不浄と蛙
目が覚めると、私は個室のトイレにいた。身体全体にある倦怠感はそれ以前に何かがあったことを伝えるだけで、何が起きたかを教えてはくれなかった。霞がかかったようにはっきりとしない思考は具合の悪さのせいで正常に働いておらず、薄い記憶を辿ってみようと試みても、なぜ自分がここにいるのか判明しなかった。だが、私が一番疑問だったのは、たった一つしかないこのドアが決して開かないことだった。
この場所がトイレであると判別できたのは、私が便器に座っていることを確認したためではない。正面のドアも、辺り一面の白い壁も、黄色っぽい照明も見覚えがあったからだ。だから、ここは間違いなく自宅のトイレだと分かった。いつもと違うのは、ドアノブを回してもドアが開かないことと、貯水タンクから何か音が聞こえることだった。
音はくぐもっていて、何かしらの弦楽器の一番低い音が中で鳴っているような、人の嗚咽にも聞こえる音だった。気は進まなかったが、ここを出るための何かがあると信じてタンクのふたを開けた。中には水が貯まっており、底に何かいるのが確認できた。それが蛙であり、音の主であると理解するのに時間はかからなかった。。
中身が蛙だと分かって安心感にも似た落胆で肩を落としたが、その蛙がなぜそこにいるのかという疑問が湧いてきた。考えられるのは、私をここへ閉じ込めた誰かが、何らかの理由で貯水タンクへこの大きな蛙を放り込んだのではないかという推測だった。いくら考えても答えが出ないのは明白だった。未だに水の中で鳴き続ける蛙から何かを聞き出すことは出来ないのだから。
目が覚めてから数時間が経った。時間を確認していないから、感覚的な時間の経過でしかないが、とにかく時間が無為に経過した。その間に蛙は鳴き続けたし、ドアは開かなかった。意識は目が覚めた時よりは鮮明で、地面にスマートフォンが転がっているのを見つけることができた。
嬉々として開くと現在時刻は一四時二四分、日付は二〇二三年二月十五日だった。スマホの右上に目をやると充電が2%しかなくて、外部に連絡を取るにしても相手を選ぶ必要があった。だが、このトイレは決して暖かくはない。スマホは電源を消していても充電はじりじりと減っていくだろう。時間の消費は脱出手段の摩耗と同意義だった。
連絡を取る相手を考えた時に真っ先に出てきたのは両親だった。だが、両親と離れて暮らしているため、別の人へ連絡を取るのが良いと判断した。
思考を別の人物へ切り替えようとした時、トイレの水が流れた音がして、私は思わず立ち上がった。便器の穴の奥へ消えてゆく水を見て、貯水タンクの蛙が気になった。ふたを開けると、水は先ほどの3分の2程度になっており、底には蛙がいた。鳴き声は先ほどよりも鮮明だったが、私はそれよりもドアの奥から声が聞こえることが気になった。
このトイレは自宅のもので、このドアの向こうは間違いなく自分の家のはずだ。不審者か悪ノリをした友人が入って来たのか、真相を確かめるためにドアへ耳を当てると、酷くくぐもった声で男女が話し合いをしているのが聞こえた。内容は全く聞き取れなかったが、その声はどこかで聞いたことがある様な気がした。
ゲコ、とカエルの鳴き声がやけに大きくトイレ内に響くと、私の意識は一瞬トイレの方へ向いた。再びドアの向こうへ意識を向けると、声はしなくなっていて、人の気配は無くなっていた。
私はドアに寄りかかりながら友人の事を考えた。大学で出来た数人の友人たちに誰かに連絡を取れば、きっとこの状態を笑いながら助けてくれるはずだと考えた。早速スマホを取り出すと、充電は1%に減っていて、友人たちの中でも誰が最も助けてくれそうかを選ぶ必要があった。ラインで助けてと一言だけ送るよりも誰か一人に通話をかけて手早く状況を伝えた方が良い。
私は、大学内で最も仲の良い友人へ連絡を取ろうとスマホを開いた。その瞬間、トイレの水が流れる音がして、カエルの鳴き声がうるさいほど鮮明に聞こえてきた。続けてドアの向こうからの話声が聞こえてきて、私は友人へ連絡を取るよりも、ドアの向こうの声へ耳を傾けなければならないのだという義務感に駆られて、ドアに耳を当てた。
ドアの向こうの会話はまだぼやけて聞き取ることが難しかったが、誰が話し合っているのかを理解することは容易だった。それは聞き慣れていた声で、私の恋人のものだった。それに対して話しているのは、私の友人たちの声だった。
なぜドアの向こうに恋人がいるのか、という疑問よりも、恋人と友人たちが何を話しているのかということの方が私にとって重要な意味を持っていた。私はドアに耳を潰さんばかりに押し付けてその会話の内容を聞き取ろうとした。しかし、会話は聞き取れないのではなく、そもそも理解できないのだと分かった。完全に開き切らない口で言葉を発しているような、濁った言葉の羅列がドアの向こうにあった。
ため息をつくと再びトイレの水が流れる音がした。カエルの鳴き声は耳を塞がねばならない程に煩くなって、私はドアに当てていない方の耳を手で塞いで、騒音に堪えようとした。そうすると、ドアの向こうから聞こえる声が鮮明に聞こえて、その声はもはやドア越しに聞こえるものではなく、私の脳内で反芻する言葉となった。
「そうやって、いつも逃げてばっかり」
「お前、もういいよ」
「呆れた」
聞こえてくる言葉はすべてが冷たかった。落胆と失望が混じっていて、それがすべて自分に向けられた言葉だと思い出した時、部屋中が寒く感じて仕方がなかった。
私はドアから耳を離していて、震える身体を抑えるようにうずくまった。寒さに耐えるために身体に手を回すと、蛙の鳴き声があまりにも煩いし、耳を塞ぐと体の震えが止まらなかった。
地面に落ちているスマホの画面にはラインのトーク画面が開かれており、それは友人とのものだった。私はその画面を閉じてしまいたかったが、手を離すことができなくて逃げ出してしまいたいほどの無力感に苛まれた。
私は再びドアに耳を当てて片手だけで耳を塞いだ。自由になった片手でスマホを拾い上げると、友人とのトークが目に入ってしまった。
「誰もお前なんか助けないよ」
ドア越しで友人がそう言ったのがはっきりと聞こえた。私はスマホを投げた。放物線を描いたスマホはトイレの中に入ったが、水の音は蛙の鳴き声にかき消された。もう誰も助けになんて来なくていい、そう思った。
私は昔からそういう癖があった。何事も嫌になれば途中で放り投げたし、友人関係も嫌になるたびにリセットした。でも、捨てられるのは初めてだった。私の恋人は私とは反対の人だった。几帳面な性格だったし、人付き合いは深く狭い交友関係を築く人だった。でも私はあの人を愛していたしあの人も私を愛していると思っていた。
「もういいや」
その言葉だけが刺さって抜けない刃物の様に私の心を穿った。私はあの人に捨てられたのだと思い出すと、腹の中のものをすべて吐き出してしまいたくなるほどの嘔吐感が私を襲った。幸い近くに便器があったし、私はそこに顔を向けた。いや、便器が近くにあったのではなくて、私が便器の近くへ来たのだ。だからきっと、これは昨夜の再現なのだ。
この喪失感も倦怠感もあなたが残していったものだと理解できた。あなたは飽きたみたいに私を捨ててこの家を出ていった。だから残ったこの痛みだけがあなたを思い出すことができた。だが、同時にこれまで自分が捨ててきたものすら思い出してしまう。それを責め立てるように蛙は鳴き続けた。
「もううんざりだよ」
それが誰の言葉であるのか私は理解できなかった。自分が発した言葉であるようにも感じられたし、他人から浴びせられた言葉でもある様だった。ただ、明確なのはカエルの鳴き声は止んでいるという事だけだった。便器の中、汚物の海に沈むスマホを眺めて、私はそれを拾い上げた。電源は付かなかった。酷い悪臭の漂う部屋の中では、嘔吐物まみれのスマホは特別なものとして存在していなかった。
私はドアをノックした。返事もノックも返ってこなかった。ドアの鍵は開いていて、私はドアを開けた。綺麗に掃除された廊下にはまだ愛しい匂いが残っていて、私は膝から崩れ落ちるように座り込んで、しばらく立ち上がることができなかった。
嘔吐物にまみれたスマーフォンは台所で水洗いした。鼻を近づけるとまだ不快な匂いがするが、充電器を刺して少し時間を置くと画面が起動した。ロック画面からホームへ行くとすぐに設定のアイコンをタップした。慣れた手つきで初期化の設定を済ませると、すぐにスマホは黒い画面へ戻った。初期化実行中のパーセントが表示されていて、ひたすらそれを眺めていた。
ベッドに横になると、先程まであった倦怠感もゆっくりと消えていくのを感じた。このまま寝てしまおうと目を閉じた時、トイレの嘔吐物を流していなかったことを思い出した。ため息をついてベッドから立ち上がると、トイレへと向かった。
トイレの水を流すためのレバーに手をかけた時、ふと貯水タンクが気になって、その蓋を開けた。中に水はなくて、底に蛙はいなかった。私はレバーを奥へ捻った。水が流れて、蛇口から水が出てきた。バチバチと音を立てながら水を弾いて貯水タンクに水が溜まっていくのを眺めていても、心にある喪失感は満たされなかった。結局、蛙が出現することはなかった。私は興味を失って蓋を閉じた。
ドアを開けて廊下に出ると、綺麗に掃除されているのが無性に気に入らなくて、まとめられていた缶のゴミやチラシなどを床にばらまいた。あなたが来る前はこんなに汚かったのだと思うと、胸の奥が痛くて思わず蹲った。
俯いていると、散らばったゴミの中から確かにカエルの鳴き声が聞こえてきた。チラシの山から聞こえるそれを探していると視界がぼやけてきて、カエルの鳴き声も消えていった。一人ぼっちの家の中で私の嗚咽だけが響いた。
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