ドールメイド

 親が亡くなって一番最初に買ったものは、実寸大の人形だった。通販サイトで買ったため、実物はまだ手元にはないが、非常に端正な顔立ちをした女の子の人形がいつかこの家へ来ることは確固たる事実だった。今までも欲しいとは思っていたものの、家族の目が気になって買えなかったため、母親と父親が亡くなったと聞いた瞬間に購入した。多少の罪悪感はあったが、病院から訃報が届いた時に思ったことは「これで口うるさく部屋から出ろと言われなくて済むな」ということだけだった。

 俺は家族からしたら厄介者でしかなかっただろう。何となく入った大学を二年で中退して、二十五歳になる現在までまともな職についていない。中退した最初の頃は親から文句を言われたが、辞めるに足る理由が自分にはあったのだと主張して、親の同情を引いていった。本当は、全く授業にも出なかった結果、単位が足りず三年に上がれないことが確定していたから、それを言い出すのが嫌で辞めただけなのに。

 親の同情は二年程度しか続かなかった。しびれを切らした父親が俺の事を𠮟りつけ、頬を張った日から俺と親との決別と共存が始まった。飯は毎日菓子パンがドアの前に置いてあった。だが、それだけでは足りず、深夜に親が寝てからコンビニへ食べ物を買いに行った。金は親のキャッシュカードを使っていた。母親は基本現金で買い物を済ませていたから、カードの利用明細を見ることがほとんどないことを知っていた。だから、ゲームの課金も、漫画も母親のキャッシュカードが元金だった。

 結局亡くなるまでそれを問い詰められる事は無かったのだから、母親はきっと気付いていなかったのだろう。知っていたのならきっと父親が俺を殴りに来たはずだから。だが、そんな男はもういなくてキャッシュカードでさえ俺が持っている。暗証番号はすぐに分かった。お互いの誕生日なのだろうということは母親のカードの暗証番号から推察できた。

 父親の口座には百万円ほどあったが、一生を過ごすには足りない。母親の口座の金はこの三ヵ月で使い切ってしまっていたし、俺がいつか働かなければならないことは分かり切ったことだった。だが、今までバイトすらしたことすらなかったような自分が、仕事をする姿を想像することは難しいことだった。


 三日後、注文していた人形が届いた。届いた荷物は玄関の前に置き配達されていて、配達業者の人が完全にどこかへ去ったのをエンジン音で確認した後、手早く家の中へ引きいれた。

 最初に感じたのは違和感だった。注文した人形は大体百六十センチくらいのはずだが、この段ボールはどう見てもそれほどの大きさはなかった。それに箱はやけに軽くて中からはゴトゴトと音がする。

 カッターでテープを切って箱を開けると、中には腕が入っていた。一瞬驚いたが、シリコン製らしい偽物らしさが、それを偽物、つまり人形の部品なのだと理解させた。完成品が届くと思っていたから、残念な気持ちと怒りが混在していたが、一つため息をついて心を落ち着かせた。

 中身の腕だけを取り出すと、その嫌に現実味のある柔らかさが、昔繋いだ手の感触を思い起こさせた。心臓が跳ねて鼓動が早くなった事を不快に感じながらも、その腕の先にある掌に自分の手を近づけた。近づくにつれ早くなる鼓動に合わせて、中学生の時に付き合っていた彼女の顔を脳裏にちらつかせた。細い指先に、当時とは全く変わってしまった自分の指を通して、恋人つなぎの形をとると、彼女の照れたような嬉しそうな、俺だけに見せたあの表情を克明に思い出すことができた。俺はその手を力強く握ると、早足で自室へ戻った。

 酷い悪臭のする部屋の中で、すべて吐き出すようなため息をつくと、人形の掌を眺めて再び彼女に会った時の事を思い出していた。それは成人式の事だった。中学時代の友人は誰一人来ていなくて、高校ではいつも一人だったから成人式は本当に退屈だった。行く気などなかったが、親が行けと煩くて行っただけだったため、帰ってしまおうと開会式の三分前に席を立った時の事だった。入口の方に彼女がいるのが視界に入った時、心臓が跳ね上がるのを感じた。今あの横を通れば彼女に話しかけてもらえるかも知れない。自分から話す勇気はなかった。

 早足で彼女の手前までくると、立ち止まりそうなほど歩幅を狭めて、彼女の横へ並んだ。石鹸の匂いと柑橘系の匂いが混じったような香りがした。当時とほとんど変わらない端正な横顔に見とれる自分に対して、彼女は俺の方を一瞥すらくれることはなかった。横を通り過ぎてからでさえ、彼女は俺の方を振り返ることはなくて、泣き出してしまいたいほどの情けなさを胸に抱えたまま帰路についた。


 翌日に届いたのは足だった。左腕、右足と来てその次の日には左足が届いた。その次は右腕が来るだろうと予想していたが、荷物が届いたのは一週間後だった。自分は短気な方だが、それでもこの一週間に特に怒りを感じずに済んだのは、日が経つごとにこの人形の部品たちが本物の様な艶めかしさを持ち始めたからだろう。朝起きた時にそれが目に入るとぎょっとするほどの現実感を帯びているのだ。そして、その部品たちは人形の下半身が届いたことで、さらに現実感と艶めかしさを得ることとなった。

 しかし、人形が完成に近づくにつれて、部品のままでいた方が自身の劣情が駆られるのだと気付いた。理由は何となくわかっていた。完成に近づくほど彼女の面影が見えるのだ。そこに沸くのは劣情よりも劣等感で、同時に過去に縋るしかない己の無力感が胸を貫くような痛みを伴って、どうしようもなく俺を襲うのだ。

 次の部品が届いたのは二週間後だった。だが、俺はもう部品なんて届かなくても良いと思っていた。姿があの時の彼女に近づくにつれて、自分という存在が嫌になるのだ。それでも、彼女を完成させることが義務であるような気がして、届いた荷物を開けた。段ボールの中には胴体があった。身体にはすでに左腕が装着されていて、顔以外はすべての部品が揃っていた。

 顔のない彼女の一糸纏わぬ姿に対して、俺は逃げ出したいほどの自己嫌悪に陥っていた。購入した人形の顔は、商品紹介の画像の時点では彼女の顔には全く似ていなかったが、彼女の顔が届くだろうという確信があった。

 俺は優しくその身体を抱いた。もちろん腕を回すことも拒否を示すこともなかったが、かつての彼女の温もりを思い出すことができた。最初で最後のハグは、彼女と手をつないだ日、誰もいない道の真ん中で彼女に抱きしめてもいいかと聞いた時だった。何となくだった。それが当時の俺が知る最大の愛の表現方法だったのも知れないし、単に劣情のためであったのかもしれない。当時の理由はどうであれ、彼女は俺の問いに対して明確な拒否を見せた。俺はそれが許せなくて、強く彼女を抱きしめた。彼女は腕の中で藻掻いて、右足で俺の足を蹴った。思わず腕の力を抜くと、彼女はするりと腕から抜けて、真っ直ぐ俺を見てきた。怒りの籠った失望の瞳だった。彼女は俺の右頬を強く俺を打った。その時、初めて彼女が左利きだと知った。


 顔が届いたのは次の日だった。玄関前に置かれた段ボールには質量以上の重さがあった。そして、箱を開けるには、それ以上の疲労感があった。中身はやはり彼女の顔だった。別段驚きはしなかったが、その精巧さには感嘆するものがあった。俺はその顔を身体に装着するべきかをしばらく悩んでいた。そうしてしまうことで、決定的な何かが壊れてしまうのではないかという恐怖心があった。

 本当に長い時間悩んで、俺はその顔を人形の身体と接着した。当時の彼女そのままの姿は俺をひどく後悔させた。俺を愛してくれた彼女はもういないのだと思い出して、心臓を絞られんばかりの痛みを覚えた。いや、そもそも彼女は俺を愛していたのだろうか。それが確かめたくて、俺は彼女の身体を抱こうとした。

 すると、彼女はその腕を動かして俺を跳ねのけた。尻もちをついた俺を彼女は見下していた。酷く冷たい表情はあの時のままで、そこには俺を思う気持ちなど微塵も感じ取ることは出来なかった。

 俺は人形が動き出したことに対する非現実感について、こうなるのだろうという予感があった。人形が彼女として存在した瞬間に、俺という存在は否定されるのだという、確固たる事実の様な運命を感じていたのだ。実際、彼女は俺を否定して、まさに俺の首を掴もうとその白く細い腕を伸ばしてきている。だが、このまま殺されるならそれでもいいと思えた。これからの人生で俺が得るものはきっと何もなくて、失うものだけが増えていくんだろう。それなら、ここでかつて愛した人に殺されたい。

 彼女は手を伸ばしてきて、俺の首ではなく、口をふさいだ。片腕は首に回されて、奇妙に抱き合う形を取った。彼女は真っ直ぐに俺を見て、何かを語りたそうだった。だが、言葉を失ったように目線を左下に下げてため息をついた。再度、俺の目を見て彼女は言った。

「地獄に落ちろ」

 それは彼女の声ではなかった。聞き慣れた母の声だった。そして父の声も混ざっているようだった。合成音声の様な奇妙な声は頭の中で反芻し続けた。口に当てられていた手が目を追い隠すように移動した後、彼女は込めれるだけの力を込めて俺の首を捻った。ゴキッという音がして、俺の意識は深く沈んでいった。かすかに残る意識の中、彼女の笑い声と石鹸の匂いがした。


 それが瞬き一回の間に見た俺の幻想なのだと、インターホンの音で気付いた。俺は人形を抱きしめており、人形はそれを拒否していなかった。体を離して顔を確認しても、それは全く彼女ではなくて、さっき見たものは俺が当時に残してきた後悔なんだと分かった。

 玄関を開けると、段ボールがあった。サイズも重さも、人形の首と同じだった。俺はそれを開けた。中には、母親の首と紙が入っていた。俺は驚きのあまり声も出せず尻もちをついた。動悸の激しい心臓と荒い呼吸のまま、再度箱の中身を覗き込んだ。そこにはやはり母親の生首と二つ折りにされた手紙の様なものがあった。

 俺はその紙を拾って中身を確認した。それは借金の返済を請求する用紙だった。その紙の下には「地獄に落ちろ」と書かれていた。絶望する俺に対してケタケタと笑う母の声が確かに聞こえてきた。インターホンが鳴った。続けて聞こえたぶっきらぼうなノック音は間違いなく配達員のものではなかった。

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