第4話 殺人予告
時間がどれくらいすぎたのだろうか?
安西が中学生だった頃から、10年は経ってしまっていることだろう。
その間にいろいろなことがあったが、時代が、
「平成から、令和」
というものに変わったというのが、大きかっただろう。
細かいことをいえば、その間に、
「世界的なパンデミック」
という、致死率の高いウイルスの伝染というのが、世界的な問題となり、今だ解決はしていないが、ある程度落ち着いてくるというまでに、4年という歳月が経っていた。
ウイルスというのは、
「変異をするもの」
ということで、普通の生物のように、
「細胞分裂」
によって、成長するものではないのだ。
「変異」
をすることで、人間などの動物の本能として作る、
「抗体」
というものが効き目をなくすということになるのだ。
本当であれば、
「そのウイルスが侵入してきた場合、そのウイルスに対抗できるだけの抗体を自分の身体に作ることで、その侵入を許さなかったり、入ってきても、戦うことができる」
ということである。
「未知のウイルスではないの、それだけ抗体の力が強い」
ということだ。
だから、小児がよく罹る、
「おたふくかぜ」
「水疱瘡」
「はしか」
と呼ばれるものは、基本的に、
「一度罹ってしまうと、二度と罹らない」
と言われていたりするのだ。
だから、今回の、
「世界的なパンデミック」
を引き起こしたウイルスというものも、
「二度目は罹らない」
と言われたが、実際には、この4年間に、何度も発症している人もいる。
それは、たぶんであるが、
「変異によって、前にできた抗体の効き目がない状態になっているのではないだろうか?」
と言われるのであった。
確かにそれはいえるかも知れないが、流行出した時に、誰かが、
「抗体を早めに作っておけば、皆後になっての大流行がない」
ということと、
「最初に集団でかかることで、集団免疫」
というものができて、それ以降の、流行はなくなるので、
「最初に、皆罹ってしまえばいいんだ」
というような、極論と言っていたやつがいたが、さすがに、有識者の人たちからは、
「根拠のないデマ」
ということで、一蹴されていた。
そもそも、
「未知のウイルス」
というのだから、有識者であっても、完璧に分かっているわけではないが、
「少しでも、いい方向に導こう」
ということでの、
「専門家」
の意見として、聴く分にはいいのではないだろうか?
実際に、4年くらいの間に、どれだけの変異があったのか?
実際の
「波」
というのは、国によってかなりの差があったが、日本の場合は、
「大きな波が3つくらいで、小さな波を含めると、10個未満くらいだっただろう」
といえる。
その時の、
「大きな波」
というのが、
「変異の時だったのではないだろうか」
つまりは、
「変異を重ねることで、強くなっているのか、弱くなっているのかは、よく分からないが、それも、ウイルスの種類によって違うのかも知れない」
特に、今回は、未知のウイルスだけにそうなのだろう。それこそ、
「作った連中にきいてくれ」
ということであった。
一般的に、ウイルスは、
「変異を繰り返すたびに弱くなる」
と言われている。
つまり、
「変異を繰り返しながら、衰えていき、パンデミックが終わる」
というのが、ウイルス系の伝染病が流行った時のパターンであるということを聞いたような気がしたのだ。
そんな時代の中で、世の中もいろいろと変わった。
まずは、
「マスクをして、人との距離を取るのが当たり前となり、レジの前には、大きなビニールシートが張られていたり、お店などのレジでは、入り口と出口が別だったりするではないか」
そんな状態で、特にマスクをしている人が、当たり前のようになってくると、
「本来であれば、怪しい人というのが、よく分からなくなってくる」
ということである。
しかも、今の時代は、
「いたるところに防犯カメラがある」
という時代である。
しかも、今の時代は、
「コンプライアンス違反」
と同じくらいに、ここ数十年で言われるようになったこととして、
「個人情報の保護」
というものである。
つまりは、
「プライバシーの尊重」
ということなのだが、それは、主に、
「ネット詐欺」
というものから身を守るためということが大切になってきているということであろう。
そして、もう一つ、言われるようになったことからの派生としてになるのだが、
「ストーカー問題」
によって個人を特定されることで、プライバシーが守られないどころか、身の危険にも晒されるということになり、実際の犯罪を誘発するということになるのではないだろうか?
そんな世の中で、
「ネットの普及によって、それまでにはなかったものが、当たり前といわれるようになったことで、犯罪が増えてくるのを防止する」
という意味で、
「個人情報保護」
という観点が大きくなってきたのだろう。
だから、本来なら、
「個人情報保護」
という観点と、
「防犯カメラの設置」
というのは、それぞれ反転している問題だといえるのではないだろうか?
そんな防犯カメラに映っているかどうか? それを調べてほしいという人がいたのだ。
というのが、どうやら、
「何かおかしい」
ということを警察に言ってきたので、話を聞いてみると、何やら、殺人予告のようなおのがあったというのだ。
「殺人予告?」
と、警官は、キョトンとしている。
「そんな今の時代に、まるで小説のようじゃないですか」
と聞くと、
「そうなんですよ。しかも、それがおかしなことに、その殺害をするという相手なんですけど、その人は、もうすでに死んでいる人なんですよ」
というではないか。
「それじゃあ、ただのいたずらなんじゃないんですか?」
と警官がいうと、
「ええ、それだったらいいんですけど、実は、今回の殺害予告を受けた人が、日記の中に。自分が殺されるかも知れないということを書いていたところがあったんですよ」
というのであった。
「それはビックリですね。ところで、その殺害予告をされた人が亡くなったのは、病気か何かですか?」
と聞くので、
「ええ、そうなんですよ。余命宣告も受けていて、その日記の部分には、自分を殺したい人がいれば、遠慮なく殺させればいいということまで書いていて、普通だったら、どうしてそんなことを書くのかということが気になるんですが、どうしても、余命が分かっているということで、何か精神的にも蝕まれていたのかも知れないと思って、あまり気にしていなかったんです。でも、実際に、その殺害予告というものが実際に来たので、ちょっと気持ち悪くなってですね」
というではないか。
その人がいうには、
「マンションの集合ポストに投函されているので、そこにある防犯カメラを確認したいということなんですよ」
ということであるが、
さすがに、一般市民が、
「実際に、殺人事件が起こったわけでもない」
ので、管理人に、
「見せてほしい」
とは言えないだろう。
もし、そんなことを言ってしまえば、防犯カメラに誰が映っているか分からないわけなので、それこそ、
「プライバシー保護」
という観点から、基本的には、警察が介入するような事件でない限りは、開示はできないだろう。
だが、実際に、その開示が必要なことがあったという。
実はその二日前に、マンションのオートロックを、配送員を装って入り込み、そこで留守宅に窃盗に入ったという事件があった。
ちょうど、
「殺人予告」
があった時の二日後くらいだったので、同じカメラで収められた内容が映っているということで、その
「窃盗に関しての捜査として、防犯カメラを押収することができた」
ただ、その時の捜査として、前後2、3日くらいは見ておかないと、
「犯人は、きっとこのマンションを最初から狙っていたので、その分下調べをしているだろうから、怪しい人物が映っていないか、念のために見ておく」
ということを、捜査の鉄則ということで、言われていたので、実際に、見ていると、その2日くらい前に、怪しい人物が、いかにも挙動不審で写っていた。
その姿は、窃盗犯に関係があるかどうか分からないが、挙動不審な男は、防犯カメラを気にしながら、何かの手紙を、誰かのポストに入れていた。
そのカメラを見ている人は、それが、
「殺人予告といわれる手紙」
だということを知らなかったので、それを見ると、てっきり、今回の窃盗犯によるものだと思っていたのだという。
最近では、防犯カメラに映った映像があっても、それで個人を特定することは難しい。しかし、
「犯人がいて、何かの犯行を犯している」
ということは分かるのだった。
たとえば、死亡推定時刻から、辻褄が合う時間にそのあたりにいれば、そこに写っている連中は、
「皆容疑者だ」
ということになるだろう。
しかし、今では昔のように、
「マスクをして、鳥打帽や、野球帽などを目深にかぶっていれば、こいつは怪しいということで、職質したり、却って目立つ」
というものであったが、今は、
「マスクに帽子は、今では当たり前の恰好だ」
ということになるのだ。
なぜなら、
「世界的なパンデミック」
があったことで、
「マスク着用が義務」
のようになり、帽子なども当然のようにかぶっているので、昔なら、
「何かの犯人ではないか?」
と思われるような恰好は、却って目立たないようになってきたのだった。
だから、防犯カメラに映ったとしても、何か特徴のあるものがなければ、その人と特定することはできないだろう。
たとえば、名札があったとしても、違う人の服をわざと着ているということだってあるだろうし、車での移動としても、レンタカーや、盗難車であれば、特定は難しい。
犯人も分かっているだろうから、今の時代は、逆に犯罪を起こしやすい時代なのかも知れない。
そこに持ってきて、
「個人情報」
などの、
「プライバシーの問題」
が絡んでくると、さらに特定するのが難しくなる。
こうなると、逆に、アリバイ工作がしにくくなるということにもなるが、犯人側としても、特定されないということは、リスクヘッジという意味では、いろいろ計画を立てるにも、パターンを豊富にできるであろう。
そんなことを考えていると、
「盗難に関しては、新たな情報が出てくる」 というわけではなかったが、
「脅迫状という件」
に関しては、
「いかにも怪しい男が、ちょうど申し立ててきた人が見つける寸前くらいに、まわりを気にしながら投函している」
のだった。
だから、その行動が、わざとらしくも感じられ、
「防犯カメラで見られることを分かっていて、やっているんだ」
と思えてならなかった。
なぜなら、その男は、わざと防犯カメラの方に眼を向けた。
それも、きょろきょろすることなく、視線をいきなり、防犯カメラに向けたのだ。
要するに、
「防犯カメラの位置を、最初から分かっている」
ということなのであった。
こうなると、さすがに刑事の方も、
「コソ泥」
のような連中よりも、手紙を投函にきた、何かわざとらしいこの男の方が気になるのであった。
「コソ泥」
の方が、明らかに
「事件を起こしている」
のだから、そっちを中心に見なければいけないのだろうが、
「刑事らしくない刑事」
と言われている桜井刑事は、この怪しい状況に、興味をもって、モニターを見ていたのだった。
写っている画像を見ると、確かにまわりを意識しているようだが、それは最初だけで、あとは、まったく気にしているという素振りはなかった。
集合ポストを確認し、普通にポストに投函している様子は、悪気はないどころか、堂々としている感じさえ受ける。
その様子を見ていると、犯人というには、あまりにも、堂々としている。そして、その様子が堂々としているので、最初は分からなかったが、
「コソ泥」
の中にいる一人によく似ていることに、次第に気づくのだった。
「コソ泥事件」
の方が新しく、
「投函事件」
というのが、それから少し前だったのだが、コソ泥事件の時の、
「よく似た男」
というのは、まるでおどおどしていて、それだけに却って目立つのであった。
そんな様子を見ていると、
「本当は同一人物だということを知られたくないだろうに。これじゃあ、まるで、わざと目立とうとしているようで、どうも行動が矛盾しているような気がする」
というのは、投函事件の時の態度が、
「落ち着いている時と、おどおどしている時の態度が、両極端に見えるからだ」
ということだ。
これだけ極端な態度をとると、それ以外の態度の時が、どんなに飾ったとしても、その行動の範囲内だということで、
「どんな態度を取ったとしても、その感覚はすぐにバレてしまうということを分かっていて、わざとやっているとしか思えない」
と感じた。
昔、イソップ寓話の中にあった、
「卑怯なコウモリ」
という話を見たのを思い出した。
「鳥と獣が戦をしていて、鳥に対しては。自分は鳥だといい、獣に対しては、自分は獣だといって、逃げ回っていたコウモリは、戦が終わって、仲直りした鳥と獣の間で話題になり、卑怯者だということで、人知れず、孤独に、夜のとばりが下りてからしか行動しないようになった」
ということであった。
この話には、いろいろな発想が含まれているだろう。
額面通りに受け取れば、
「八方美人でいれば、結果、どちらからも信用されず、最後には孤立してしまう」
ということになる。
他の考え方として、
「彼は、その性質上、臆病で協調性がないので、それでも生き残るために、あのような身体をしていて、卑怯な態度を取ったのは。無理もないことだ」
という考えである。
それが、一種の保護色のようなもので、本能的に、逃げるためには、何でもするということで、助けを求えることができない性格の表れだということであろう。
また、この話自体が、
「コウモリを悪い動物だ」
という方法ではなく、むしろ、
「生き残るためであれば、恥も外聞もなく、何をやってもかまわない」
ということである。
それは、動物の本能としては当たり前のことであり、もっといえば、
「生き残るために、何かをしてでも、生き残る」
というしたたかな考えこそが、美徳ではないか
といえるのではないだろうか?
「人間だって、戦国時代の群雄割拠の時代に、まわりが、戦争をやっていて、自分がその中に取り残される形となったことで、何とかまわりを欺いてでも生き残るというやり方を取った、真田昌幸という武将は秀吉から、「表裏比興の者」と呼ばれた」
というのだ、
表裏比興とは、狡猾、老獪、策謀家といった意味が込められており、卑下する言葉というよりもむしろ褒め言葉として使用されているということであった。
これは、
「コウモリの話であっても、真田昌幸の話であっても、書く字や意味の違いこそあれ、
「ひきょう」
という尾鳥羽がかぶっているというのは、偶然としては面白いことだといえるのではにいだろうか
そんなことを考えていると、
だから、日本人には、どうしても、昔から、
「判官びいき」
という、
「力は強いのに、政治的な問題から、策を弄する相手の前では、あまりにも素直すぎて、そのまわりの策略から潰されてしまう、そんな人間を尊いという考えの下、贔屓目に見てしまう」
ということであった。
ここでいう、
「判官」
というのは、その人物の位のことで、この位を持っていた、
「源義経」
を指しているのだった。
天才的な戦術家であった義経であったが、政治的なことに関しては、実に疎かった。
兄の頼朝と、朝廷で一番の権力者であった、後白河法皇との間の、
「政治的な駆け引きに巻き込まれた」
といってもいいだろう。
だから、東国の武士団をまとめ、策士である後白河法皇に操られ、
「朝廷を利用しよう」
と考えたことが、
「ミイラ取りがミイラ」
になってしまったことで、結局最後は滅んでしまった平家一門を見ると、京に上る弟を見て、危険に感じていたとしても、無理もないことだろう。
頼朝とて、
「法皇がどうのというよりも、東国を固めるということに必死だっただけのことなのかも知れない」
ということではないだろうか。
それでも、
「平家追討」
に手柄を立て、そして、京都に凱旋してきたことで、 有頂天になっている人間に対して、国の元首と言ってもいい天皇家の中でも一番の権力者から、
「褒められた上に、褒美の官位を頂いた」
ということであれば、兄が言っていた、
「勝手に官位をもらってはいけない」
と言われていても、
「法皇が授けてくれるというのを無下に断ることもできない」
ということで、
「もらったとしても、それは源氏の権威があがることだから、兄としても、喜ばしいことだ」
ということになるだろう。
しかし、義経が、
「検非違使に任ぜられた」
ということを知った頼朝は怒り狂った。
それは、義経の思惑にはなかったことだ、
きっと、
「褒めてくれる」
と信じて疑わなかったからだろう。
それを思うと、
「兄は、自分の活躍を妬んでいる」
と思ったとしても、無理もないことだ。
しかし、歴史の史実としては、そうではなく、
「武士団の棟梁」
である自分のいうことを聞かなかったというのが、弟だったということで、逆に弟だけに、許してはおけなくなったということが、頼朝としては、ジレンマだったのかも知れない。
だが、これはあくまでも表向きのことで、本当は、
「弟への嫉妬心」
というものだったのかも知れない。
ただ、その嫉妬心をいうものを隠すだけの状況であることは、火を見るよりも明らかであった。
そのために、頼朝も、ジレンマにはあったが、自分の汚い部分を大っぴらに表に出さず、当たり前のこととして、見られることは、よかったのかも知れない。
そんなことを考えていると、
「今回の、
「投函事件」
と、
「コソ泥事件」
と、それぞれに、事件としては、大したことはなかった。
というのは、
「コソ泥事件」
といっても、何か、盗まれて困るものがなくなったというわけではなかった。
ただ、それも、本人たちがそう言っているだけで、何が、警察に言えないものがあり、それが盗まれたということも考えられるし、
もっといえば、
「本当は何も盗まれていないのに、何かを盗まれた」
ということで事件として扱ってもらうということが目的だったとすれば、これも、奇抜な発想ではあるが、それこそ、
「頼朝と義経の関係」
の裏に何かが潜んでいて、それは、
「表に出すことのできないもの」
ということになるのかも知れない。
「卑怯なコウモリ」
のお話だって、実際に戦が終わって、平和が戻ってきたことで、やっと、コウモリというものが企んでいたことが分かったというものだ。
だが、これだって、
「コウモリが必死で生きよう」
としている証拠である。
「頼朝のジレンマ」
ということに対しても、
「自分が、京都に行って、直接平家を討つことができなかった悔しさのようなものがあれば、法皇から褒美をもらうということは、義経に限らず、他の人間でも同じことだっただろう」
といえるのではないか。
たまたま弟だったことで、
「判官びいき」
などという言葉が生まれるくらいになってしまったことが、よくよく、一人の人間のエゴや嫉妬が深かったということを示しているのだろう。
そんな中において、
「何かわざとらしい、目立つような行動というのは、その目的がどのような主旨か?」
あるいは、
「その大小にかかわらず、嫉妬が絡む話というのは、日本人は結構食いついてくろ」
嫉妬に対して、言われているよりも、同情的な考えの人も少なくないような気がしているのだ。
嫉妬というのは、今では、基本的に、
「男女間での、三角関係というもの」
から生まれたり、
「褒美を目の前で、自分が受け取れない状況なのに、皆で褒めたたえているのを見るのが、居たたまれない」
という時に感じるものだろう。
嫉妬というのは、確かに、
「自分が参加しているわけではない大会で優勝などをすると、学校では、朝礼などで、わが校の誇りなどと言われ、ちやほやされてる本人はおろか、褒めたたえる言葉を投げかけた先生であったり、それを見ている、その他大勢の生徒は皆、その偉業に対して、素直に敬意を表している」
しかし、それでいいのだろうか?
何も自分が褒められているわけではない。
先生からすれば、
「自分の生徒が偉業を達成した」
というだけで、自分が褒められているわけでも何でもない。
生徒が褒められているだけで、
「俺には関係ない」
といって、放っておくわけにはいかないのが、
「先生という立場なのだ」
しかし、人が褒められているのを見るのが居たたまれない状態なのに、なぜ、褒めるということを、
「この自分がしなければいけないのか?」
ということを考えると、その状況が。
「自分を情けなく思わせる」
ということになるのだ。
つまりは、
「ピエロ」
つまりは、
「道化師」
となって、自分に対してどう思えばいいのかを分からなくさせるのだ。
「羨ましい」
と思ったとしても、自分にはどうすることもできない。
「生徒限定の大会」
に先生が出るわけにもいかず。ただ、大会で表彰されているものを、
「羨ましい」
という目で見るだけしかできないということなのだ。
つまりは、
「表彰されている」
ということ自体に嫉妬を感じるのか、それとも、
「自分にはなれない」
という物理的なものへの苛立ちなのか、それとも、
「そんな自分が褒める立場にあって、羨ましいということを表に出さず、ただ、先生としての立場を貫かなければいけない」
というのはありなのだろうか。
だから、
「俺というのが、そのどれに当て嵌まるのか?」
ということが分からないということに、苛立ちを覚えているのかも知れない。
それは生徒たちでも同じことで、だが、彼らには、
「羨ましい」
と思えば、
「じゃあ、来年参加してみればいいんだ」
ということで、期間も十分にある。
そこで練習し、
「人前に出ることが、どうしてもできなかった」
という人は、その期間で何とか克服することができたとすれば、それは羨ましいということになるのではないだろうか?
それを思うと、
「生徒は、まだマシなのかも知れない」
と思うのだった。
警察の中でも、
「変わり種」
という異名を取っている、桜井刑事なら、その気持ちは分かることだろう。
だから、この映像に写っている男たちは、
「どんな気持ちでいるのだろうか?」
ということであった。
「コソ泥グルーう」
というのは、
それほどの人数がいるわけではなく。
「数名だけのことではないか」
ということであった。
ただ、最初こそ、
「まるで、10人くらいいてもおかしくない」
という感じではないか。
と思っていたのは、この同一人物と思しき人間が、まったく目立っていなかったからである。
しかし、その目立ちを感じるようになると、
「何となく、人数相応」
という形ではないか。
と思うようになったのだ。
それは
「投函事件」
の時の、
その変わり身の素早さに通じるものではないか?
ということであった。
本人とすれば、
「別に、意識しているわけではない」
ということかも知れない。
だから、意識していないだけに、これだけ変わり身が激しいのに、本人は、
「ビフォーアフター」
で変わっていないという気がするのだった。
それを考えると、
「本当はわざとやっているのであって、それは、こちらに何かを思わせるためのミスリードがあるのではないか」
と感じると、
「じゃあ、この男は、投函事件と、コソ泥事件の中の豹変する前と後とのどれを一番見てほしい」
と感じたのだろう。
そもそも。そこまで考えてくると、
「待てよ」
と桜井刑事は考えたのだ。
投函事件というのは、
「何となく気持ち悪い」
という人が言ってきただけで、
「事件性は、今のところはない」
といえるだろうが、ことが、
「殺人予告」
というものであり、それよりも何よりも、
「名指しされた人間」
というのが、この脅迫状を受け取った時には死んでいたというのである。
そもそも、
「名指しされた男が、余命僅かだということを、どれだけの人間が知っていたか?」
ということである。
確かに、
「もうすぐ、俺は死んでしまうんだ」
と思うと、
「どんなにこの世に未練がない」
と思っている人であっても、
「本当にそうだろうか?」
と考えるはずだ。
というのも、
「人間の欲というのは、無限だ」
と思っている人は多いだろう。
だからこそ、ある程度、いろいろと目標を果たしてきても、さらに目標が生まれるのだから、
「ひょっとすると、不老不死の薬をほしがっているやつは、本当にいるのかも知れない」
と感じるのだが、それは、絶えず夢を追い求め、
「そこから逃げるということを絶対にしない」
ということを考えている人にはあり得ることなのかも知れない。
それを考えると、
「目標があるから、生きられるのであって、その目標は、基本的に何だっていいのだ」
と言えるのではないだろうか。
ということであった。
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