9月10日

グラウンドは、大勢の体操服を来た生徒たちとその家族、そして、鳴り止まない歓声に包まれている。

 白線の前でクラウチングスタートの体勢を取る時には、緊張がマックスになっていた。

 体育祭で使う拳銃みたいなやつが音を発した瞬間、僕は足で地面を強く蹴った。そこからは無我夢中でゴールまで走り続けた。

 アウトコースにいたので最初のうちは一位だったけど、インコースにいたまさきが僕の横に並んでくる。

 歯を食いしばって身を前へ前へと持っていった。

 ゴール地点に着いた時、テープの感触はなかった。

「せいや、俺の勝ちだな。いや、当然か。お前足遅いもんなー」

 まさきはそう言ってガバガバ笑っていた。

 僕はそんなまさきを無視して、水面所へ向かった。

 その水面所は、騒々しいグラウンドと違って、とても静かだ。グラウンドから少し離れた所にある。

 水面所に着くと、蛇口をひねって水を思い切り出した。勢いよく出ている水の中に顔を突っ込んだ。とっても気持ち良い。

「守田くん」

 蛇口を逆にひねって水を止めて、声をした方を見た。すぐにすっと地面へ目を逸らした。

 声とか、さっき見た姿から、みちかである事は理解している。ただ、彼女の全身の白い肌が体操服の白と保護色になっていて少しエロかった。直視が恥ずかしくて、正直早くどっかに行って欲しかった。

「なに」

「今日の夜、どっか食べにいかない?」

「どっかって」

 ちょっとそっけ無さ過ぎたかな、って思ったけどみちかは気にしてない風に答えた。

「それは、今日の帰りとかで決めればよくね。守田くんがどこでもいいなら私が決めるけど」

「まだ行くとは言ってないけど」

「用事あるの?」

「……ある」

「それは?」

「プライベートに足突っ込まないで」

「ふーん、守田くん、私の事、きらい?」

 声のトーンが下がったのを聞いて、慌ててみちかを見た。険しい顔をしていた。

「きらいじゃない! きらいじゃないけど、まだ会ってから一週間しか経っていないし、そんなに僕たち仲良くないじゃん」

 あ、やっちまった。

 言ってから、気づいた。その言葉はここの空気をとても悪くする事に。

 みちかは溜息をついた。

「ごめん、私、強引だったよね。もう、喫茶店も来なくていいから」

 そう言って、みちかは背中を向けた。ただ、彼女はしばらくその場を離れなかった。そして、ちょっと間があってから、みちかはぼそっと呟いた。

「せいや、さっきの百メートル走、かっこよかったよ」

 そう言ってみちかは、走ってグラウンドに戻っていった。

 解放された、と思うことにしておこう。これでもう、毎日の放課後の時間を無駄にしなくて済む。

 ただ、僕の心に大きな穴があいた感じがして、気持ち悪かった。

 

 

「はぁー、疲れた」

 閉会式が終了し、僕と、にいさと、まさきはグラウンドで帰る準備をしていた。荷物は、朝来た時からグラウンドに置いていた。

「早く帰ろう、帰ろう、帰ろう!」

 人がまばらになったグラウンドでにいさが叫んだ。

「バカ、静かにしろよ。恥ずかしいだろ」

「本当にお前たちはよく喧嘩するなー」

 嫌味口調で言ってみると、まさきはそっぽを向いた。でも意外に、にいさは微笑んでいた。

「喧嘩するほど仲が良いとはこの事だよね」

「は? お前、何言っているの。俺はにいさの事きらいだぞ」

「僕もそんなにまさきの事、好きじゃないけど、こういう口喧嘩、嫌いじゃないよ」

 確かに二人はいつも揉めているけど、なんだかんだずっと一緒にいる。

 本音を言い合えるのは本当の友達の証拠なのかもしれない。

 本音、か。

 僕はみちかに対して、本音を隠した。喫茶店の事も嫌とはっきり言わず、今日だって自分の私情で勝手にそっけなくして。

 彼女が去る前に、名前呼んでくれた事は純粋に嬉しかった。そして、時間が経つにつれ、みちかが言っていたある言葉がじわじわと僕を支配していた。

 ごめん、私、強引だったよね。もう、喫茶店も来なくていいから。

 最後には僕を尊重してくれた。その彼女の優しさが僕の心をずっと温め続けている。

 僕は初めて、友情……いや、愛情という物を感じていた、気がしたのだ。

「にいさ、まさき、ごめん。忘れ物したから、さっきに帰っていて」

「俺たちもついていこうか?」

「いやいい」

 下駄箱に行って、みちかの番号のとこを見た。

 靴がある、彼女は校内にいる。

 僕はとりあえず、走って屋上に向かった。この日は生徒だけでなく、先生もあんまりいなく、屋上まで走っても注意をする人は誰もいなかった。

 扉を開け、屋上に出る。しかし、そこには誰の姿もなかった。

 それなら、後は教室か。

 そうこうしている内に帰ってしまうかもしれないので、全速力で階段を降り、教室へ向かった。

 自分の教室の前まで来て足が止まった。みちかと女子二人が話していた。その女子二人は、いつもクラスの中心人物になっている二人だった。

「おまえさー、最近調子に乗ってない? せいやのとこに近づいてさ」

「なにか悪いの」

「おまえ男子を誘惑してんじゃねぇよ。ちょっと可愛いからって、マジむかつく」

「別に私は彼の事、好きじゃないし、彼も私の事、好きじゃないと思うよ」

「しらねーよ。とにかく、あいつから離れろよ。私、あいつの事気になっていたんだけど」

「いいよ、応援するよ。私今日振られたから」

「やっぱ付き合っていたんじゃねぇーか。ってか振られたの、ダサ、まじ笑える」

 女子二人はそうケタケタと笑いだした。

 ちらっと、みちかの顔を見てみると、怒っているような悲しんでいるような、そんな苦い表情をしていた。それでも、こいつらに負けんと、睨みつけていた。

 みちかは、僕達が見えないとこでずっと闘っていたんだ。辛い思いもこれまでにたくさんしてきただろう。

「みちか」

 教室に足を踏み入れ、そう呼びかけると、女子二人は急に笑いを止め、さらに強張る顔を見せてくれた。そんな女子二人の姿は実に滑稽だった。

「せいや君、どこまで聞いていた」

 そう、僕の事が気になっていると言った女子が聞いてきた。

「僕、あんたみたいな汚れ切った人間、大嫌いだから」

 腹黒女にそう強く言った。

 その女子は途端に絶望の表情を浮かべた。別の女子はその女子の肩を押して、そそくさと教室を出ていった。

「みちか、大丈夫?」

「こんなに言われて、逆に大丈夫だと思うの」

 そう怒り口調で、今度は僕を睨みつけていた。

「何しにきたの」

 みちかにとっては、僕も敵の対象になったのだろう。今日、あんな事を言ったのだから当然だ。

「みちか、ごめん」

 心を込めてそう言ったが、みちかは相変わらず怖い顔をしていた。

「守田くん、私の事嫌いなんでしょ」

「確かに最初は嫌いだったかも。だけど!」

 今は、君の寛容な心に惹かれてしまっている自分が確かにいた。君の強くて可哀想な所に惹かれてしまっている自分がいた。

「僕、みちかともうちょっと一緒にいたい」

「それ、本心? 何か証拠をみせてよ」

 は、証拠、そんなものあるわけねーじゃん。心の働きなんだから。

 そう心の中で愚痴っていたら、みちかは、不貞腐れ顔で、手を両手に広げた。

 あ、証拠って。

 僕は、みちかに近づき、手を背中にまわして、力強く抱きついた。女子特有の香水の匂いが、つぅーんとした。

 抱きついた瞬間、みちかの体の力が急に抜けた気がした。

「せいや、離して。痛い」

「あ、ごめん。ちょっと強すぎた」

 みちかは僕の方に顔を向け、にっこり笑った。

「一緒にいたいって気持ち、伝わりました」

 その言葉を聞いて、心臓がドクっと鳴った。

 あれ、みちかってこんなに可愛いかったっけ? 

 僕ったら、本当に彼女の事、何も見ていなかったんだな。

「みちか、あの、できれば……」

「はぁー! 甘酸っぱい!」

「おいバカ、うるせぇよ!」

 どっかで聞いた声が教室の入り口から聞こえてきたと思ったら、にいさとまさきがこちらを見ていた。

「恋愛ってこんなに素晴らしい物だったのか! 僕もしてみたい!」

「お前ふざけんな! せっかくのいい感じの空気が……せいや、みちか、すまん、もう俺たち出ていくから」

 そうまさきはにいさをの肩を強引に引いて、どこかへ行ってしまった。

 みちかは顔を赤らめ、下を向いていた。

「僕の友達が、なんか、ごめん」

「いいよ。滝本くん、変わっているよね」

 滝本は、にいさの苗字だ。

「よし、どっかご飯食べにいこうか」

 教室を出ようとしたら、みちかに腕をつかまれた。

「もうちょっとだけ……もうちょっとだけここにいない?」

 みちかがもじもじしているのを見て、僕の顔がすぐに熱くなるのを感じた。

「いや、帰る! 言っとくけど、僕たち、恋人じゃないからな」

「えー、私に抱きついたのにー?」

「それは、証拠見せろって言われたからだし、そもそもお前が誘導していただろ」

 次、にいさとまさきに会った時、どんな反応をしようか。

 

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