そこにあなたはいないだろう

高梨 梓

胃酸の海

 私の胃に棲み着くその魚を、医者は「ガステルフィッシュ」と呼んだ。

 病院へ来たのは、ふとした違和感からだった。胃が痛んだわけでも、特別体調が悪かったわけでもなかった。しかし、床に就いて、内から聞こえる不気味な水音が私を病院へと向かわせた。

 私は学生の頃から床に就く時間を十二時に定めていた。それというのも、酷い怠け癖があることを自覚していたからだ。その性分のために教師に叱られることは日常茶飯事で、クラスメイトは叱られる私を面白がって見ていた。私は、短期的な目標ならば達成していけることを大学に入ってから気付き、生活を規則的にすることから始めた。それが睡眠であった。

 規則的に生活を送ることは、変化に乏しかったが、私はその平凡で不変な流れに心地よいものを感じていた。きっと、彼女もそう感じていると思っていたが、そうではなかったらしい。実際、彼女は私のアパートから出て行ってしまったし、残していったものは私の三十歳のバースデーケーキと「さよなら」だけだった。

 彼女が出て行って約二ヶ月後、いつも通り十二時に床に就いたのだが、なぜだか眠ることができなかった。意識がいまだ現実にあることに怒りに似た不快感を抱きながら、目を閉じて静寂に身を任せた。耳鳴りが弱まると、ちゃぽ、という音を確かに聞いた。水面に水滴が滴った様な音だ。

 水音はひどく不規則だった。不眠の原因はその不規則さにもあったが、その音が腹の方、というよりは腹の内から聞こえてくるのが非常に不愉快だった。

 結局眠れず、頭に残った音をごまかすためにシャワーを浴びた。洗面台に映ったのはギョロっとした目にクマを蓄えた不潔で、退屈な男だった。


「ガステルっていうのは日本語で、胃って意味ね。だから、胃に住んでる魚ってことなんだけど、特別何か危害を加えるような魚ではないから、ひとまず安心してくださいね。とは言え、自分の中に何かが住み着いてるっていうのは気味が悪いでしょう。でもね、それが正しい状態なんですよ」

 白髪で髪の薄い小太りの医者が、淡々と説明する。歳は六十くらいだろうか、親しみやすいように語尾は丸いが、声に抑揚はない。どこか子供向けの喋る人形を思わせた。

「正しい状態とは」

「人の胃には例外なくこの魚が棲み着いているんですよ。まあ魚っていっても便宜上みたいなとこはあるんだけどね。実際は魚ではないのだけれど、魚って呼ばれるのはなんだか奇妙だよね」

 はははと愛想笑いみたいに笑う医者に、この生き物は私の食べたものを食べて生きているのかと聞いた。

「まぁそうなるね。さっきも言ったけど、この魚は誰の胃の中にもいるんですよ。それも一匹じゃなくて何千何万も。ほとんど目には見えないサイズだし、そもそも胃の中なんて見ることないでしょ。でもね、ここまで大きくなるのはとても珍しいんですよ。世界的に見てもまだ数件しか起きてない事例なんですよ」

「どれくらいの大きさなんですか」

「見る?」

「はい」

 ホワイトボードに張られたレントゲンには、コメ粒ほどのサイズの魚のような何かが写っていた。レントゲンの隣にはその生物の画像らしきものが貼られている。

「これがガステルフィッシュですか」

「そう。なんかドジョウみたいでしょ」

 そこに写る魚らしき生物の影は確かにドジョウの様な姿をしていたが、ただの白黒写真では異物感を感じ取ることは出来なかった。

 私はしばらくその絵を眺めて、自分の腹の中になんらかの生物が存在するところを想像してみたが、それは難しいことだった。

「これが生物だとして、その、目的というのはなんなのでしょうか。その、なんといいますか、生きる最終目的とでもいうのでしょうか。我々人間は、大きくいえば子孫を繁栄させるために子供をつくり、育てるという一種の使命のようなものがあるわけじゃないですか。でもこの生物は人間の胃の中に留まってしまっている。寄生虫だって宿主と死ぬ種類の方が稀で、最終的にはその生物全体としての使命を果たすべく、外へ出てくるじゃないですか。ということはこの生物もいつか私の腹を突き破り、その使命を果たすべく外へ向かうのでしょうか」

 医者は少しだけ顔をしかめてレントゲンに目をやった。何から言い出そうか迷い、最初の言葉を歯の隙間から吐き出した。

「んー、私には生物的なことは詳しく分からないけど、少なくともこの魚は君の腹を突き破って出てくることはないし、これ以上増えることはないよ」

「増えることはない?」

「そう、この魚はどこから生まれるのか分かってないけど、個体数は決まった数以上増えることはないよ。ただ、個人差があるんだよね。多かったり少なかったりで何かしら健康に被害があるわけでもないし。だからね、取り除きたいってことらしいんだけど、手術に保険が下りないから結構高くついてしまうよ」

 私には稼いだ金をつぎ込む趣味もなく、高くつく彼女も失ってしまっていた。それ以上に普段覗き得ない自身の腹の中を覗き、さらには底を泳ぐあの生物を見てみたかった。私は好奇心に金を費やすことにした。

 手術は二週間後に行われることになった。私はその二週間のうち、あの生物によって眠ることができるか不安だった。重い足取りで病院の外に出ると鈍い曇り空だった。午後から出勤する会社は吐き気がするほど面倒だった。


 私はこの二週間のほとんどを一二時に眠ることができた。眠ることができないときは決まって、出て行った彼女のことを考えていた時だった。他に何か別の要因がなかったとは言い切れないが、自覚できる大きな理由として、彼女のことを考えるとあいつが、胃酸の水面を揺らす感覚があった。

 だから私は心の中でさえ彼女の名を呼ぶことを躊躇った。だが、手術医の女を見て、卑しくも彼女と比較している自分に気付くと、胃の内側からノックされているような感覚を覚えた。

 女は全体的に平べったいという印象を受ける女性らしい顔だった。歳は三十くらいだろうか、手術医は男というイメージが覆された。身長は高くはない。髪は短い。マスクをつけていると、その丸く大きな瞼の奥のべったりとした黒い瞳だけが浮き出ているようで、常に睨まれているような圧迫感を覚えた。

 それに比べて彼女は美人だった。その顔を思い出すことはないが、彼女は美人だったはずだ。あの頃の私はそう言っている。それに、傲慢だった。彼女は常に何かを欲しがっているようだった。私はそれらに応えてきたはずだ。しかし、彼女が本当に欲しがっていたのは、物質的に満たされるものではなかったらしい。その渇きに対して私が与えることができたのは、規則的な退屈だけだった。

 女は手術の内容を告げた。方法はいたってシンプルで、胃カメラで覗きながらアームで魚を捕まえて引き上げる、というものだった。滑ったりしないのかと聞いてみたが、腕の見せ所ですと女性の手術医は目を細めて笑った。

 手術台に寝かされていると、女は慣れた手つきで胃カメラを準備して私の口元へと持って来た。大きく開いた口に入り込む細い胃カメラは、人間にのみ寄生する新種の寄生虫のようだった。

 モニター越しの私の食道は、暗く蠢く肉の道以上の何かのように見えた。先の見えない不安のようなものがあった。それは、ゆっくりと進んでゆく胃カメラの異物感よりも吐き気を催す嫌悪感があった。

「何か強くストレスがかかっている状態ですね。入り込むものを拒むような動きをしています」

 私は言葉を発することができない状態であるのに、手術医の女は私に語り掛けるようにまっすぐに私の瞳を見て言った。モニターなんて見なくても進むべき道が分かっている。女の目はそう言っていた。お前がどんな人間であるか、私には分かっているぞ。彼女の目はそう言っていた。

「この道はひどく規則的です。いろんな人を診てきましたが、容姿や性格は全く違うのに、腹の中を見れば、本質的には何も変わりはしないことが分かります。誰もが、この細く暗い道を通って行かなければならないのです」

 女の話し方には既視感があった。診察の時の医者だった。ただ少し違ったのは、今回は人形に説教をするように、落ち着いていながらも強い嫌悪を含んだ声色だった。

 細い食道を抜けると、恐らく胃であろう場所にたどり着いた。そしてそこには、洞窟にたまった水のようなものがあった。艶やかな桜色の肉壁に囲まれた醜い洞窟には、確かに主がいた。ドジョウのような何か。ヒゲがあって、とさかがあって、鶏のような虚ろで無感情な瞳がいぶかしげにモニターを覗いている。まるでモニター越しに私が見えていると言わんばかりに。

 胃カメラはだんだんとガステルフィッシュに近づいて行く。もう触れる、その直前になって、すべての動きが止まった。

「本当にいいんだな」

 誰かが確かにそう言った。ささやき程度の小さな声だったが、しっかりと聞き取ることができた。女の声ではなかった。そして魚はしゃべらない。その声の主が自分であったことに気付いた時、私は自分の胃に住み着くこの生物が何かに触れられることに、気が狂わんばかりの焦燥感を覚えた。ずけずけと私の口から入り込んだ寄生虫に、私の何かを触れられることはひどく恐ろしいことであるように思える。そのように考えた時、一気に嘔吐感が腹からせりあがってきた。私の身体が、腹の奥底に眠る何かが、この寄生虫を拒んだ。涙でぼやけた視界の先には止まったモニターがあった。べったりとした空っぽな目でこっち見つめるガステルフィッシュが映っていた。私には分かっている、そう言っていた。

 嘔吐感に堪え切れなくなって、口元を抑えた。胃カメラはいつの間にか逃げ出していた。口からあふれ出たのは、卵の粒の濁流だった。透明で細かい粒の波がえずきで不快感を伴って、涙と共にどろりとあふれ出た。手からこぼれ出た粒は、病室のコンクリートの地面に当たると染み込むように消えていった。

 もう出るものが無くなって顔を上げると、そこは病室ではなかった。眩むほど煌びやかな照明と丸いテーブル。ボトルとワイングラス、アイスペールがあった。そして、Ⅼ字型のソファには私と見知らぬ女が座っていた。女は手術医と同じ顔だった。大胆に胸元を見せるドレスを着ていた。その表情には心配と困惑がうかがえた。

「大変でしたね」

 女はそう言った。私は泣いていた。私はこの女に何を話したのだろう。何を見られたのだろう。何に触れられたのだろう。それを聞くのは、難しいことだった。

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