スロウ・フロウ・メロウ
車のルームミラーに映ったそれはナマケモノだった。後部座席の手掛けに器用にぶら下がったその生き物は、肉眼でその存在を捉えることは出来なかった。ルームミラーの中にだけ存在するナマケモノを見て、私は特別に驚くようなことはなかった。ただ、昨日と変わらない仕事があって、私はそれをこなすために車を走らせる必要があった。
会社に対して営業をかけるこの仕事は、毎日がひどく規則的だった。毎日同じような会社へ行って、毎日同じような話をする。たまに話を聞いてもらえる会社もあるが、ほとんどが門前払いだ。気が滅入るようなこんな仕事を私はもう何十年も続けている。
家へ帰れば、口を聞いてくれない娘と不愛想な妻がうんざりした顔で私を迎えてくれる。ほんの数年前までは娘は愛嬌があったし、妻は女性的な魅力を保っていたはずなのに、それが私の幻想だったかのように今は見る影もない。そう見えてしまうのは、私の意識の問題なのか、時間がそうしてしまったのか、それとも外部の何かが影響してしまったのか、私には分からなかった。ただ、娘が生まれてから私は自分の生活というものを殺してきた。あまりにも代わり映えのない日常の中で、私だけが取り残されていることは明確なことだった。
社用車に乗り込んで、ルームミラーを確認すると、やはりそこにはナマケモノがぶら下がっていた。同じ体制を保ったまま決して動くことはなく、にんまりと笑っているようなその顔はルームミラー越しに私を見つめている様で気味が悪かった。
それでも私は車を走らせた。昨日と同じ道、昨日と同じ会社、昨日と同じ会話、いつもと同じ帰路、どれもが退屈なほど七月八日と酷似していた。だが、明日は休みだからこの規則的な日々と一旦お別れできる。それは私にとって特別喜ばしいことではなかったが、曜日の感覚を失わないためには大きな意味を持っていた。
「お疲れさまでした」
「はい、お疲れさまでした」
事務所に書類を提出した私は、いつも通りの会話を済ませて帰宅しようとした。だが、今日は少し違った日だった。
「松田さん、ちょっと待ってください」
「え、はい。どうかしましたか」
「これ、日付間違ってますよ」
「あ、そうですか」
それくらい直してくれよ、とは思ったが、文句を言って険悪な空気を作るぐらいなら大人しくしたがった方が良い、それは私が働いていて学んだ事だった。私は返却された書類の日付を直そうと欄に目を向けた。そこには七月九日と記入されていて、間違いはないはずだった。
「あの、本当に日付間違ってますか」
「当たり前じゃないですか。今日は七月八日ですよ」
「え」
私は少々混乱したが、そもそも私が昨日の日付から勘違いしていたという可能性が頭をよぎって、すぐに冷静さを取り戻すことができた。一息ついて日付の欄を訂正すると、再度それを提出した。書類を受け取った女性は怪訝な表情をしていた。
あまりにも同じような日々が続いていたから、私がその違和感に気付いたのは再び日付の訂正を要求された為だった。今日も昨日と酷似した一日を過ごして、明日こそが休みなのだと思い一日を終わりにしようとした。日付は七月九日、間違いはないはずだった。
呆然とする私に向かって女性は力強く言った。
「今日は七月八日です。早く直してください」
周囲の笑い声など気にもならなかった。今日という日を繰り返している、その事実を私は受け入れる必要があった。とにかく私は日付を訂正して再度提出した。書類を受け取った女性は昨日と同じ表情で私を睨んだ。
家の中は仕事よりも不変だった。この中で私に興味を持つものなどおらず、私が興味を持つものもない。趣味なんてものはとっくの昔に摩耗して消えていたし、私物を出すと妻が明らかに嫌そうな顔をするからやめていた。それでも、もし今日という日が続くのなら、明日は何かやってみようか。そんな日は来ないはずなのだから。
私はコピー用紙を一枚取って、ボールペンで「明日は休み」と書いた。それを半分に折って枕の下へ仕込み、いつものように眠りについた。起きた時、この紙が無ければ、会社を休んでみよう。そして、久しぶりにギターを弾いてみよう。もし、明日が来なければ。
「行ってきます」
誰に向けたわけでもない言葉は、帰ってくることはない。それはいつもの事だった。妻は食器を洗っていて、娘は朝食を食べていた。いつもの朝、いつもの出勤、いつものスーツ。だが、向かう場所は会社ではなかった。
今日は妻の容体が良くないので休みますと会社に嘘をついた。後日、診断書を見せろと言われたが、そんな日は来ないのだから、どんなに適当な嘘でも良かった。妻と娘はきっと私がいつも通り出勤すると思っている。いつもそうしているのだから当然のことだ。だが、今日私が向かっているのは、かつて大学の友人たちとバンドの練習をしたライブハウスだった。
そこは昔から楽器の貸し出しをしており、貧乏だった私たちはライブハウスの店長の好意に甘えてそれを利用していた。電車やバスを利用して、だんだんとその場所へ近づくにつれて懐かしい思い出が溢れてきた。友人たちとは卒業以来連絡を取っていないことを思い出して、寂しい気持ちにもなったが、そういうものだろうと自分を納得させた。
ライブハウスのあった場所へ到着すると、そこは既に違う店になっていた。インドだかインドネシアだか、良く分からない専門料理店になっていた。残念だという気持ちはなかった、何となくそうだろうと思っていたから。到着したのが丁度昼過ぎくらいで、そこでカレーの様なものを食べたが、スパイスが効きすぎていて口には会わなかった。少し贅沢な昼食を済ませ、懐かしさを抱えて周囲を歩いてから帰ることにした。
帰りのバス、電車の中にはナマケモノがいた。周囲の人はそれに気づいていないようだった。にんまりと笑っているようなその顔は、私に対して常にある一つの事柄を問いていた。お前はどうしたい、そう言っていた。
逃げ出したいわけではない。けれど繰り返される日常は酷く退屈だ。いや、退屈であることは問題ではない。自分という存在がそこには不要であることを知るたび、痛いほどの息苦しさを覚えるのだ。誰にも必要とされないのは、単調な日々よりも苦痛だった。
私は家に帰らなかった。今日という日を繰り返すのならば、自宅のベッド以外で目を覚ました時はどうなるのかという不安に似た好奇心があった。だが、それ以上に帰ってこない私を心配して妻が連絡をくれることを願った。
チェックインを済ませたビジネスホテルの部屋は、なぜだか高揚感を掻き立てた。部屋のどこを見渡してもナマケモノはいなかったし、清潔感のある部屋はそこにいるだけで気持ちが良かった。
だが、それと同時に不安もあった、私がいつも寝ているベッドは自宅にあって、一日を繰り返す夜には部屋の隅にナマケモノがいた。今日はそれが見えないから、もしかしたら明日は七月九日になってしまうのではないかという不安があった。その不安をかき消すように、いつもより長く風呂に入ったが、疑念が払拭されることはなかった。
時刻はまだ九時にもなっていないが、いつもの癖でベッドの中に入ってしまった。充電器に繋いだスマートフォンは微動だにする気配が無くて、ため息をついた。もう寝てしまおう、そう思い目を瞑るとすぐに眠ることができた。
目を覚ますと、見慣れた天井があった。昨日私はビジネスホテルのベッドで眠りについたはずだが、今は自宅のベッドの上にいる。おかしな現象ではあったが、どこか安心にも似た納得感があった。
今日は北海道へ行こうと思う。ここから移動するとなると飛行機を使って到着は昼過ぎになる。着いたら寿司を食べよう、海を見てみよう、具合が悪くなるまで飲もう、そう決めた。
割高の当日搭乗券を購入すると、もう帰ることはないという気持ちをもって北海道へ旅立った。機内のどこにもナマケモノはいなくて、安堵している自分がいた。北海道をめぐっている際ですら、ナマケモノは全く私の目の前には現れなかった。それが自然なことだった。だが、それは不自然なことであるように感じてしまっている自分がいた。
函館のビジネスホテルの中、缶ビールを開け、面白くもないテレビを眺めていると、自分はいったい何をしているのだろうという嫌悪感に駆られた。年甲斐もなくはしゃいで、仕事や家族の事も忘れてこんな所へ来てしまって、馬鹿みたいだ。本当に馬鹿らしい。だから、目が覚めたら明日は会社へ行こうと思う。今日はいつか来る休日の予行演習だったのだと自分を納得させた。
そう考えた時、自分は一体いつまで今日という日を繰り返すのだろうという不安に駆られた。もしもこれが永遠に続いてしまうようなら、私はどうすればよいのだろうか。終わりのない日を思うと、気が狂わんばかりの焦燥感が全身を覆った。それを落ち着けるために缶ビールを飲み干した。気分は良くならなかった。
もう寝てしまおう、そう思って横になった時、スマホに着信があった。マナーモードにしていたスマホは机の上でガタガタと振動していて、私はそれを取らなければならなかったが、これから死にゆくような倦怠感が身体全体を支配していて、瞼がひどく重たかった。スマホの振動音を聞きながら私は眠りに落ちた。
目が覚めたのは眠った時と同じくスマホの振動音がした為だった。着信に出るため、通話のアイコンをタップした瞬間に、これはいつもの風景ではないということを理解することができた。
「松田さん、今日もお休みなら連絡くらい下さい。奥さんが心配なのは分かりますが社会人として正しい行動をして貰わないと困ります」
「は、はい、すみません」
「とにかく、次の出社の際は奥さんの診断書をお持ちください。分かりましたか」
「はい、すみませんでした」
向こうの通話が切られたのを確認すると、深いため息をついた。上司に怒られたことと夢の時間が終わってしまったという実感が重く圧し掛かってきた。スマホの画面を眺めると、上司の着信の前に知らない番号から不在の着信があったらしいことが履歴に残っていた。それは昨日の日付で、私が眠る前に聞いた音だったのだろう。
私はそれに対してかけ直してみることにした。三コールの後、若い女性の声が聞こえてきた。
「お父さん?」
「え」
「どこ行ったの」
それが娘の声だと瞬時に理解することは出来なかった。心配の濃く色を滲ませた声は私の心を何よりも痛めつけた。
「ごめん、すぐ帰るよ」
「うん」
「ごめん、ごめんな」
私は泣いていた。自分の情けなさが許せなかった。通話を切って、視界が滲んだまま洗面台へ向かうと、ぼやけた鏡に映る自分の背中に何かがいるのが分かった。手で涙を拭ってそれを確認すると、背中にはナマケモノがいた。それは肉眼で確認することは出来なかった。身体は酷く重くて、辛くて仕方がなかった。俯くと涙が止まらなかった。ナマケモノはにんまりと笑ってこちらを見つめていた。
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