第3話 フランケンシュタイン症候群

 世の中には、

「冗談じゃ済まされない」

 というようなことは、結構あったりする。

「精神疾患の人に、その病気を持った人の悪口を言ったり」

「人のいうことを信じやすい人を使って、自分の言いなりにしたり」

 あるいは、

「断ることができない相手に対して、それを盾に、可能な限りの蹂躙をしたり」

 などと、いう恐ろしいことをしている人がいたりする。

 最近では、そういうことに対して、会社などでは、

「コンプライアンス違反」

 ということで、

「立場を利用した理不尽な苛めなどを撲滅する」

 ということが主流になっている。

 特に、精神疾患となった人間のほとんどは、上司や親、先生などからの、

「絶対的な立場」

 を利用しての、

「ハラスメント」

 というものから、なった人が多いという。

 特に、部下に対しての。

「全否定」

 などというのは、少し続いただけで、受けた人は、精神疾患に陥り、

「仕事ができない」

 というだけではなく、一人暮らしであれば、食事を作るなどの当たり前のことができないような、

「大鬱状態」

 になることも少なくはない。

 特に、

「双極性障害」

 などと言われる病気であれば、

「双極」

 という意味で、

「躁状態と鬱状態が交互に襲ってくる」

 ということが多いらしい。

 よく、躁状態を伴わない、

「うつ病」

 と誤診されることが多いが、

「双極性障害」

 というのは、

「脳の病気」

 なので、医者が処方した薬を服用しないと、余計に鬱状態がひどくなるというのだ。

 この双極性障害で怖いのは、

「鬱状態」

 というよりも、鬱状態から躁状態に変わろうとする時の、

「混合状態」

 だという。

「鬱状態はまだ残っている状態で、躁状態に変わっていくのだが、その時、それぞれの悪いところが混同することがある」

 というのだ。

 というのは、

「鬱状態の死にたいなどという意識がまだ残っている」

 という中で、

「躁状態の今なら何でもできる」

 という怖いもの知らずの状態が、混合してしまうと、

「死ぬということも怖くない」

 と考えるようになり、ただでさえ、精神が不安定なところなので、

「死んでしまうとどれだけ楽か?」

 と思っているのだから、ふとしたことで、自殺をしてしまうということになりかねないといえるだろう。

 それが、

「双極性障害」

 という病気の怖いところで、しかも、他の病気を併発することも多いので、何かがあって出てくる症状はその時々で様々、

 ということは、

「想定外の行動を起こしたりして、その行動パターンは、予測不可能」

 ということになるに違いない。

 それを思うと、

「双極性障害」

 などの精神疾患は、もちろん、持って生まれた、

「生まれつきというのもあるかも知れない」

 しかし、そのほとんどは、小学生くらいに発症することが多いと言われ、

「苛め」

 や、

「DV」

 などが、その原因だったりもする。

 特に最近多いのは、

「DV」

 と言われる、児童虐待というもので、親が、

「しつけ」

 という言葉を隠れ蓑に、

「自分のストレスのはけ口を子供に向ける」

 というものである。

 そういう親のほとんどは、

「自分の親から厳しく育てられた」

 と言いたいのだろうが、

「あなただって、その時、自分の子供には、同じような目に遭わせたくないと思わなかったんですか?」

 と言われるのだろうが、

「子供の頃はそう思っていたんだけどな」

 というだろう。

 ということは、

「そうは思っていたが、何かの原因で、それが変わってきた」

 ということを言いたいのであって、それは、完全な、

「他人事」

 であり、そのまま。

「自分が悪いんではない」

 という、

「責任逃れ」

 ということになるのであろう。

 確かに、自分が悪いということであれば、そもそも、

「虐待ということも、苛めもなくなるのではないか?」

 と思えるのだ。

 しかし、

「悪い」

 と思っていても、やめられるのであれば、これほど社会問題にはなっていないかも知れない。

 ただ、逆に、

「これが、少数派であったとすれば、もっと恐ろしいことになるのではないか?」

 と思うのであった。

 というのは、

「少数派であればあるほど、表に出ないということで、被害者は絶対に泣き寝入りであり、加害者は、さらに増長するに違いない」

 ということであろう。

 問題になった時には、

「すでに、第一段階は終わっている」

 ということで、表に出ることもなく、

「児童の、原因不明の病気」

 ということになったり、こちらも、原因不明の、

「自殺」

 というものの中には、虐待や、苛めが原因ということも少なくはないだろう。

 いつ頃からなのか、

「コンプライアンス違反」

 というのが叫ばれるようになったのは、

「精神疾患に陥る社員が多い」

 ということも、一つの要因であろうが、それだけではないだろう。

 しかし、この精神疾患という問題は、

「許されることではない」

 ということで、

「断固として社会的には糾弾されるべきではないだろうか」

 実際に、今でも、

「精神が弱いから、病気になるんだ。しっかりしていれば、大丈夫なんだ」

 と、言っている人もいるだろう。

 しかし、そんなことを思っている人間に限って、そういう連中が精神疾患に陥ると、まわりからは、

「自業自得だ」

 と思われるかも知れない。

 しかし、なってしまうと、やっと、

「ああ、俺たちが悪かったんだ」

 といっても、後の祭り、世の中というのは、そんなに甘いものではないということで、

「ミイラ取りがミイラになってしまった」

 というようなことでも、

「因果応報」

 として、被害に遭っていた人たちからみれば、容赦ないということになるのであろう。

 それを考えると、

「コンプライアンス違反と言えることで精神疾患になるというのは、誰にでも起こることだ」

 というのを、思い知る必要がある。

 ということである。

 もっといえば、精神疾患になってしまったということで、

「かわいそうだ」

 とは誰も思わず、

「因果応報」

 として、

「ざまあみろ」

 と言われるに違いないのだった。

 だから、日ごろから、

「明日は我が身だ」

 ということでいないと、なってしまうと、どうなるかというのは、自分が一番分かっているのではないか。

 なぜなら、

「自分たちの目の前で精神疾患に陥っている人がいるのを、見てみぬふりさえしていれば、やっている方には、罪の意識もなくなるだろうし、マヒした感覚のおかげで、必要以上のことは言わないだろう」

 ということであろう。

 しかし、精神疾患というものを、バカにしているのだから、なった人間もバカにしている。

 つまり、自分がなってしまうと、他の人であれば、中には、

「かわいそう」

 という、同情もあるだろうが、自分たちにはない。

 それを苛めたり、コンプライアンス違反をしている連中は分かっているのだろうか。

 人それぞれなのだから、人によっては、

「意識している」

 という人もいれば、

「意識していない」

 という人もいる。

 だからこそ、

「状況をしっかり理解しないと、病気を治すどころか、誤診をしてしまい、さらに最悪な状態にすることになるかも知れない」

 ということだ。

 それこそ、

「フランケンシュタイン症候群だ」

 といえるのではないだろうか?

 この、

「フランケンシュタイン症候群」

 というのは、一口でいえば、

「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」

 というフランケンシュタイン博士であったが、ここには、いろいろな教訓が含まれているといってもいいだろう。

「理想の人間を作る」

 というのは、

「人間にはできないことである」

 ということで、

「うまくできないことは当たり前だ」

 という、

「無謀なことをしようとしたら、そのしっぺ返しを食らう」

 ということであろう。

 もう一つは、

「人間が人間を作る」

 ということが、まるで、

「神をも恐れぬ暴挙」

 ということで、それが、人間にはおこがましいという発想になり、まるで聖書の中に出てきた、

「バベルの塔」

 のような発想になるのではないだろうか。

「神様に近づこうとして、それが、神になるという野望を持っているということで、それこそおこがましい」

 ということから、

「神の怒りを買う」

 という結末になるのであった。

 どちらにしても、

「人間には人間としての度量があり。それを超越しようとすると、撃たれてしまう」

 という、いわゆる、

「出る杭は打たれる」

 ということになるのであろう。

 しかも、

「フランケンシュタイン」

 というのは、人間が作ったものであり、これは、

「生き物なのか」

 あるいは、

「サイボーグのように、半分は人間なのか?」

 あるいは、

「完全なロボットなのか?」

 ということが問題ではないだろうか?

 というのは、

「そのどれかによって、物語は、それぞれのパターンで作ることができるだろう」

 と思えた。

 その時代に、ロボットやサイボーグなどという発想があったのかどうかが問題であるが、今は。

「フランケンシュタイン症候群」

 ということで、それぞれに一つの物語があってもよさそうな気がする。

 それを一つの話にしてもかまわないが、果たして、どうなるのか、楽しみな気がする。

 それこそ、

「菌とウイルス」

 などのように、

「似て非なるもの」

 という発想に近いのかも知れない。

 そもそも、

「人間と、ロボットと、サイボーグ」

 という発想であるが、

「サイボーグ」

 というのは、

「元々が人間で、人間の手によって、改造され、身体や臓器は、ロボットのような手作りなのだが、脳だけは、人間から委嘱した」

 というものであったり、

「内臓だけが、ロボットのようで、肉体は、何かの薬品で、強靭で半永久的に持つ」

 というものではないかという発想である。

 これは、

「不老不死の発想と同じではないだろうか?」

 肉体が、半永久的に生きるというのは、肉体を貪ることになる、内臓を、人工のものにして、さらに、強靭いしているということからであろう。

 この発想が、

「サイボーグ」

 というもので、どちらも、脳だけは生身なので、

「死なない人間」、

「不老不死の人間」

 というものが、サイボーグだといっても過言ではないだろう。

 もちろん、身体全体がロボットで、脳だけが人間だというサイボーグというのは、人間がロボットのようなものを作るとすれば、

「一番容易なのではないか?」

 といえるのではないだろうか。

 もちろん、

「頭脳と身体を意思伝達が、人間のようにうまく行く装置が開発された」

 ということが前提ではある。

 基本的に、人間が、

「ロボット開発」

 というものを行っているというのは、

「人工知能」

 であったり、

「電子頭脳」

 と呼ばれるものを装着することで、すべてが、人工というものが、

「完全なるロボット」

 といえるだろう。

 これに関しては、いろいろと問題がある。

 そもそも、この話の主題となっている、

「フランケンシュタイン」

 という問題が絡んでくるのだ。

「フランケンシュタイン症候群」

 というのが、最後には、

「人間に歯向かう」

 ということになるので、それは、

「絶対に避けなければいけない」

 ということになる。

 それで、今から半世紀ほど前に、SF小説家によって提唱された、

「ロボット工学三原則」

 というものが問題になるのだった。

 この三原則というのは、

「決して、人間のためにならないロボットを作ってはいけない」

 ということで、いわゆる、

「戒律のような回路」

 を、ロボットに組み込むというものであった。

 何と言っても、

「人間を傷つけてはいけない」

 ということが大前提であり。それを踏まえた上で、次に、

「人間の命令には、服従いなければいけない」

 ということになる。

 だから、いくら人間の命令だからといって、

「人を殺せ」

 という命令を出すのであれば、それは、明らかに本末転倒だといえるであろう。

 もう一つは、

「ロボットは、自分の身は自分で守らなければならない」

 ということであるが、この項目に限らず、あくまでも、この三原則は、ロボットのためではなく、

「人間のため」

 なのだ。

 だから、自分の身を自分で守らなければいけないというのは、ロボットのためではなく、

「ロボット開発のためには、高額の金がかかっている」

 ということで、変な命令の中に、

「自爆しろ」

 などという理不尽な命令は聞かなくてもいいということにしないといけないのだ。

 そんな三原則を組み込むことと、もう一つ、ロボット開発において、ネックになるものがあるのだ。

 それが、一種の、

「フレーム問題」

 と言われるものであり、これは、実は、

「タイムマシン開発」

 における、一種の、

「タイムパラドックス」

 というものにも、絡んでくるということであった。

「タイムパラドックス」

 というのは、いくつかあり、一番よく言われるのは、

「過去に戻って歴史を変えてしまうと、自分が生まれなくなる可能性がある」

 ということから始まった。

「自分が生まれたから、過去に戻って歴史を変えたので、自分が生まれなくなった」

 ということは、矛盾している。

「生まれないと、過去にも戻れないから、生まれることになる」

 と考えると、どちらの化膿性を考えても、そこに矛盾しか残らないということである。

 もっといえば、

「タマゴが先か、ニワトリが先か」

 という考えであり、

「タイムループにも絡むことではないか?」

 と言われることでもあった。

 そんな発想が、

「タイムパラドックス」

 ということになるのだが、

「フレーム問題」

 というのは、

「ロボットは、人間から受けた命令を忠実に守ろうとするが、次の瞬間に何が起こるかということを考えて行動できるかどうか?」

 という問題があるのだ。

 例えば、洞窟にある燃料を取ってきてほしい」

 という命令を出すと、ロボットは、一歩も動けなくなるというのだ。

 それは、次の瞬間の無限に存在する問題を解決できないということであり、つまりは、

「無限に存在する可能性から、何が正しいのかということの判断ができない」

 ということだ。

 そのために、考えたのが、

「それぞれのパターンに分けてしまえば、無限が有限になるのではないか?」

 ということであったが、この考えは、ほぼ秒殺で打ち消されることになるだろう。

 なぜかというと、無限の可能性があるものをいくつかに分けるということは、数学の計算式で考えても、

「無限を何で割っても、無限にしかならない」

 ということである。

 この公式で考えれば、やってみてから、

「ああ、そうだった」

 ということにはならないだろう。

 もし、無限の可能性をpパターンに分けていくとすれば、

「永遠に終わらない」

 ということに、いつ気づくかというだけの問題だ。

 つまりは、これこそが、

「無限ループ」

 と言われるものである。

「ロボットの開発が進まない」

 ということは、この、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 という発想の、

「タイムパラドックス」

 が解決しないと、いけないということであり、それがしいていえば、

「フランケンシュタイン症候群」

 を解決できないということになり、

「人間は、永遠に、自分たちよりも、強かったり、頭脳が上の生物を作り出してはいけない」

 ということへの戒めになるのだろう。

 だから、

「神に近づこう」

 としたことが、

「いけないことだ」

 ということになるのだろう。

 それを考えれば。

「ロボット開発も、冗談では済まされない」

 ということになる。

 それこそ、人類の文明を、自分たちが作り出したものに、滅ぼされるということになる。

 つまりは、

「フランケンシュタイン」

 だけではなく、

「聖書」

 であったり、他の神話にも同じような話がある。

 ということは、

「それだけ、人間にとって、容易に発想できるということであるが、それでも、人間は、ロボットや、サイボーグを作ろうとする」

 ということは、それこそ、

「自殺行為ではないか?」

 と思うのだが、違うのだろうか。

 それを考えると、

「決して許されることではない」

 ということを閃くように、せっかく作られているのに、

「それを教訓として受け入れることができないというのが、人間だ」

 ということになるのだろう。

 人間というものは、確かに、

「自分たちが知っている動物の中では、一番賢くて、偉いと思われている動物だと思うのだが、一番愚かなことを繰り返す動物でもある」

 ということなのだ、

 それが、

「核開発に代表される」

 自分たちで、自分たちを滅ぼす兵器の開発だ」

 といえるのではないだろうか。

 まるで、

「ヘビが、自分の身体を尻尾から、飲み込んでいるかのようではないか?」

 ということである。

 結局、

「見つけることができない」

 という答えを、

「見つけることができないなどということはない」

 という思い込みで突き進むことで、それ以外が見えないという暗示に、引っかかっているのかも知れない。

 それはあくまでも、

「堂々巡りなので、出口などあるわけがない」

 という当たり前の発想ができていないのだろう。


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