半は解き終わっているらしいが、残っている数名は、置いていかれている事を察しているのか焦っていた。


 山藤が教室中に聞こえるように声を張り上げて、言った。


「解き終わった人も多いみたいですので、解けた人は黒板に答えと式を書きに来てください」


 私はすぐに立ち上がった。これは私が優等生である事を示す機会である。1円を拾うように地味な作業だけれど、こういう事の積み重ねが人望を形成していく。私はノートを手に取ると黒板に向かう。他に立ち上がったのは、眼鏡をかけた男子生徒と三つ編みの女子生徒。三つ編みの子は私の次に頭が良い子。眼鏡の方は数学が好きな変人だと記憶している。


 私はサッサと式と答えを書くと席に戻った。その途中で斜め前の席に座っている小宮さんのところに向かい、すれ違いざまに「これが笠倉くんの好きなものだそうです」とソッとメモを渡しておく。


 それで数学の時間は終わり。


「ねえ、ねえねえねえ!」


「小宮さん……どうかしましたか?」


「こっち、こっち来て!」


「えっ?」


 現国の準備をしていると興奮した様子で小宮さんがやってきて、私をトイレへと連れ出した。休み時間に一緒にトイレへ行く文化は私には理解できないけれど、女子にとって内緒話をする場所でもある事は知っている。小宮さんはメモをパッと広げると眼前に押し付けてきて「これ、これが本当に笠倉くんの好きなものなの!?」と驚いた様子で問いかけてきた。


「まあ、本人がそうおっしゃってましたから……」


「え、めっちゃ可愛い……めっちゃかわいくね!?」


「何がそんなに……?」


 おっかなびっくりメモを読むと、そこには雑な手書きの文字でこう書いてあった。


『てりょうり』


「手料理……? 笠倉くんにしてはずいぶん可愛らしいですね」


「ね、めっちゃ意外だった!」


 あの偏屈陰キャに女心が分かるはずがない。こういうところに母性本能をくすぐられる人間がいることなんて理解していないだろう。体目当ての男は計算してかわい子ぶるものだ。でも、それは私くらいになると嘘かどうかすぐに見抜ける。笠倉くんはこれを面倒くさそうに書いていた。とても小宮さんを狙っているとは考えづらい。


 もし本心で書いているのなら意外と良いヤツなのかもしれない。


 少しだけ見直してもいいと、心の奥底で、ほんの少しだけ、そう思った。

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